1章 さくらはなえだ(4)

 十数年前、道長はようやく物心がつき始めたくらいの幼児であったけれども、その頃のざわめきは覚えている。

 荘厳ですらあった高明の西宮が焼けて消え失せ、北の方だった叔母は一条大路北にある母宮の桃園第に戻り、ひっそりと暮らしているということ。それから、後見を失った姪を不憫に思った高明の弟である盛明親王が、養女に望んだ、ということも聞かされてはいた。


 出会いの前年おこなわれた花山帝即位において親王息女・明子女王が褰帳けんちょうを奉仕したことは、道長も知っていた。儀式に参列していた殿上人たちは、一様に命婦みょうぶ役をしたふたりの女王について噂していたからである。ふつう彼女のような姫君を男性たちが目にすることはないけれども、こうした役目になると話は別だ。道長は当時も右兵衛佐だったので、現場に居合わせはしなかったものの、近侍した目上の貴族たちの寸評くらいは耳にしていた。

 彼らにとっては何にせよ高嶺の花であり、こんなときでもないと同席することも叶わなかっただろう。


 褰帳命婦の準備があり、明子の兄・俊賢は当時手伝いで慌しくしていた。俊賢の母は愛宮ではない。道長の父・兼家にとって同母の妹に当たる師輔の三女だ。

 つまり、高明は実頼の長女、師輔の三女、師輔の末娘と三人の正妻をもったことになる。俊賢の母も産褥で亡くなっており、彼は幼少期を継母・愛宮に育てられている。


 道長とは割合に近い従兄弟同士なのだが、氏族が異なることもあって、親戚としてはそれほど親しい付き合いではなかった。それゆえに明子が俊賢の異母妹であることも、そのころはあまりぴんと来なかった。明子はほんの六歳で叔父の養子になったため、皇族という印象が強かったせいである。


 どちらにせよ、夫の左遷以降、あれほど仲のよかった愛宮と兼家たちきょうだいの間には距離ができてしまい、行き来はすっかり絶えてしまっていた。

 それでも、表向き反逆者の烙印を押された高明の妻子が不自由なく暮らしていけるのは、今や権勢を誇る兼家らがそれとなく心を砕いているおかげであり、水面下でのひそやかなやり取りはか細く続いてはいた。


 ただし、道長は高明・愛宮たちとの交流が途絶えた時期に成長しているので、イトコとはいってもやはりあまり近い存在には感じられない。一条大路の向こうにそういう人たちがいる、という程度の認識だったのだ。


 気まぐれで明子の屋敷に上がりこんで以来、彼はすっかり、この近くて遠い姫君に関心を持ってしまった。鶯にかこつけ、何かにつけては俊賢のふりをして贈り物をしたり、文を届けたりしていたけれど、恋文というほどの踏み込んだ内容には発展できていない。


 彼が逡巡しゅんじゅんする背景には、父・兼家と叔母・愛宮の難しい関係があった。要は彼ひとりが盛り上がって突っ走ったとしても、そううまく運ぶはずもないと見通している。


 いや、強行すれば、男女の仲には進めるかもしれない。


 そのようにも考える。兄を騙るにあたり、俊賢の家にも、自分が住む実家の東三条第にも出入りしている家人を使いとして選んだ。その男は本来俊賢との付き合いの方が長いのだけれども、「俊賢からの伝言だ」という道長の言い分を信じた顔で使者を務めている。

 右大臣かつ東宮の外祖父を父に持つとこんな余禄もある。乳母はともかく、直接仕える女房たちのなかにも彼に協力する者は出るだろう。通じることは難しくない。


 だが、そんな相手にはしたくなかった。

 彼も二十歳を数えるし、女と遊ぶこともある。妻などと大それた地位を望まないにしても、出世間違いなしの九条の嫡流に生まれた若者を仮初かりそめの恋人にしたいと思う女は少なくない。


 恋に手馴れた女房などは、可愛い男の子、として気軽に寝所に忍び込ませる。なかには、それなりの親から生まれた女もいたのだけれど、彼は相手に期待を持たせぬよう、関係を短く終わらせていた。若者らしく女に興味はあっても、彼は色好みではない。そうそうたくさんの妻を取り揃えたいなどという願望はなかったし、妻にするならば、これと思い定めた女ひとりでいい、と考えていた。


 彼の結婚像は、父親には理解しがたいものだったらしい。元服後、兼家は幾つかの縁談を用意したが、彼はどれひとつとして受け入れなかった。大方花見の席ででも他の公卿にでも水を向けられたのだろう、ついこの前も「おまえ、先々のことはどう思っている」と尋ねられた。

 兼家が東三条第の東対に住む末娘の顔を見に来た際だ。


 今年十三歳の妹は、数年のうちに裳儀もぎを済ませることだろう。兼家は入内を構想し、しばしば生母である近江の許にやってきていた。その場に、まだ実家で曹司住まいをしている道長が呼び出されたのである。


「娘がいないのでは貴族はやってはゆけぬ。未だ、四条の中将も婚約だけで結婚には到っていない。とはいえ、中将も男なのだから、いつ、別の女に通い始めてもおかしくはない。悠長にはしていられぬぞ」


 はあ、まあ、と道長は気の抜けた返事をする。説教もさりながら、兼家の小野宮流への、というよりも、実頼の孫に当たる中将・公任きんとうへの対抗意識は毎度大変なものだったからだ。


 公任は昭平親王息女を許婚としている。彼女の母は、兼家にとっては異母弟、愛宮にとっては同母兄である高光の娘であり、その縁から兼家三男である道兼が養女とし、ゆくゆくは公任の正妻に、と話をつけてあった。

 しかし、彼女は若く、裳儀成人は二年は先になるだろう。公任は約束事に律儀な男なので、他に通いどころは作っていなかったものの、女好きの兼家には理解の範疇外である。身内と縁組させながらも警戒は怠りなかった。


 確かに、実頼の嫡子である頼忠と兼家は、事ある毎に対抗してきた。犬猿の仲だった実兄・兼通と結んだ頼忠は兼家にとって最後の政敵ではあったけれども、第三者から見れば、娘を入内させるも外戚になることはできず、今ひとつ政治的手腕にも劣って人の好い頼忠は、とっくに兼家の好敵手たり得なくなっている。


 道長の方にも、まあ、公任に先んじたい、という欲求もないではない。公任と同年齢の道長は、父親のみならず周囲の貴族たち皆に比較され続けてきた。兼家など、我が子を捕まえて、「うちに頼忠の息子ほどに秀でた者がいないとは」と悔しがった。父の言葉が示すように、道長たち兄弟は和歌はそこそこできたが、漢籍はそれほど真面目に取り組んでいなかったし、ならば武芸はというと、そこでも公任に遅れを取る場面もあった。長男の道隆は父の言い草に不機嫌そうに鼻を鳴らしたものだったが、道長には、何を、と反骨する気持ちがある。


 大体、公任とは育った環境が違う。頼忠は正妻に代明親王よしあきらしんのうの三女を選んだ。中務卿なかつかさのかみを務めた代明には三人の娘があり、長女は伊尹の妻、次女は村上帝の女御になった。彼女たちが育ったのは管絃にも秀でた風流人の三条右大臣こと定方の屋敷で、まさしく物語の姫君のように雅びやかに育てられた。皇族を母に持ち、学者たちも繁く立ち寄る邸第の一人息子として育てられた公任と、簡単に比較してもらっては迷惑というものである。


 そういう息子が欲しいのなら、兼家も武蔵守の娘などではなく、貴種の女を子の母とすべきだっただろう、と道長はいつも思う。大体、兼家自身は皇統への憧れはなく、即物主義の現実家である。ないものねだりにもほどがある。


 しかし、悪い流れではない、と彼は膝を詰めた。

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