1章 さくらはなえだ(6)
夏も終わりの時分、俊賢が水菓子を送ってきた。
鶯の君が使うのは橘氏の男が多く、そのときの使者は大江某という文官だったので、明子は真実、俊賢からのものだろうと考えた。
姫君に、と渡された捻り文を開くと、なかには桔梗に結わえた結び文がひとつ。女房たちに見られぬよう咄嗟に隠し、人目を避けて広げてみると、見慣れた彼の字で、「忍ぶれば苦しきものを」とあった。
これほどはっきりと懸想めいた言葉をもらうのは初めてだ。もちろん、下の句は知っている。
「人知れず思ふてふこと誰に語らむ……」
古今に記された古い恋歌。ひとり恋に苦しんでいるのはつらい、誰にこの思いを打ち明けようか……。彼女はつい声に出した。
「話せる人などいないのだけれど」
いいや、話したのだ。彼女は理解した。兄に語り、だからこそ、兄は信頼する家人を使いとしたのだ、と。
「いいえ、待って。それは一体どういう……」
彼女は混乱した。鶯の君とは、そんな間柄ではない。それは……、良い方とは思っているけれど、それ以上のことは何もない。言われてもいない。いえ、たった今、伝えられたことになるのだろうか。
「姫さま、兄君さまは見事な瓜もくださったそうです」
文を運んできたかまちが無邪気に声をかける。
「えっ、本当に?」
あい、と少女は素直に頷き、「立派な瓜が採れる所領もお持ちなのですねえ」としきりに感心している。彼女はそんな話を聞いたことがないし、これまで瓜を寄越したこともない。勘違いではない。瓜といえば、
あの方は、私に求婚しようとしているのだわ。
かっと頬が熱くなり、彼女の胸は高鳴った。無縁だと思っていたことが、いざ自分の身に起きたとき、心に浮かんだことは純粋な喜びだった。
駄目よ。
彼女はすぐに冷静になる。そんなこと、母上がお許しにはならない。結婚なんて、つらい思いをするに決まっているもの。
けれど、あの方が?
嬉しい気持ちが抑えきれない。そうと思っていた以上に、彼の存在が大きなものになっている……。彼女は、ようやく恋をしていることに気付いた。
「姫さま、お顔が赤うございますよ?」
季節の変わり目だ。体調を気遣うかまちに彼女は、ええ、少しのぼせたみたい、と返事をする。そんなに、都合よく話が進むはずがないもの。明子は自分の心を鎮めようと努めた。
その見方は概ね正しかった。俊賢は継母と叔父にさりげなく根回しを開始していたけれど、やはり愛宮の答えは芳しくない。道長に急かされても、こればかりは俊賢にもどうにもならなかった。せめても、と盛明親王宅に立ち寄る場合に道長と連れ立つこともあった。当然、近くに寄ることはできないのだけれど、簀子で俊賢を待つ間、廂と母屋を隔てる御簾の向こうに彼女がいるかと思うと、その程度でも嬉しく思う道長だった。
誰が余計な口を利いたのやら。
そんな弟の近況を姉女御に教えた者がいたらしい。たまには様子を見せに立ち寄りなさい、と詮子に呼び出された。兼家に頼まれての小言かと渋々ながら参上した彼は、「あなた、ここのところ、
東宮の母となった詮子は、姉とはいってももはや身分は遥かに隔たる。本来なら間に女房でも立てて面談するところなのだが、実家である東三条第の南院に引きこもって長くなっているせいもあり、弟を北の廂に座らせて几帳のみを立て、ごく内輪の設えでの会見としている。周囲に控える女房たちも昔から仕える一部の信頼できる女たちに限られていた。
「姉上こそ、そろそろお帰りになったらいかがです。院をお渡らせになるなど、いかがなものかと」
まっ、小憎たらしい、と詮子は痛快そうに笑う。
先帝に皇子を産めたのは彼女ただひとりにも関わらず、
先帝は兼家の強引さを危険視しており、子があるとはいえ気の強い詮子との仲もうまくいっていなかったため、彼らを敬遠したのだ。
しかし、詮子としては納得できるわけもなかった。正式な手続きも経ず、息子を連れて雷撃のように突然東三条第に下がってしまった。おかげで、円融院は我が子に会うためには兼家の邸宅に足を運ばなければならなくなったのである。有体に言って、嫌がらせだった。
「そんな生意気は一人前に
檜扇をぱちんと閉じて、彼女は真面目な声色になる。
「いつまでも子どもの気分でいてはいけません。父上がどれほど気を揉んでいらっしゃるか」
「先日もお叱りを受けましたよ」
彼は肩を竦めたが、ふと、姉ならと思いついた。
「いえ、私は結婚の意志はあるのです。ただ、これと決めた方がおりまして」
「なに? あなた、父上に黙って仲を進めているの?」
彼は慌てて、いえいえ、手も触れておりませんと否定する。それには多少嘘があったが。
「古宮には養い育てておられる女君がおられますね? その兄君とは職掌の
順序は異なるものの、まあ、大体いいだろう、と彼は次第を話した。ふうん、と詮子は考えかけたが、
「つまり、あなたと兄君との間で、どうだろう、こうだろうと勝手に話しているけれど、まだ何も決められていないということかしら」
「痛いところを突かれますね。要はそういうことです」
情けないこと、と彼女はため息をついた。が、彼らが足踏みをするのも仕方のないことと詮子も思う。壁になっているのが、叔母であることは簡単に想像がつく。
古宮の姫ね。彼女は、姉を味方につけようとあれやこれやを言い連ねる弟を好きに喋らせておいて、内心さまざに思いを巡らせた。
息子の誕生以後、彼女は影響力を日々高めている。今上帝は聡明ではあっても後見が弱く、親政を目指して無理に事を運びすぎる。上卿たちの心は離れ切っているし、気まぐれなところもあって信用ならない。
退位までは時間の問題と見られている。そうなれば次は東宮の出番で、彼女は国母となる。その日が近いことを感じてか、亡き姉の影に隠れていた彼女をやっと父親も認めるようにはなってきているけれど、嫡子である
彼女をあくまで頼りない末妹として扱うことも、正妻に納まっている女が藤原氏ではなく高階であることも引っかかる。父と兄は、ゆくゆくは高階の女から生まれた娘を東宮に入内させたいと考えているようだったが、どうも気の進まない話だった。
東宮は六歳。件の姪は九歳、三つ年上だ。今すぐ弟が女王を孕ませたなら、生まれた子とは七歳差。さて、どうだろう、と彼女は思案する。多少出遅れはしても、出自の差は明らかだ。それが上手く働くこともあるかもしれない。
懐妊は天が決めること。人の都合に合わせてくれるものでもないけれど。
「良いでしょう。その話、しばらく私にお任せなさい。
雲が晴れたかのように、ぱっと道長は表情を明るくする。
わかりやすい子だこと、と彼女は少し呆れもする。そういう面が可愛げでもあるけれど、末の子だからと甘やかされて育った弟が、これから百戦錬磨の年寄りたちの間でどうやって立ち回っていくのやら。反面、父とも兄たちとも異なる、何かしらの才覚を感じることもある。
ただちに直接の利益にはならなそうではあるが、こここは弟のために労を執ってやろうと彼女は決めた。長い里暮らしでの、退屈しのぎにもなるだろう。
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