1章 さくらはなえだ(5)
「そのことです。やはり、私も妻には格の高い女を、と常々考えております。父上のお力で、雲居から天女をいただくことは叶いますまいか」
はっ、と兼家は笑って酒を煽る。
「皇女を、というのか。大それたやつだな。第一、おまえの年に見合う姫君など、どこにおられる」
「まさか、そこまでは」
彼も笑った。
「宮様方の邸宅に年頃の姫君がおられましょう。宮腹に娘があったなら、育つにも先が楽しみというもの。父上もそうお思いになりませんか」
「ふむ」
理屈はわからないではない。ゆくゆくは入内、と考えるのならば母親の出自も重要だ。高ければ高いに越したことはない……。だが。
「やっぱり無理だな。親王方との縁がない。いや……、まったくない、というわけではないか……」
そう。そこですよ、父上、と道長は内心ほくそ笑む。兼家に近い女王といえば、ひとりしかいない……。
「難しいな」
兼家から冗談めかした表情が消え、暗い目つきになる。道長は知らなかったが、先日も高明の法要についての助力をやんわりと退けられたばかりだった。袴着を済ませてすぐの道隆、超子とともに愛宮を遊ばせていたのも今は昔。
兄妹として最低限の礼儀以上に踏み込ませない彼女の頑なな態度に、兼家はまだ責められているような心持になる。ともに愛らしい異母妹を可愛がっていた兄弟たちは全員が先に
「妻の身上をあれこれ言うよりも、まずは実績だろう。孫のひとりくらい報告せんか」
最後は案の定、説教になる。どのみち、父親をアテにできるとは彼もさほど思っていない。いつものように酔った兼家をのらりくらりとはぐらかしておいた。
俊賢への返事という建前になっているおかげで、色恋めいた文言は交わせないけれど、直接には返事をもらえる。女らしく
しかし、いつまでもそうしているわけにもいかない。ついに使者に立っている橘の某という男が、最近は屋敷に行くと、乳母の伊勢が自ら出てくることもある、と困惑を見せた。昨年までそれほど頻繁ではなかったのに、今年になってから文の回数が多すぎると不審に思ってのことらしかった。
これでは俊賢殿の耳にも伝わっているだろうな、と覚悟した矢先、衛門府や近衛府の下位官たちが集った酒宴の席で、さらりと先に切り出された。
「近頃、うちに出入りしている
「あ、うん」
話題の糸口をつかめないまま酒盃を重ねていた道長は、意表を突かれてあっさりと認めてしまった。こうなっては仕方ない、と彼は正直に、「実は君の妹御との仲立ちが欲しいのだ」と吐いた。
そんなことだろうと思ったよ、と怒るでもなく、俊賢は穏やかに答えた。
「君の人となりはわかっている。けれども、こちらの事情も察して欲しい。
それは無理のないことだ、と道長は頷く。叔母の悲しみが癒えることはないのかもしれない。
「ましてや、浮気な男たちにいっとき愛されたとして、結局は世間の笑い種になるような、そんな間違いは犯して欲しくない、と強く願っておられる」
「うむ……」
母親ならば当然のことだ……、と納得しかけて、道長は慌てて首を振った。
「あ、いや。不届きな輩もいるだろうが、私はそんないい加減な気持ちで言っているのではない。
ほう、と俊賢は眉を上げ、けれども、「なにをまた」と冗談でもあったかのように頬を緩めた。
「いやいや。私は真面目に言っているんだ。知っての通り、私は父や兄のように多くの妻を求めはしない。この人、と思える女がひとりいれば、それで充分な性分でね」
「ならば尋ねるが」
俊賢はぐっと杯を空ける。
「皇統とはいっても、強い後見があるのでもない。すでにそれなりの公卿が庇護の意味で申し込むならまだしも、いくら
それは……。道長は言葉を詰まらせた。それは絶対にないと言い切れるほど、彼も子どもではない。彼女を欲しいと願う恋心が永遠に続くなんて、誰にも保証はできない。それは、意地の悪い言いようだった。
「いやはや、すまない」
場を和ませるように、俊賢は彼の肩を軽く叩いた。
「私も妹が可愛いので、つい無茶を口走った。許してくれ。妹の将来は私も憂えているのだよ」
「先のことはわからん。だが、私は妹御を手離す気はない。他に譲る気もない。それだけは、嫌なんだ……」
もし、どこかに強引な男がいて、無理やりにでも彼女を手に入れたら、と考えるだけで落ち着いてはいられない。これまで、親王家にしっかり守られてきた女王が、今更そう易々と篭絡される訳もないのだが、恋の闇というやつで、道長は切なげに吐き捨てた。
もう手に入れたかのような口ぶりだな、と俊賢は少し呆れる。妙に自信家なところは苦労を知らない御曹司ゆえだろうか、嫌悪は感じない。しかし、もし父の失脚がなければ自分も……、と遠い気持ちにはなる。
いいさ、と俊賢は承諾する。
「折を見て、継母上の反応を確かめてみよう」
本音を言えば、妹の今後が気がかりでならなかった俊賢は、道長と
自分の判断に間違いはない、と俊賢は思う。まだ若い明子のこれからを考えれば、兼家の影響下に入るのがもっとも無難で妥当な線だ。はたして道長は乗ってきた。問題はここから先だ。
「一度は臣籍に降りていた叔父上は飲み込んでくださるだろうが、継母上は……」
最大の難関は愛宮だと、彼もよくわかっていた。
日常の水面下で、そんなやり取りがあるとは想像もしていない明子にとって、道長からのたまの便りは楽しみなものになっていた。もっとも近頃は乳母が疑念を抱いており、探るように聞いてくることもある。彼女はそ知らぬ顔でごまかしているけれども、乳母らが心配するようなことはない、と自分では確信がある。
養父の盛明は穏やかで優しく、どこか寂しげであった。西宮での生活は
彼女自身は、実母に従う気持ちが強かった。だから、鶯の君がどこの誰かはわからなくていい。調べるつもりもない。曖昧ではっきりしない感覚のまま、心の奥にしまいこみ、つらくなることがあれば取り出して眺める想い出になれば、それで充分だった。
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