1章 さくらはなえだ(8)
前からそれとなく父たちが話していたとはいえ、まさか二年に満たず引退になるとは、道長も思ってはいなかった。
二十一歳の彼は未だに少将ですらなかったし、父は主に長兄と三の兄ふたりとに重大事を相談していた。道長は同母の兄よりも、冷酷さと計算高さに欠けるが温和な異母兄・道綱とつるんでいることが多い。道綱は母が違うことなど気にせず、この弟を連れて遊びに出ることを厭わなかったのだ。
当日になるまで、「今日は出かけずにおれ」と命じられた彼は、よもや花山帝の出家を関白・頼忠に伝える使者役をするとは考えていなかった。けれども、物々しい姿をした摂津の源氏たちが闊歩している様を目にして、これはただごとではない、と即座に察した。目端が利くのは末っ子ならではの観察眼である。
蔵人・道兼が立役者となり、兼家はまんまと邪魔な今上帝を退位に追い込み、外孫である東宮の即位へと漕ぎ付ける。兼家の兄ふたりはいずれも六十を超えることがなかった。兄の享年を五年も前に抜いた兼家は、孫の成長を悠長に待っている余裕はなかったのだ。
道長は伝令を申し付かったけれど、自分を重視してのことではないとわかっていた。頼忠からすれば花山帝とは血縁は薄いけれど、兼家の孫たる東宮よりはよい。この強引な交代劇に憤りを感じずにはいられまい。けれども、兄たちならいざ知らず、道長は事情など聞かされてはいないだろう若造。八つ当たりするにも限界があるというものだ。
事件の中心ではなくとも渦中に置かれたため、彼は父や兄の指示の下さまざまに立ち回ることになり、あっという間に数日が過ぎる。ふと気付くと、明子の喪は明けていて、姉の暮らす南院が騒がしくなっていた。
当初は即位した息子のための支度やら何やらかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。どちらにも出入りする下仕えの男を捕まえて事情を尋ねると、東の対に姫君を迎えたのだ、という。
詮子は、自らの屋敷に明子を転居させていたのだった。
陰謀も囁かれる、あまりに不鮮明な経緯の退位があった後だったので、それほど大きな噂にはならなかったが、心ある人は首を傾げた。記憶は薄れたとはいっても藤原氏北家に追い落とされた高明はまだ忘れ去られていなかったし、その凋落によって現在の栄華があるともいえる兼家の娘に明子が引き取られるとはどうにもそぐわない。それに、詮子はいよいよ国母になった。この機会に、一体どこからの風の吹き回しだろう、と。
どんな合意があったのか、道長もそれは知らない。知らないけれども、ひとしきり驚いてしまうと、道長は「そうか、これは姉上の配慮か」と膝を叩いた。然るべき身分の亡き養父に代わって詮子が後見するとなれば、文句のつけようもない女君となる。兼家嫡流の子息が求婚するに、充分値するだろう。
東三条第の南端に位置する南院は別邸の扱いであり、本邸ほど大きな建築物ではない。それでも寝殿に東西二対を擁しており、詮子と東宮が滞在するというので、人員は多めに配されていた。明子は、その東の対に移され、相続したばかりの養父、それに実父からの遺産をまとめて管理するために、わざわざ家司まで新任して置いているということだった。
即位したばかりで忙しい時期の
このような騒ぎ続きで、一体いつになったら妻訪いができるのだろうか、と彼は焦燥感を高めた。
けふとだに契らぬ中は逢事も雲井にのみも聞渡るかな
――
姉に見つかってもいい、と贈った和歌は確かに届きはした。しかし、誰に止められたのやら、あるいは握りつぶされたのか。彼への返事はなかった。
解せない気持ちの彼ではあったけれども、そういう自分も暇ではなかった。居貞の元服に続いて、東宮・懐仁の即位の儀があり、その支度で手一杯になる。花山帝の儀式からそう隔たってはおらず、前回の教訓が活かされるのはまだしもであった。
先帝の出家に伴い、何人かの側近が後を追った。そのため、葉月に入って臨時の叙位がおこなわれる。新帝の蔵人となっていた道長は少納言を兼任することが決まった。兼家は少将にさせたがったが、衛門佐になって長い俊賢が先ではとの公卿の意見もあり、愛宮の手前もあって追い越しはどうにか自重したのだった。
新しく任じられた蔵人職の多忙さは、他の職掌の比ではない。急激に仕事量が増えて、道長は覚えたり、こなしたりするあれやこれやで頭を占領された。やっと一息ついて周辺を見渡すゆとりができた頃、季節ははや長月に入っていた。
当月は、忌みである。明子は南院に戻っていた。
目と鼻の先にいるせいで、情報は正確かつ豊富に入手できる。しかし、姉からは何も言ってこない。新帝・一条の御世も落ち着きを見せてきたせいか、明子の許へ、我は、と思う男たちが文を遣わしているらしい、との懇意な女房の報せだ。どのみちすべて詮子が回収しているそうだが。そのうちのひとりに、長兄・道隆がいると聞いて、彼は憤然とした。
道隆はこのとき三十四歳。認めた分でも十人ほどの子だくさんで、今も通いどころはひとつではない。一応は内侍を務めた高階の女を主な妻としているものの、恋の相手は数知れない、父親譲りの色好みである。その兄が目をつけたと思うと苛つきを止められない。
どうせ浮ついた色心だろう。
他にあり得ない、と彼は断じた。道隆と詮子の関係は、それほど円満ではない。まず通いを許可することはないだろうが、何といっても重代の邸第である東三条第を伝領するのは道隆と決まっている。どういう力技で思いを遂げるか、知れたものではない。
こうしてはいられない、と彼は慌てて形式に則り、後見の詮子に文を送った。が、音沙汰はない。業を煮やした彼は、これ以上は我慢の限界と南院に仕える女房のひとりに近づき、勝手に手はずを整えようとした。
離れていても、弟の動きを放置する詮子ではない。待っていたかのように、彼は姉に呼び出される。内裏に参上した彼は、至極不機嫌な姉と対面することになった。
「ねえ、おまえはばかなの?」
開口一番厳しい言い草は、母の膝でともに育った幼き日の姉そのものだった。
「それはひどすぎます、姉上」
道長も憮然と言い返す。
「事実でしょう。ひどいのは藤少納言、おまえよ」
彼はむっとした。約束を果たしてくれないのは、彼女の方なのに。
「何のために女王を引き取って、この私が
きっと睨む彼女の鋭い目が、御簾越しに感じられる。生まれた日から叩き込まれた「この姉に逆らってはならない」という知恵が、久しぶりに頭を過ぎる。彼女は、はしたなく怒りすぎたと気付いて、居住まいを正した。
「あなたがうかうかとしている隙に、どれほどの貴公子たちが文を寄越したか教えてあげましょうか」
ばさり、と紙の束を広げる音が聞こえた。
「兄上も……。そのひとりとか」
詮子は、あら、と嗤った。
「今頃気付いたの。
彼は唇を噛んだ。本当に、兄は手回しがいい。
「随分と悔しそうだけれど、兄上は好色ゆえの懸想、などと思い違いをしているのではないわよね?」
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