1章 さくらはなえだ(11)

「やあ」

 彼女はぴたりと動作を止める。この声は。

「久しぶりですね」


「あっ……」

 彼はゆっくりと起き上がり、震える彼女の手を軽く握った。指先はすっと冷えている。


「やっと妻訪いができる……。本当に長かった」

「一体……」

 彼女は混乱して後退さる。どうして鶯の君が? 今日いらっしゃるのは詮子さまの弟君ではなかったの?


「どうして、貴方が……」

 何故って、と彼は笑った。

「それは新郎だからでしょう」

「だって、それは摂政さまのご子息で……」

「うん」

 はっとして、彼女は自由な方の手を頬に当てた。


「もしかして、貴方が……、新少将さま……?」

 え、と驚くのは今度は道長の方だった。

「あれ、知らなかった? 兄君から聞かされているものとばかり……。私はずっと兄君とは一緒の官職で……」


 彼女は首を振る。兄が誰と仕事をしているかなど、彼女は興味もなかったし、知ろうとも思わなかった。この一年で道長の官職は目まぐるしく追加・変更され、世間に疎い彼女には、到底追いかけきれるものでもなかったのだ。


「そう……」

 彼女の肩から力が抜ける。

 では諦めなくてもよかったのだ。耐えなくても、忘れなくても……。この人が、夫になるのなら。

「そうなの……」


 ぽろぽろと涙が零れて来て、彼女はどれほど自分が我慢をしていたのかを悟った。泣き出した彼女を前にして、道長は慌てる。

「どうかしたの。もしかして、そんなにイヤだったんですか。それとも怖くなって」


「どうして……」

 彼女は涙声で彼を責めた。

「教えてくださらなかったの……。文の字は見覚えはないし、使いの方も前と違うし……。私……、私は」


「あ、いや。姉上が他の公達と比べて見劣りがするとおっしゃって、代筆を……。俊賢殿の知り合いに能書がいるというので、その、新しく兵衛佐になった行成殿に依頼してですね……。ね、上手いでしょう、彼」

 彼は焦って釈明にならない言葉を連ねる。


「使いは、あの、高雅といって貴女とは遠縁に当たるのですよ。いろいろと気が利いて実直な男ですし、ほら、同じく醍醐帝を祖に持つ者ならご安心なさるかと」

 知りません、わかりませんと彼女はさらに首を振る。

「私……、鶯の君の書蹟が好きです」

 ふだんの彼女からは考えられないくらい、はきと断言する。

「温かくて、いつも真摯に書いてくださった……。どうか、私には人の字などでお送りにならないで……」

「あ……。うん。はい」


 この暗さでは造型など、詳細に見えはしない。けれども、つい彼女の両腕を捕らえた間近さから、馨しい彼女の体臭は感じられる。

 きゅっと胸が締め付けられた。


「あの小鳥の名で呼んでいたんだね」

 ええ、お名前がわかりませんもの、と彼女は袖の端で頬を拭う。その手を取って、彼は指に口づけた。


「もう私の名はおわかりでしょう。どうか、そちらで呼んでください」

 道長さま、と彼女は上目遣いに彼を見つめる。うん、と彼は幸せそうに頷く。そう直接呼んでくれる日が、どれほど待ち遠しかったか。


「貴女は。名を教えてくれませんか」

 彼女は頬を赤らめる。人に、自ら名を教えたことはない。むろん、彼は彼女の名前を知っている。女叙位を受けている彼女の名は公文書に記録されてもいる。けれど、彼女の口から伝えて欲しい。


「もし、教えたくないのでなければ、だけど」

 彼女は恥らいながらも、いえ、と否定する。

「明子です……。道長さま」


 それが聞きたかった。

 彼は壊れやすい細工にそうするように、そうっと彼女を抱きしめる。少しびくりとして怯えを見せたけれども、彼女は大人しくそうされていた。

 今は、逃げない。


「長かったなあ……」

 静かに、彼は新枕の褥へ彼女を横たえる。抱きしめた柔らかい感触を、朝までだって味わっていたかった。

 いや、そんなわけがあるか。

 彼は、彼女の白いうなじに唇を寄せた。


 この女が恋しくて。欲しくて。胸を焦がして何夜もまんじりとしなかった。やっと自分のものにできる。

 ふっと彼は笑い声を零した。彼女は不思議そうに彼を見上げる。

「いや……。これからは天を羨まなくてもいいんだな、と」

 そうだ。天の方が自分たちふたりを羨めばいい……。


 互いを確かめるのに夜は時間足らずで、睦言に終わりというものはない。明け方、そろそろ太陽が顔を出すぎりぎりの頃合まで閨で姫君を我がものにしていた道長は、放り出しそうなほど苛立った乳母に急き立てられ、ようやく南院を後にした。

「いくら想いを残して帰るものといっても、限度があります!」


 明るくなってから帰したとあっては養い子の名折れになる、と彼女はぷりぷりしている。伊勢とともに徹夜で逢瀬の番をしていた宣旨は眠気をかみ殺しながら、「ご寵愛が深くてよろしいことじゃございませんか」と面白がっている。ふたりの会話をうつらうつらしつつも耳にして、明子はとても恥ずかしかった。

「それは、まあ、初夜ではありますが」


 しかし、あの調子では今宵もどうだろうか、と案じたように、二日目の夜も同じような仕儀となり、伊勢は道長を叩き出すようにして帰らせたのだった。

 彼の方は呑気なもので、「明日は、この怖い乳母に追い出されないかと思うとほっとするね」と軽口を叩き、帰り支度を済ませたというのに帳台に入って明子に口づける、という余裕を見せた。明子はくたびれているやら、決まりが悪いやらで、どうしていいのかわからない。


 そんな初心な姿も、また彼にとっては愛おしい。

 三日夜の餅を口にして四日目の朝を迎えると、彼は正しく夫になる。すっかり陽が上がってから朝日に起こされた明子は、同じく光で目覚めた道長としばし静かに見つめ合い、一緒にいられることの喜びを分かち合った。


「おはよう」

 嬉しそうに微笑む彼は、優しげだ。陽光と彼の目を避けて衾に隠れようとする彼女を、捕まえて離さない。兄弟たちがやってくる前にもう一度……、などとしているうちに、複数の足音が響いて彼は仕方なく中断した。


 この日、彼が身につけたのは密かに愛宮から届けられた狩衣である。表立って母親役をすることは叶わないけれども、せめても、という彼女の願いを詮子は先回りして段取りをつけてくれた。明子は義姉となった皇太后の心遣いに感謝した。


 露顕ところあらわしが終わっても、必ずしも夫婦が共に暮らすとは限らないのが世間一般なのだけれど、道長は翌日には住まいを改めてしまった。とはいっても、距離としては隣り町への引越しではあるのだが。


 当分は通いを続けさせて、と思っていた詮子は里第に弟が居座るのでは邪魔で仕方がない。そもそも南院は東三条第と並び、兼家一家や外孫である一条帝、冷泉帝皇子たちがさまざまな行事に使う場所である。これから東宮の弟君たちの行事も控えている。それにかこつけて、振られた形の道隆が、ちくちくと詮子に当てこすりを投げてきていた。ちなみに道長の方は、言われてもまったく気にしていない。


 そんなに共寝をしたいのなら、さっさと新居に移りなさい、と予定を前倒しにして、新婚夫婦は高明が所有していた高松第に転居することになった。そこも南院とは三条坊門小路を挟んだ南にある邸第なので、詮子としてはふたりを置くのに不都合はない。


 道長は東三条第の曹司から私物を持ってこさせ、すっかりそこに居を定めてしまった。通例からすると早すぎるほどの同居だった。

 高松第には愛宮や明子に古くから仕える家人たちが中心に配され、詮子からは必要なときだけ使いが来るようになった。ふたりが出会うきっかけになったかまちも、もちろん顔を揃えている。そればかりか、夫の世話をする明子を助けるために、ときおりは愛宮が滞在するようにもなった。


「あの鶯を逃がした女童、かまちと言ったね」

 神無月の末、桜の枝を弄びながら、閨で彼がおもしろそうに言った。その作り物の枝は、家の者たちが塗籠で見つけたという。高松第は古い邸宅だというので早めに年末の準備を始めており、それは昔の唐櫃で発見された。雑事ではあるけれど、宝を探しているかのように男童や女童たちは楽しんでいる。


「私のことを、桜の少将と呼ぶんだよ」

 だから、少女はその枝を彼に持ってきたのだそうだ。あのときは、まだ少将ではなかったけれどね、と訂正しつつも彼はまんざらでもなさそうだ。


「忘れられない、桜でしたもの」

 彼女も肯定する。それは私の方だ、と彼は思う。

「君こそ私の佐保姫。いや、木花咲耶姫かな」

 いやな方、と彼女は彼をつねる振りをした。安心して甘える姿態は、しっとりとして色っぽい人妻のものだ。


「命短い女神より、姉姫の方になりとうございます」

 こんな可愛らしい磐長姫がいるものか、と彼は腕に閉じ込めた彼女をぎゅっと抱きしめる。

「来年の春には、また桜で埋め尽くそう。呼び名に負けないようにね」

 彼女は乱れた彼の鬢を撫でた後、そっと胸に頬寄せた。


「ええ。桜の挿頭かざしはきっと殿にお似合いです」

「なるほど。君に挿頭すのでは、花も自分を恥じ入ってしまうだろうからね」

 そんな、と彼女は赤面しつつも、彼の言葉が嬉しかった。そう思ってくれる心が。

 次の春、彼は忘れずに屋敷を桜でいっぱいにした。どうだ、私は約束を守る男だろう、と得意げになって。


 彼女が手づから挿頭した桜の枝は、青年少将の彼をよく彩った。夫は彼女の、桜の少将だった。

 明子は幸せを覚える。自分の幸運を天に感謝もした。


 ほとんどの女は、恋を手に入れられない。一度は身近にあっても、幻のように消えうせてしまう。恋を抱きつつけて恋人を夫にできる女なんて、本当にごく僅かだ。

 自分はその数少ない女であったのだ。


 なんと幸いなことなのだろう。

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