1章 さくらはなえだ(7)
そうと決まれば、と彼女はさっそく古女房に愛宮への伝手を訊ねた。叔母の許に伺候する忠実な家人か女房のなかに、父の使っている者の縁者が必ずひとりはいるはずである。叔母が娘の縁談にためらうことはわかっているので、信頼のおける仲介人が必要だった。
次代の国母ともなれば、動いてくれる人間の数が違う。翌年、寛和二年の春、道長は特に何の昇進もなかったけれど、如月も末の頃、俊賢を通じて盛明親王から梅見の誘いがあった。姉上の威光か、と道長は感心する。やはり、あちら側で好意的なのは大臣の経験もある盛明だった。しかし、早合点は禁物だ、と俊賢には忠告された。
「君の人となりを直接確かめたい、とお考えのようだよ」
つまり、まだ手は出せないということか。道長は逸る心を抑えた。ここでこじらせては元も子もない。どうやら、これは叔母・愛宮に向けた演出であったらしく、宴は滞りなく終わりに向かった。
梅の枝は南廂に置かれた水壺で咲いていた。けれども、寝殿と東対を繋ぐ渡殿の前にも見事な古木が花を綻ばせている。馨しい香りは、主にその紅梅から流れ出ていた。
「あちらの梅も美しいものですね」
花を褒めつつも、瞳はその向こうにある東対に住む人を望んでいる。正式な招待で参上したのだから、随分な進展だとは頭ではわかる。それでも彼には遅く感じる。
「鄙住まいが、幸い花には恵まれていてね」
親王は謙遜しつつ、暗に娘の美しさを強調した。
「それは、ぜひ次の機会に拝見したいものです」
無難に受け合って、彼は屋敷を後にする。東対の近くを行過ぎるとき、複数の衣擦れの気配がした。姫君付きの女房たちがこっそり覗いているのだろう、よくあることだ。右大臣子息がやってくると聞けば、好奇心は抑えきれない。
「梅といえば、人はいさ、というけれど」
彼はため息をつく。姉に依頼してからというもの、俊賢を騙ったやり取りも以前よりは難しくなっている。明子の周辺に注目が集まり易くなっているせいだ。
この数多くの視線に、彼女は含まれているのだろうか。
僅かでも接点が欲しくて、彼はぼんやりとそんな想像をした。当の明子は奥に引きこもってしまい、彼の歩く音すら耳にしないでいる。
「姫さま、ほら右大臣様の末の方ですわよ」
軽薄な青女房がそう誘ったけれども、「男君のように、垣間見なんて」と彼女はふいと顔を背けてしまう。だって姫さまの背の君になられるかもしれないのに、と若い女房は不服げだ。
明子の不機嫌はまさにその噂のせいで、周囲が「ついに姫さまもご結婚なさるのだわ、そうに違いないのよ」とはしゃぐほどに、
季節はゆっくりと春になり、また桜の花咲く頃合になった。盛明が軽い風病にかかったこともあり、しばらく明子は実母のする桃園に滞在している。そこに俊賢が桜の枝を持ってやってくるという。
「貴女も同席なさい」
珍しく母が勧めるので、傍らに控えて兄を迎えると、彼には連れがあった。
「
母は
「兄は、貴方によくしてくれていますか」
連れなどいないかのように、彼女は目を細めて優しく息子を見つめた。彼は、姉の忘れ形見だ。父・師輔を失った後、愛宮は姉に引き取られ、俊賢も幼児のころから可愛がっている。彼女にとって、平和な最後の時だった。
「はは、それなりに」
率直に俊賢は答えた。そうね、頼りになるようで、ならないような、そういう方だから、と取り成す愛宮には兼家への恨みは見られない。そのまま取り留めなく近況を話して、そろそろ話題も尽きるかという辺りで、愛宮はすっと顔を連れに向けた。御簾越しのうえ、几帳も立てているので、相手には彼女の動作はわからない。
「そちらは」
「同じ
「では、お名前は秘するがよろしいでしょう……。お会いしたことはございませんわね」
「はい。物心つく前でしたら、わかりませんが」
彼だわ、と明子ははっと目を見開き、それから母を気にして俯いた。そんな娘を横目で観察しながら、愛宮は、さあ、どうだったでしょう、と微笑んだ。それから二言三言、会話を続け、特に何ということもなく、兄たちは下がっていった。
「不埒な花盗人なら赦さないところだけれど」
客人が帰ると、ちらっと娘に目線を投げて母は呟いた。聞こえない振りをして明子は高鳴る胸を押さえる。我が子の上気した頬と、恥らう様子を目の当たりにして、愛宮は密かに嘆息した。
いつの間にそんなことになったのやら。色好みの兄上譲りなのか、本当に油断ならない若者だこと……。
けれども、娘に咲いた恋の花を無碍に摘み取る気にもなれない。それに兼家ひとりの申し入れなら検討はしなかっただろうが、詮子が全面的に助力するとあっては断ることは難しい。一方で、次の国母という存在は心強さよりも、彼女の不安を煽り立てる。それは、政争の真っ只中に娘が置かれる、ということを意味した。
あの若者は、明子を守りきってくれるだろうか。
父のない、親族の地盤も弱い、兄の地位もこれからなどという頼りない女を任せるに値するだろうか、彼女には確信が持てない。実の兄たちですら、妹である彼女を守れなかったというのに。大きな政治変動のなかで、女の立場は本当に崩れ易い。
悩んでもどうしようもないこと。
彼女は心を決めた。明日にでも尼にしない限り、詮子の対面を傷つける。いや、もう間に合わないだろう。拒絶は俊賢の未来をも暗くする。愛宮は娘の養い親である盛明に首尾を知らせ、親たちの間では忌み月である皐月過ぎになったら、本格的に動き始めることで内定した。
その矢先、卯月に入ってすぐに盛明が病みついた。
数年来、体調は良好とはいえなかったものの、あまりに急激な病状の悪化だった。寝付いてほどなく、皐月に入って数日、呆気なく親王は薨去してしまった。
予想外の事態に道長は焦った。これにより養女である明子は最低でも四十九日の服喪に入る。本式なら、一年は結婚などの行事は避けるものだ。正直なところ、ほとんど会ったことのない親王の死は気の毒だとは感じても、悲しいとまでは思えない。沈んでいる俊賢や、つらいだろう明子を思って同情はしている。
彼には小さいときからそういう薄情地味た面があって、周囲が驚くほどあっさりと執着をなくしたりする。冷静に考えれば彼の言い分の通りなのだが、それにしても情が薄いのでは、と大人たちでも首を傾げるようなことが。だからといって、普段から冷たい性格というのでもなく、親しい人間にはよく気を配っていた。
訃報を聞いた彼は、縁談が中断、悪くすれば永遠頓挫するのではないか、と気を揉んだ。ここまで漕ぎ付けるのに一年もかかっている。もう待つことはできない。とはいえ、さすがに四十九日の間は、人の行き来すら控えているので、せいぜいが見舞いの文を送ることくらいしかできなかった。
ところが、そろそろ喪も明けるだろうという水無月も後半になって、それどころではない大事件が起きた。
花山帝の退位である。
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