1章 さくらはなえだ(2)

 美しい女など姉の御所で見飽きていると、彼は常々思っていた。色好みで知られた長兄の恋人にも、京きっての美女が多い。年の離れた弟ということもあって、兄の女たちは彼に甘かった。


 幼いころから陽気で人当たりのよい少年だったので、要領の良い彼は身分を問わず周囲に好かれる性分だ。生まれついての性格に加え父親が朝堂の頂点に立ったこともあって、多少調子づいているのかもしれないな、と自分でも反省することはあった。ありきたりな女では満足できなくなってしまい、それが故に、父の持ってくる縁談にも気乗りがしないのだと。


 そうではなかった。


 彼は、身の程以上の女が欲しいわけではない。適当な女ではいやだ、というのでもない。そうではない。


「離して、ください……」

 くい、と弱々しく腕を引く彼女のいじらしさを、彼は愛おしいと思った。


 離せるものだろうか。

 ついさっきまでは、まったく知らない女だったのに。


 離したくない、と彼は思っていた。

「ああ……。すまない……。すいません。貴女の声を耳にしたら、どうしても耐えられなくなって」


「酷いかた……。どうぞ、お離しになって。そして、もういらっしゃらないで……」

 必死な涙声は、彼の胸を締め付けた。


「離します……。離すから、どうか奥に逃げないでください。どうか。でないと、私は追いかけずにいられなくなる……」


 はっと彼女は身を硬くした。まさか、こんな昼日中に狼藉を働くとは思えないけれど、その可能性もあると信じる程度には彼の声は切迫していた。彼女は、こくりと頷く。それを見て彼はそろりと手を引いた。俯いた彼女の横顔はまだ泣き濡れてはいなかったが、睫には涙が留まっている。


 彼は彼女を窺いつつ散らばった桜の枝を拾い集め、そのひとつに鶯の布を繋いだ。それから、空いた手で彼女を助け起こして、「本当に、悪いことをしました」と桜枝を差し出す。


 彼女は再び、こくり、と頷いた。

「もう……、しないでください……」


 来るな、ではないんだな。彼は、ふっと微笑む。

 笑うと子どもっぽくなる、と彼はよく下の姉にからかわれた。お人好しそうな顔になって、あどけなく見えるのだ。彼女にも弟がいる。彼ほど年嵩ではないけれど、健やかに伸び始めた四肢との釣り合いの悪さが、どことなく弟を思い起こさせる。


 男の邪な心ではなく、少年らしい悪戯心だったのだろうかと、彼女は僅かばかり気を許した。

 彼女がためらいがちに桜の花束を受け取ると、鶯は飛び立とうとしてばたばたと暴れる。


「こら」

 身を収めようと手を伸ばした彼の袖先を掻い潜り、小鳥は緩んだ結び目を振りほどいて自由になった。


「あっ」

 緑いろの羽根を広げて、廂の向こう、青空へ。迷うことなく飛び去っていく……。


「まあ」

 ふたりは思わず顔を見合わせる。


 綺麗な、ひとだ。

 彼は目を細めた。その視線を避けて、彼女はさっと袖で顔を覆う。けれども。


「どうしましょう……」


 その頃、新しい鳥かごが見当たらずに寝殿に向かったかまちは、渡り廊下で伊勢と行き当たっていた。相変わらず落ち着きのない新参者に眉を顰めながらも、乳母は子どもの行く手を押し留めた。


「そのように足音を立てるものではありませんよ。どうしたのです。姫君をおひとりにしたのですか」

「はい。いえ。その、いいえ」

 どちらなのです、と伊勢は苛々と彼女に尋ねた。


「姫さまは、兄君さまとご一緒です。あの、桜をたくさんお持ちになって」

「俊賢さまが?」


 乳母は眦を吊り上げる。当の俊賢は、ついさきほどまで盛明親王と面会していたからだ。多少込み入った用件があり、乳母も同席を求められた。やっと話が終わったから姫の許へ帰ろうというのに、先に俊賢がいるなど、どう考えてもおかしい。


「その男、確かに兄君さまですか」

 初老の乳母に詰問されると、かまちは弱い。


「私はお顔は初めてで……。でも、姫さまは兄上とおっしゃって……」

 この子に聞いても埒が明かない。見切りをつけて彼女は衣を引き、先を急いだ。何かまずいことをしたらしいと悟り、女童は泣きそうな顔で付いてくる。


「姫さま……、明子さま」

 東の対に着いたとき、姫君は脇息に寄りかかってぼんやりとしていた。足元にはたくさんの桜の枝。

 かまちの言葉は、部分的には事実のようだ。


「どうしたの、伊勢」

「いえ……、今、兄君さまがこちらに、と」

 伊勢は周囲を見渡したが、人の気配はない。ええ、と姫君は頷いた。


「桜をくださって、もうお帰りになったわ」

「その、俊賢さまが? 本当に」

 そんなはずは、と乳母は首を傾げる。


「そうよ。どうしたの、伊勢ったら」

 うふふ、と彼女は笑う。その仕種には優しげで清廉な色気があって、毎朝目にするたび、どの上卿の姫にも負けない素晴らしい女君に育ってくださった、と乳母は惚れ惚れしている。


「そうそう。お兄さまに件の鶯はお貸ししたの。桃園の母上にでも、お聞かせするのかしら」

「宮さまからいただいた鶯ですか? それはようございましたけれど……」


 釈然としないまま、伊勢は姫君の傍らにある桜を抱えあげる。水を与えなければ、この蕾も萎れてしまうだろう。韓紅ほどではないけれど、染め上げたばかりのように濃い赤紫は、ついさっき盛明親王に俊賢が献上した山桜と同じ枝に違いなかった。


「咲くのはこれからですわね。よい枝ぶりですこと」

 乳母は、離れた所で凝り固まって控えているかまちに言って、下仕えに水を用意させるよう言いつけた。姫君は、枝から落ちた早咲きの一輪を拾い上げ、すっと唇に押し当てる。


 唇の紅にくっきりとした花びらが美しい。

「強くて、良い香り……」


 うっとりと呟く彼女は、絵巻のなかの姫君のようだ。いつもの姫さま……、そう思うのに、何故だか伊勢もやもやとした想いに襲われ、不安げに養い子を見つめた。

 叔父との話を終えた俊賢が車宿まで戻ってくると、連れは柱に寄り掛かり、ぼーっと稲荷山を眺めていた。


「待たせたな。すまない。ややこしい話があって」

 謝りはしたものの、別に招いてはいない。

「うん……」

 聞いているのかはっきりしない答えで、彼はしきりに指に巻いた緑の布を弄んでいる。居眠りでもしていたのか? と訝しげに睥睨した俊賢は彼の手から大事な荷物が消えていることに気付いた。周りにも見当たらない。


「桜は? 姉上の里第に持参するのでは?」

「ああ……」

 それか、と彼は深くため息をついた。


「致し方ない事情があって……。姉上を喜ばせたいのは弟としてはやまやまなのだが、桜は佐保の姫に捧げてしまったんだ……」

「はあ?」

 何を言ってるんだ、と俊賢は怪訝そうに彼の顔を覗き込んだ。物の怪にでも当たったのか。


「ここで君を待っていたら、春の女神に出会ってしまったんだよ」

 女神とは、と俊賢は少し疑念を持った。だが、当人は放心していて、話にならない。


「まあ、いい。よくわからないが、縁起が良さそうでよかったな。それでも、姉上の許に参上するのだろう。しっかりしたまえ、道長」

 うん、と彼は相変わらず呆けている。


 姉弟とはいっても成人した男であれば、こんな腑抜けた態度では失礼になるところだろう。しかし、彼の場合は別だ。道長の姉である円融院女御・詮子は末弟をことのほか可愛がっている。多少の失礼はどうということもないだろう。それに、従兄ではあっても源氏の俊賢が藤氏である道長を親身に心配してやる義理もない……。


 ないのだが。


「しっかりしろって」

 ぱん、と背中を叩いて気合を入れる。これだけ年が離れていると、二十歳の道長は同僚というより弟のようだった。道長は若干名残惜しげに、一方の俊賢はきびきびとした足捌きで、ふたりは連れ立って三条大路に向かった。道長は東三条第の南で暮らす姉の許へ、俊賢は大路向かいの高松第へ……。


 その数日後、古宮の東対に住む明子女王の許へ、「兄君様より申し付けられました」と、繊細な作りの鳥かごを持った男が現れた。兄の使いとしては見慣れなかったが、確かに家人のひとりではあったので、乳母も警戒なく受け取った。籠のなかには見事に囀る鶯が収まっており、貸していた小鳥が戻ったと誰もが考えた。


 籤には彼女のものとは異なる色で染めた緑の布で、桜いろの短冊が結わえてあった。


野邊ちかく家居しせれば鶯の

    鳴くなる声は朝な朝な聞く


 開けば、古今集の古い和歌。丁寧に書いたのだろうけれど、朴訥な筆致で記されている。乳母が検める前にすっと抜き取って彼女は、さらりと目を通した。あの人らしい字ね、と微笑を零す。


 彼女は、男の名前を未だ知らない――。

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