1章 さくらはなえだ(9)
そろそろ上級貴族の子弟として目を覚まさせてやらねばなるまい、と姉は思った。この先長い治世、できるなら彼女は兄よりも弟を選びたいのだから。
「すでに兄上には充分な数の娘がおられる。小野宮殿は関白を降りられたし、嫡子の
詮子が入内した円融帝は十五年もの年数を帝位に在ったが、ついに子どもはひとりしか生まれなかった。三代前の冷泉帝の皇女はみな鬼籍に入り、その前の村上帝では
「あなただって四条中将と比較されて、不愉快な思いをしたことがあるでしょう。兄上だって同じなのよ。あの方は、自分の格を高めたいの」
明子の母、愛宮は祖父・師輔の娘であると同時に、醍醐帝の皇女であり伊勢斎宮を務めた雅子内親王の娘でもある。父の高明は、言うまでもなく醍醐帝の皇子。彼女の身体には、醍醐帝からの皇統が濃く流れている。
「先日、南院で東宮の元服をおこなうというので、一時女王を内裏に同行したのだけれども、その際に帝に琵琶をお聞かせする場があったのよ。母の後見ならば義理の姉弟のようなものでしょうと、帝がご所望になって」
明子の実父・高明は琵琶の名手・
また微妙なことを、と道長はひやりとする。内裏に連れていって楽を奏でさせるなど、女房扱いしていると揶揄されても不思議はない。
「そのとき、兄上が近くまでおいでになっていてね。大層、彼女の琵琶を気に入っておられたわ」
やはり道長は憮然とした。高階の妻も琵琶は得意だと聞いている。貞保親王から源脩へと綿々と伝授された琵琶の手に、実物以上の憧れを感じたのだろう。わざとではないのよ、という姉の言い訳も信用ならない。
私だってまだ聞かせてもらっていないのに。
「軽々しく琵琶を聞かせるなど、姉上もいかがなものかと。口さがない者らが何と申すか。あるいは、帝の
「それも悪くないわね」
あけすけな弟の嫌味を、平然と彼女は切り返す。
「ともあれ、女君の格は求める男君の数と質で決まるもの。それが風流を凝らした雅びな文であればあるほど、名は高まるものでしょう。わかったらあなたも私に当てつける和歌などでなく、きちんとした文を寄越しなさい」
了見違いを起こして順序を誤ったりなどしたら承知しませんからね、と彼の目論見を牽制しつつ、苦言を呈するのも忘れない。
「それに、あなた、字がだめね。誰かに代書させたらどうなの。他の殿方とは、見劣りします」
ぐうの音も出なくなって、道長は姉の許から退出した。書蹟が不得手なのは事実その通りだ。悪筆な公達は気軽に代書を使うけれど、彼は今までその経験がない。
「俊賢殿に心当たりを聞いてみるか……」
見上げる夕刻の月は、たなびく雲の合間に隠れようとしている。月までつれないようだと、彼はぼやいた。
片や東三条第の南院に住まう明子も、先行きの見えない不安を抱えて、ひとり心を悩ませていた。
春には鶯の君との縁談が進むものと思っていたのに、養父の薨去という不幸に見舞われ、結婚はおろか、これまでの生活そのものがひっくり返ってしまった。優しい叔父の不在が悲しくて、将来が恐ろしくて四十九日の間、彼女は涙に暮れていた。
しかし、予想外の事態はそれで終わらない。重い服喪が明けて薄い鈍いろの衣に着替えようとする頃、嵐に攫われるようにして東三条第に連れ去られてしまった。
「今日から、私があなたの後見を務めます」
そう皇太后・詮子に言われても、どういうことなのか、さっぱりわからない。母からは追って彼女を宥める文がやってきた。愛宮にしてもこれは突然の出来事で、一条帝の即位という急な出来事で混乱するなか、詮子が好機と見て独断で進めたことだった。
理解できたのは、母と叔父とで主導していた縁組は、いつの間にか詮子の采配に変わっていること。それから逃れる術はない、ということだった。
それでもしばらくは良かった。詮子は後見を明らかにしたのみで、当分は登極した息子の周辺に取り掛かりだったからだ。彼女はせいぜいが、詮子がひけらかすための美しい花飾りだった。付き合いは絶えてなかったものの、詮子とは従姉妹同士でもあり、恐れ多くも帝の遠縁として、琵琶を弾くのも嫌ではなかった。
それも長月までのこと。秋に入ると、堰を切ったように動きは活発になる。詮子は、文を二、三ほど渡して、それらに返事をするよう指示をしてきた。
「本当はもっとたくさんの文がありましたのよ。それはもう錚々たる方々からの」
使いに立った詮子腹心の女房は、誇らしげにそう付け加えた。彼女に言わせれば、これほど多くの殿方に求められるなど、女冥利に尽きるというもの、だそうだ。明子には、そうと受け取れない。
美しいかな文字で認められた結び文を開きはするけれど、懐かしく温かい彼の字は見当たらない。皇太后の後見ともなれば、相当な家柄でなければ文も寄せ付けないだろう。あの方は、諦めてしまったのだろうか。
使者がいなくなると、彼女はこっそりと隠し持っている彼からの文を広げて胸に押し当てる。どのくらい、便りがないことだろう。
言葉にはしなくても、ずっと母が彼女を尼にと考えていることはわかっていた。彼女と過ごした短い時間のなかでも、愛宮は「俗世で生きるには女の身はつらすぎるものです」と幾度も零した。母親の人生を振り返ってみれば、それは掛け値ない真実で彼女には慰めようもない。その母は、今や反転して「心をしっかり持って。夫となる方を信じるのです」と娘を説得する。
彼を知らないうちに、出家するのならよかった。出会う前に、誰かと娶わせられるのなら、まだ。
想いが生まれてから、その心を殺して生きるのは苦しすぎた。
「姫さま……」
乳母とともに彼女に付いてきた女童のかまちが、人気が無くなったことを確認して入ってくる。
「これ、あの方が」
袖から、そうっと葉のついた実葛の実を取り出す。細い茎には緑いろの布が結わえてあった。
「それは……。兄上ではなく?」
かまちも、もう兄君と鶯を捕らえた男が別人であることを知っている。姫君に新しい後見ができて以降、「妙な男を近づけるのではないのですよ」とより厳しくなった伊勢に言い含められているせいで、悪いことをしているのではないかとためらいながらも少女は頷く。
簀子で蜻蛉に手を伸ばしていた彼女を見つけて、「姫君に渡しておくれ」と頭を撫でた若者は、初めて見たときと同じで悪い人ではなさそうだったからだ。
「桜枝の君でした」
明子は、懐紙を広げて実葛を受け取る。膝のうえで広げた文には、和歌の上の句が記されていた。
「名にし負はば……」
彼女は両の袖で贈り物を包みこむ。
―― 誰にも知られず、貴女を連れ出すことができたら。
三条右大臣の有名な恋歌だ。
彼は想っている。彼も想っている。
心は伝わった。けれども何ができよう。喜びは、すぐに憂いになる。彼女は、絶望のため息をついた。
道長は、明子を悩ませていることにはまるで気付かず、姉の態度にやきもきさせられ通しであった。よもや兄に彼女を許すことはないだろう、と信じながらも、確証はない。俊賢をせっついてみても、「私にも特に打診はないのだよ」と逆に困った顔を見せられた。
「継母上には、それなりに伝えられているだろうけれど」
ならば探ってくれと頼むと、彼は「勘弁してくれ」と天を仰いだ。新人事で多忙になったのは道長ひとりではないのだ。任官の報告に上がって以来、俊賢も桃園には足を運べていなかった。
やはりここは実力行使か、と道長の脳裏に不採用案が再浮上し始めたころ、ようやく詮子の許しが降りた。弟に発破をかけてから、実日数としてはさほど経っておらず、待たされたと思っているのは道長のみなのだが、これ以上は短慮を起こすかもしれない、という姉の判断だった。彼女は、東三条第と南院の状況をよく把握している。
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