第五話 クトゥルフを呼ぶ声

「軍の連中が、湖の怪物の捕獲作戦だと勘違いしない事を祈ろう……」


 配備完了のモールス信号を受けて、ロンド中佐が戯ける。

 そんな冗談を言いたくなるほど、湖の周囲はチームの配置を示すコマで埋め尽くされていた。ネズ川から流れ込む河川にも、念の為に兵が配備されているようだ。

 闇が濃くなるに連れ、霧が深さを増してゆく。

 俺たちは着込めるだけの毛布にくるまりながら、前に進む。

 双眼鏡無しで見えるのは、廃墟から続々出てくる篝火だけだ。


「あの草むらくらいまでは行けるかな? あまり近づくと、ノースチラス号の攻撃に巻き込まれてしまうのが、痛し痒しだ」


 冷たい地面を這うように。草むらというには大きすぎる雑木林に進む。

 少し小高い雑木林からは、何とか篝火に照らされた異様な集団を見下ろすことが出来た。

 朽ち果てた石壁に、背を丸めのろのろと歩き回る不気味な影が揺らいでいる。あるものはカエルのように飛び跳ね。あるものは、湖から上がって、濡れた身体を厭わずに、篝火に揺れる影を踊らせている。

 湖面からの風に、魚の臭いが漂ってくる。

 奴らの歪んだ祭事が始まろうとしているのだ。


 不意に、強い魚の臭いを嗅いで振り向く。

 そこには紺のスーツを着た魚人が一人、立っていた。

 俺と中佐は、迷わず銃を抜いた。


「待ってくれ……アオイ。僕だ……」


 聞き取りにくい言葉になってしまっているが、声は耳馴染んだものだ。

 エドワード……お前なのか?

 俺は、中佐の銃を制した。


「こいつは友人だ。撃たないでくれ」

「ありがとう……奴らを皆殺しにする準備は、できている?」

「ああ……できるだけの事はした、つもりだよ。君のおかげだ……」

「何とか僕も、正気を失わずにいるよ。でも……あそこには、ベアトリスがいる。あいつは……アイツだけは、絶対に取り逃してはいけない」

「まとめて、叩き潰してやるさ……見ていろよ」

「アオイ……その銃を僕に貸してくれないか?」


 虚ろになってしまった瞳の、真剣な光に俺は息を呑む。

 水かきのついた手を隠そうともせず、エドワードはその手を伸ばした。


「僕なら、ベアトリスに近づける。……確実に、あの美しい顔に銃弾を撃ち込める。アイツだけは、あの女だけは許せない。周りに忌み嫌われようと、僕の故郷の人々は、ただ静かに暮らしていただけなのに……自分の手を汚しても、アイツだけは絶対に」

「そんな事をしたら、お前も一緒に……」

「ああ、滅ぼしてくれ。僕も『深きもの』なのだから。……こんな呪われた血は、ここで断ち切るべきだ。自死する勇気はないから、あの女を仕留めた後に、一緒に殺してくれ。もう次元の壁は薄くなってきている。今夜にも、邪神が降臨してしまうかも知れない。……時間がないんだ」

「……エドワード」


 俺はくるりと銃を回し、グリップを彼に示した。

 手渡された銃を胸に抱くようにして、彼はしばらく祈っているように見えた。

 そして、自嘲するように、不器用に嗤った。


「こんな怪物に祈られても、神様も困るかな……」

「いいえ、神は姿形ではなく、魂を見つめるはずです」


 立ち上がったルシータは、首の後ろに手を回して鎖を引き千切った。そして、外した十字架を水かきのついた、エドワードの手に握らせる。


「心を強く持って。あなたは人を殺すのではない。神の使徒として、魔を滅ぼしなさい。……アレはもう人では有りません。きっとあなたを守ってくれるから、胸を張って主の御下に帰りましょう」

「ありがとうルシータ。君の温もりを感じるよ。もう心は惑わされないさ……」


 スッキリとした笑顔を見せて、エドワードは魚人たちの群れに加わっていく。

 しばらくそれを見つめていたルシータが、仲間の驚きに気づいて、唇を尖らせた。


「だから……私はミッションスクールの出身だって、言ったでしょ?」

「ふ~ん……意外と敬虔深いんだ?」

「やめてったら、エリーゼ」


[ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん]


 華やいだ会話は、城址の篝火から流れてくる不気味な声に打ち切られた。

 誰もが、篝火と霧を通して見える、おぞましい影絵に眉を顰める。


[ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん]


「ミスター・アオイ。あの輪の中に、君たちの言うベアトリス・アルバータはいるかい?」


 ロンド中佐に渡された、双眼鏡を覗き込む。

 この世のものとは思えぬ光景に、喉元まで胃液が込み上げてきた。

 魚人たちは、何の統制もなく夜霧の中、篝火に揺れて好き勝手なことをしている。ある者は喚き散らしながら踊り狂い、またある者は同じ魚人の女とまぐわう。中には互いの肉を齧り合い、血塗れになっている者さえいる。

 それでいて声だけは揃えて、邪神を呼ぶ。

 目を逸らしたくなるような狂宴の中に、ベアトリスを探す。


[ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん]


 ……いた。

 ベアトリス・アルバータは廃墟の高みに立ち、美しい笑みを浮かべながら、魚人たちの狂宴を見下ろしている。既にドレスなど纏ってはいない。

 白く細い首からデコルテの辺りに、傷口のようなエラが開いている。

 その優美なプロポーションは、灰色がかった緑色をしていて、ぬらぬらと光っていた。

 腹の部分だけが生白く、ぽっこりと突き出ている。露わな陰部の白さが、露骨なほど淫靡に見えて、嫌でも劣情を煽ってくる。

 そこから目を逸らせ、全体を見ろ。

 美しい顔だけを残した、悍ましい魚人のメスの姿を。


[ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん]


 笑いながらベアトリスは、自らの下腹部にナイフを突き立てた。

 子宮を切り裂き、中から魚の顔をした胎児を掴み出す。へその緒を切ると、大量の血がぶち撒けられる。

 その血を吸い取るように、城址の床に刻まれた悍ましい印が紫の光を帯びてくる。


[ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん]


「あれを見て……」


 怯えた舞衣が指を差す。

 湖面に立ち込めた霧の中に、がいる。

 巨大な人型の影……丸い頭部の下、髭のような何かが蠢いているのが解る。

 ロンド中佐が息を呑む。


「どうやら、あれは私の知るネズ湖の主では無さそうだ……」


 何をやってる、エドワード。

 もう時間が無いぞ。


[ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん]


「ジム船長、ロンドだ。アーカルト城に狙いを定めてくれ。発射タイミングは、追って指示する」


 無線機に指示したロンド中佐は、黙って俺を見つめる。

 発射の指示は、俺に下せという事か。


[ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん]


 血塗れのベアトリスは、そこだけ変わらぬ涼しい笑みを浮かべながら、今度は胎児の首を斬り落とした。

 頭を投げ捨て、胎児の首から迸る生き血を悍ましい印に振り撒いてゆく。

 血塗れの美貌に、涼し気な笑みを浮かべ、自らの腹から取り出した胎児の身体を上下に振って、その血の一滴までも絞り出すように、上下に揺らして……。

 もうたくさんだ! エドワード、何をしている!

 悍ましい印の紫の光が増し、霧の中の邪神の輪郭が明瞭になってゆく。


[ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん]

[ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん]


 蹌踉めくように、紺のスーツを着た魚人が進み出る。

 その手に握った、清涼な光に導かれるように。

 それがエドワードと解ったのだろう。

 血塗れの貴婦人は、歓喜の笑みを浮かべて腕を開く。胎児の体は投げ捨てられた。

 その腕の中に抱き止められたエドワードは、歪んだ笑みを浮かべた。

 何を言ったのかは解らない。

 だが、次の瞬間にベアトリスの額に風穴が空いて、脳漿が城址の石壁を濡らした。


[ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るる……っ]


 突き上げたエドワードの拳が開かれると、白い光が溢れ出る。

 ルシータの渡した、小さな銀の十字架が光っている。

 その清廉な輝きを消し去ろうと、魚人たちが群がってエドワードを引き倒す。その体を包み込み、腕を引きちぎり……。


「中佐、撃ってくれ! もう終わりにしよう!」

「船長、発射だ」


 空からインドラの矢が突き立ち、穢れた狂宴を打ち砕く。

 尾を引いた怒りの流星は、計6発。

 閃光と轟音に、俺たちは目も耳も眩んで地面に転がった。

 光が鎮まった時には、アーカルト城はもう跡形もなかった。それどころか、城の立っていた岬のように湖に突き出した丘すら無い。

 ノースチラス号の火力は、全てを吹き飛ばしてしまった。

 打ち払われた霧に、もう邪神の影は無い。

 ネズ湖を包囲した軍の機関銃の掃射が始まった。

 運良く生き延びた魚人を逃さぬよう、銃弾の疾風が吹き荒れる。

 湖面に出た小型艇が、次々と湖に爆雷を投げ入れる。湖に逃れた魚人が、その衝撃波を受けて湖面に浮かび上がってくる。

 その身体は、機関銃連射でミンチに変えられてゆく。

 一日前、ロンドンでプレイヤーたちを狩り回った魚人たちが、今夜は狩られる側になって骸を晒す。

 徹底的な殲滅戦だ。


 作戦終了の合図が出たのは、東の空が白み始める頃だった。

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