1章 さくらはなえだ(10)

 忌みである長月があけて神無月になると、婚儀に向けて南院は忙しくなった。南院の東対には塗籠ぬりごめがない。母屋の二間を区切って塗籠とするとともに、婿取りのために調度を整える。

 後見たる詮子は本来ならば同居して監督するべきではあるけれども、息子が即位して間もないこと、相手は隣の町に住む実弟でもあることから皇太后の宣旨せんじが名代をしている。


 彼女は詮子の異母姉に当たる女性で、兼家の妻のひとりである藤原倫寧女ふじわらのともやすのむすめが養女としていた。残念ながら后がねにはなれなかったものの、美貌と文芸の才で知られた倫寧女がきっちりと仕込んだだけあって、詮子の上臈女房じょうろうにょうぼうとして出仕してからは異母妹の住まいや持ち物の選別・調整はすべて彼女が取り仕切っている。


 血統を辿れば曽祖父は清和帝皇子・貞元親王に行き当たる、卑しからぬ出自の女ではあるが、生まれてから倫寧女が見つけ出すまで行方不明とされていた。彼女は兼家の子どもたちのなかでは比較的柔らかい当たりの人物だ。引き取られる前は大変苦労をしたらしく、良い縁談もないではなかったけれど、自分は教養と才覚で身を立てたい、と敢えて妹に仕えることを選んだ。


 そんな女性が言う「良き殿方と出会い、子を多く授かることが幸せには肝要ですよ」という主張は納得できる部分もあり、承服しかねる部分もあった。自分自身は、家に収まる人生を選んでいない。不満そうな明子を察して、彼女は衣装を取りながら、ふふと笑った。


「姫君は繊細でお優しい方ですもの。私のようにひなの地で逞しく育たざるを得なかった女とは、話が違います。内裏に出仕なさっても、きっと心がくたびれてしまいますわ。あちらはとても誘惑が多いのですよ。とても危険な殿方がわんさといるのですもの」


 人には生きるに適した場所がある、と彼女はまとめた。それが、摂政末子のかいなということなのだろうか。彼女の言い分では、明子は大変に幸運なのだそうだ。今を時めく皇太后の後押しを受け、兼家嫡流に残された最後の独身の息子と結婚する。他人ごととして聞くなら、明子だとてそう考えるだろう。


 幸運だからといって、幸せとは限らない。


 彼女にとって幸せは、思いがけずやってきた桜の使者だったり、季節の初めに真っ先に送られてくる旬の花や果物だったりした。


「その……、物語や絵巻では互いに求め合い男女が契るものだけれど、それは幸せではないのでしょうか」


 ふと疑問を口にする。宣旨は詮子から送られてきた華やかな衣を置いて、呆れたような、寂しいような何とも言い難い表情をした。


「それは恋です。恋は煌くようなものですけれども、恋人を妻にするのは愚かな男のすることですよ」


 左大将のためしがありますでしょう、と宣旨は呟いて目を伏せた。といえば、閑院に邸第を有する藤原朝光ふじわらのあさてるのことだと、京の女たちならすぐに思いつく。朝光は兼家の兄・兼通の嫡子なので、詮子や宣旨らにとっては従兄になる。


 彼は、代明親王三男で枇杷大納言とも呼ばれた源延光が亡くなると、その北の方に通い始めた。それ自体はさほど珍しいことではない。人々が眉を顰めたのは、相手の女性が母親といってよいほど年上だったせいだ。朝光には重明親王息女というきちんとした正妻があり、子どもたちの数も多かった。


 明子も、噂話が好きな女房たちから漏れ聞いたことがある。曰く大変な資産持ちだとか、曰く希代の恋愛上手なのだとか。事実は知りようもない。

 ただ、周囲の品評など全く意に介さず、朝光は未亡人の許に通い続けた。馬内侍うまのないしなどといった数多くの美女と浮名を流す貴公子だった関係もあって、どうせ好き者の気まぐれと面白半分に見物していた人々は、予想を裏切られることになった。

 数年来、彼はふたりの女性を北の方として遇し続けている。近く仕える者の話では、心は枇杷第の方にあるらしい。もう彼女を「枇杷大納言の未亡人」と呼ぶ者はいない。


 そのせいで、彼は立身の芽をも摘んだ、と一部には評される。

 今年一条帝が立つまで長く大納言に上がれなかったのは、父・兼通が早世した影響であって、婚姻とは関係がないだろう、とは明子にも察しがつく。実にあるまじきこと、と古参の女房たちが口にするとき、僅かに羨望が混じっていることも見逃しはしなかった。


 大きな利点がなくとも、年老いて衰えようとも、周りの声など気にかけもせずに長く長く愛し続ける……。朝光のような色好みにそんな恋ができるとは誰も想像だにしていなかった。それも幸せというのだ。女たちは知っている。ただし、非常に手に入りづらいことも。


 でも、口にしては。欲してはいけないのね。


「それに恋は色あせるものですからね。姫君には、物語の良い面しかお見えでないのでしょう」


 それも事実だろう。男のつれない態度のせいで泣いている女はたくさんいる。彼女の父はどちらも女性が少なかった。実父も妻が次々と亡くなったりしなかったら、養父のように北の方ひとりを守ったに違いない。きっとそんな男は例外中の例外なのだ。


「少納言様はどんな方なのでしょう」

 明子は気持ちを切り替えた。恋はできなくても、尊敬はできるかもしれないのだから。


 まもなく左少将様ですわ、と臨時の除目によって重ねられた新しい任官名を告げ、衣を明子の袖に合わせながら、宣旨はにっこりと微笑む。はっきりとした黄菊襲きぎくのかさねは華やかな明子の姿によく似合っている。蘇芳と黄はともかく、青はどうだろうと多少心配だったけれど、二十歳を超えた明子には抑え目のいろもちょうど良い。詮子の見立てはかなり的確だ。


「大変朗らかで楽しい方ですわよ。姉君に大層愛されておいでで。などと身内の褒め言葉は大抵割り引いて聞くものですけれども、新少将についてはその通りに受け取ってよろしゅうございますわ」


「そうですか。そういえば、お書蹟も優美でいらっしゃっいますね」

 は、と宣旨は目を丸くして、堪えきれずに袖で口元を押さえた。


「それは……。そちらはお忘れになってよいかと。もし、四条中将藤原公任のような方を想像なさっていたら、びっくりなさいますわよ」

 うっかり笑い声を零してしまい、私としたことが、と宣旨は無作法を詫びた。四条中将といえば小野宮の貴公子だ。明子はよくは知らない。愛宮の異母姉でそちらの家に引き取られた者がおり、稀に文を取り交わしているらしいけれど。


 背の君となるのは、どういう方なのだろう。

 彼女は首を傾げた。どうやら姉たちに愛されていることは確からしい。それならば、悪い人ではないだろう。


 最初から、桜と鶯の出来事は胸にしまって尼になろうと決めていたのだ。人の妻になっても同じこと。

 恋と、結婚は別……。


 懸想文を返してから様子見程度の軽い訪問があり、次に消息文が送られて初夜そやの運びとなる。そこまでの対応では返事を書くこと以外、乳母の伊勢と宣旨が仕切っており、彼女は夫となる人の衣擦れすら聞くことはできなかった。他人事のように、次第は進んでいく。


 その日、暮れて邸内に灯りが点されてしばらく、北の方から人のざわめきが聞こえてくる。母屋の南側にある居間で、そのときを待ちながらも彼女はそわそわと落ち着かず、救いを求めて伊勢を見上げた。

「お綺麗ですよ、姫さま」


 彼女の戸惑いをどう受け取ったのか、涙ぐみつつ乳母は彼女の髪を撫で付ける。その場にいられない愛宮の代理として、伊勢はきちんと見届けるつもりでいた。


 やがて松明を手にした数人の男たちが階の辺りまでやってきて足を止める。くつを脱いで上がったのだろう、男たちの雰囲気が変わった。沓取り役をできる両親はいないので、盛明親王の嫡子であり、血縁上は明子の従兄である源則忠みなもとののりただが妻とともに代役を務めることになっている。俊賢も彼女の兄ではあったが、明子の籍は正式には未だ親王家にあり、年齢的にも四十がらみの則忠が相応しいといえた。


 この結婚は兄上たちの恩為にもなる、と彼女は勇気を奮い起こす。それは貴族の娘として生まれた者の責務だ。


 段々と男君が近づいてくる。南の広廂を越えて、壁几帳で区切った寝所に足を踏み入れた。帳台の帳を上げる、ばさりという音がして、次に帯を解く音が微かに届いた。彼女は自分の耳が鋭くなっていることを知る。


 もう、逃げられない。

 逃れようなど、考えもしなかったけれど、本当は連れ去って欲しかったのだ。物語の姫君たちが皆そう恋人に願ったように。


 できるはずもないことだった。

 だから、あれらは物語なのだ。


 男の準備が整ったことを確認し、宣旨は明子の手を取って立ち上がるように促した。背中に回った伊勢は彼女の五衣いつつぎぬを脱がせて、小袖に紅の袴姿を露わにする。女房たちによって寝所と居間とを隔てる御簾が掲げられ、明子は宣旨の先導によって帳台ちょうだいに誘われた。


 東対のあちらこちらに灯火はあるものの、寝所の周辺には明かりはない。帳を降ろすと、暗闇に近くなる。居間を灯す紙燭しそくに目が慣れていたせいもあった。


 明子は戸惑いながらも、膝行しっこうして夫となる男の側に寄った。彼は夜具であるふすまを掛けて畳の上で横になっている。息遣いが遠いのは、背中を向けているからだろうか。衾を持ち上げて彼女が中に入ろうとすると、立て肘を付いていた彼はくるりと身体を反転させた。

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