1章 さくらはなえだ(1)

 鮮やかに染め抜かれた緑いろの細長いきれなびかせて、鶯がひらりと飛んでくる。南のきざはしで休んでいた彼は、つ、と顔を上げた。抱えていた花枝が揺れ、ふわと香りが流れる。それに誘われたのだろうか、鶯はその枝先にとまって羽を休めた。


 東面から回り込むようにして、すぐに女童がやってくる。枝にいる黄緑いろの小鳥に目を留め、ほっと安心した表情を作った。大方、主の鳥を逃がしてしまったのだろう。急いで駆け寄ろうとするので、彼は、しっと唇に指を当て、そのまま鶯の足から垂れ下がった布を巻き取る。鳥は驚き翼を広げて逃げようとするけれども、片足から伸びる布が枝と彼の指とに絡め取られてしまい、逃亡は叶わなかった。


 少女は、よかった、と胸をなでおろし、「ありがとうございます、兵衛佐ひょうえのすけさま」と頭を深々と下げた。兵衛府からの帰りなのだから言葉の通りとはいえ、見知らぬ子どもの礼に彼は首を傾げた。まあ、いい、と捕まえた鶯を渡そうとしたけれども、枝に布が絡んでしまい上手に解けない。


「そのままお上がりください。小鳥がいなくなったら、私が乳母めのとの伊勢どのに怒られます」

 少女は慌てて彼を押し留めた。周囲を気にするおどおどした様子は、屋敷にまだ慣れていないことを想像させた。「それに、姫さまからお聞きしていますもの」と、にっこり笑う。


 ああ、これは間違えられたな、と彼は合点した。意味ありげに桜を抱えて軒先で佇んではいたものの、彼はただ同輩の用が終わるのを待っていたに過ぎないのだ。

 しかし、敢えての否定はせずに少女に案内させ、東の階から簀子に上がっていく。どうせ、その辺りで女房の誰かに見咎められるだろうと思ったのに人気ひとけを感じないまま、まんまと廂に足を踏み入れてしまった。


 主に知らせてくる、と母屋もやの奥に少女が消えるのを見送って、彼は花の枝を抱えたまま、ひょいと腰を下ろす。

 気まぐれは、好奇心ゆえだ。


 邸宅の主は、いまは亡き醍醐帝の第十八皇子、盛明親王。この世間から忘れられた古宮こみやと、彼自身にさしたる縁はない。その御方と親族なのはさきほどまで一緒だった友人・俊賢の方だ。親王宅に寄った後で控えている用事の行き先が、たまたま彼の目的地の隣りだというので、ならばもののついでに、と友人と同行したまでのことである。


 そもそもの事の次第はこうだ。

 その日の朝のこと。彼が兵衛府に出向くと、同じ佐に任じられている者が大量の桜の枝を持参して来た。その男が言うには乳母の実家である桜の名勝から明け方送られてきたものだそうで、せっかくだから彼の姉君に差し上げたいとのことだった。献上品というほどの品ではなく、里住まいが長くなった姉君の慰めになればと言う。表向きをどう取り繕おうと相手の算段はわかっている。彼は鷹揚に笑って、ごく内輪の土産として受け取ることにした。


 それにしても、数が多すぎる。大げさな話にならぬよう、その場に同席した者たちにもいくらか分けることになった。兵衛佐といえば若い男が多い。新婚の妻に、あるいは意中の女官に贈るという者たちのなかで、ひとり俊賢は、体調を崩しがちな叔父の宮に差し上げると言う。


 なんて生真面目なことを言うのか。いや、口はそうでも本当はどこかに隠した女にでもやるのでは、と内心疑ってかかった彼は、何かと理由をこじつけて無理に付いてきた。叔父というのは盛明親王であり、俊賢は親王の亡き兄・源高明の嫡子なのだった。


 佐に任じられているとはいえ、ふたりの年齢は七歳ほど離れている。二十歳そこそこの彼とでは、ふつうなら見間違えようもないのだけれど、新参者の女童はおそらく家主の甥が兵衛佐ということしか知らされていなかったのだろう。あるいは桜の枝に邪魔されて、顔をちゃんと見ていなかったのかもしれない。


 それにしても、人がいないな。

 別れるとき、俊賢はまっすぐ寝殿に向かって行ったので、宮はそちらにいるのだろう。彼が以前漏れ聞いたところによると東の対も無人ではない。予想通りなら、もっと厳重に女房たちが配されていてもよいのだが、と彼は首を傾げた。


 衣擦れの音がした。小さく、几帳はよい、と女童に命じる声がする。しゅっと衣を捌いて彼女は奥から廂へと近づき、御簾のごく間近に居所を定めた。その動作からはすぐにでも話しかけそうな雰囲気が感じられたのに、彼女は、戸惑うように沈黙を守る。しばらく考え込んで、それから「かまち」と少女を呼んだ。


 彼女は、少女に何事かを耳打ちする。緊張しつつも慎重に、かまちは言いつけを復唱した。

「あい。私は新しい竹の籠を、伊勢どのが来られたら新しい水甕を姫さまにお運びするよう、言伝を」


 ぱたぱたと慌しく、女童は彼らの許から去っていく。静かに移動することも、まだ身についていないのだろう。それとも姫君に直接お願いをされて、心がいっぱいになってしまっているのか。


 彼女は、ふう、とため息をつき、「ところで」と鈴の音のように可憐な声で彼に問いかけた。


「貴方はどちらさまでございましょう。こちらの手違いではございますが、お互い恥ずかしい噂になる前に、静かにお引取りいただければと存じます」


 私は、と言いかけて、彼はうわずりそうになる喉を鳴らしてごまかした。未だ妻を持たない身ではあるけれど、女には慣れている。何をうろたえているのやら。


「異なことを。私はそなたの兄ですよ」

 まあ、と彼女は呆れる。


「兄上とは薫香が違っておいでですわ。乳母を呼んでもよかったのですが、それではかまちが罰せられます。あの子はまだ仕えに出て二日ほど。あまりに可哀想です」


 だって、伊勢はひどくあの子を叱るのですもの、と心を痛めた様子で、彼女は呟いた。なるほど、と彼も頷く。乳母が怖いのはいずこも同じということか。見つかったら自分も決まりの悪いことになりそうだ。


「それは一理ありますね。では、私は鶯の使いということで……。ただ、ひとつ問題があります」

 彼は、御簾ににじり寄った。


「あの女童が逃がしてしまった鶯……。今は私がこの手で捕らえております。この小鳥をお渡ししなければ、やはりあの子は叱られるのではありますまいか」


 ああ、と彼女は今更のように驚いた。未熟な女童が見知らぬ男を連れてきたせいで、そもそもの起こりを忘れてしまっていたのだ。彼女は、「まあ……。どうしましょう。誰かを呼んで……。いえ、それではやっぱり」とおろおろと取り乱し始めた。落ち着いているように思えても、やっぱり彼女は深窓の令嬢なのだ。幼いかまちを庇おうと、勇気を振り絞って彼に話しかけたに違いない。


 そうなると、彼には悪戯心が芽生えた。この可愛らしい女を、もう少し身近に感じてみたかった。


「不躾とは存じますが、この御簾を少し上げてはくださいませんか。鳥の足につけた布は私が手にしております。隙間からそれをお渡ししましょう」


 でも、と彼女は迷った。初めて会った男を、そこまで近づかせてよいものか。乳母がいたら、男手を集めて叩き出すところだろう。


「さあ、早く」

 彼は彼女を急き立てる。


「わ、わかりました」

 意を決して、彼女は承諾した。垂れ下がった御簾の下に、すっと美しい桜いろの衣が差し込まれた。子猫なら通れるだろうかというほどの空間ができる。


「それではあまりにも低すぎます。もう少し」

 言われるがまま、彼女はもう片方の手も添えて隙間を広くした。するりと上の衣が降りて、重ねた衣のもっとも奥の一枚が露わになる。細い手首が透けて見えるようだ。彼は小鳥を結わえた布の端をその傍らに導く……。


 彼女が見覚えのある布に気付いた次の瞬間、彼は女の袖を掴んで、ぐっと自分の方に引き寄せていた。


「あっ」


 間髪入れずに後生大事に持っていた桜の枝を放り出し、御簾を高く持ち上げて自分の膝元に彼女の身体を引き摺りだす。


 薄きから濃きへ。調和の取れた桜襲さくらがさね五衣いつつぎぬが広がった。まるで、花吹雪のなかに迷い込んだかのような繚乱。控えめで上品な薫物の匂いが、彼の鼻をくすぐる。

 濡れた烏羽からすばのいろをした豊かな髪は、彼女の肩から袖へとするりと艶やかに零れ流れた。

 姫君は、驚愕の表情で裏切り者をはっと見上げた。が、すぐに顔を伏せ、「なんて……、酷い」とか細く嘆く。


 もし、花というものを知らなかったら、最初の一輪を手にした男は、こんな風に感じるのだろうか。

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