第十三話 魚の臭い
予想に反して、倉庫の中からは何の気配もしない。
魚臭い、ねっとりとした闇。慎重に名探偵はマッチに火を点した。
「空っぽ……だと?」
小さな灯りに照らされた範囲には、誰もいないどころか荷物すら無い。
俺の呟きに、エリーゼがランタンの光をかざす。
有り得ない……倉庫の中は完全に空っぽだ。
半年近く、荷物の受け入れをしているはずなのに、ここにはその片鱗も見えない。それにしては、この異常な魚臭さは何なんだ?
「お嬢さん、灯りをお借りしたい」
ランタンを借りた名探偵は、奥へと進んでいく。
周囲を見回しながら、俺とハドソン氏が続いた。
吐く息が白く、凍えるようだ。ここに、人などいるはずがない。感覚的に解ってしまう。
(……ガセネタか?)
だが、ここを教えたのはアリスだ。
嘘の情報を流して、得になることは何も無い。
一体、どういう……。
「話が広まり過ぎたようだ。……先回りをされたのかもしれないね」
悔しげに、名探偵が灯りで示した。
倉庫の隅の床に、男がひとり転がっている。
薄汚れた上着にズボン。もうすでに息をしていないことは、頭から広がる血の海を見るまでもなく解った。こんな場所で寝ていて、この寒さで平気でいられるわけはないだろう。
転がった、薄汚れたハンチング。見開かれたままの眼窩からは、灰色の瞳を持った右の眼球が飛び出してしまっている。その瞳が、生きている時から虚ろであったのかは、もう判別できない。
右のこめかみに、周囲の焼け爛れた穴が空き、床に脳漿をぶち撒けている。
右手には、ヨハンのものであった拳銃が握られていた。
「こいつが……ダンカン・テイラーなのか? ヨハンを殺した犯人の……」
「おそらくは……。行き場を失った犯人が自殺……という判断が下されるだろうね」
「そんな馬鹿な! 絶対に共犯者……というか、主犯がいるだろう?」
「それを示す証拠は、何も無い」
「では……この倉庫は? どうして、こいつが隠れられた? そして、なぜ空っぽなんだよ」
「この男は、アルバータ商会の雇用者だよ。それに、アルバータ商会は事業の撤退を進めている筈さ」
そんな名探偵の言葉に、舞衣が目を見開いた。
「嘘です。先日、アルバータ商会の御令嬢が、支社を作る手続きの相談に来てるのに!」
「ほう……スロットランドヤードとは別に、調べることは多そうだ」
名探偵の言葉とは裏腹に、その目の煌めきは死体に向けられたままだ。
俺の疑問に答えるように、名探偵は口元を緩めた。
「彼の左手をよく見てご覧、指の間だ。……どうやら検視官よりも、大栄博物館の学術員の方が、この死体に興味を持ちそうだね」
力なく投げ出された左手。
節くれだったその指の間には、ガサガサの手指と同じ荒れ具合の被膜が張っている。それは、水かきにしか見えない代物だ。
魚人……。
ヨハンの言っていた、非現実的な言葉が、
クトゥルフ神話といったか……ホラーゲームだと?
だとしたら、ゴールはどこになる?
邪神とやらを倒せというのか?
エリーゼの呼び子の笛の合図で、警官たちがなだれ込んでくる。
魚臭い倉庫に辟易している警官は、容疑者自殺の報に、興を削がれたようだ。重たい足取りで、倉庫に集まってくる。
名探偵がダストレード警部に、成り行きを説明し終えるのを待って、俺達は倉庫に背を向けた。もう、ここで俺達にできる事は何も無い。
胸に
「お嬢さん、アルバータ商会の御令嬢が相談した相手は誰だね?」
急に名探偵に話しかけられて、舞衣はドギマギしている。
代わりにルシータが答えた。
「同じ下宿に住むエドワードというロウ・スクールの学生よ。時々ブルックラディ法律事務所で下働きをしているわ。……今は、風邪で寝込んでいるけど」
「……話が訊ける状態かな?」
「帰ってみなければ解りません。風邪かも知れないので、移さないようにと、看病も下宿の方にお任せしていますから」
「では、ご案内願いたい」
ホームズ川沿いを早足で戻って行く。
俺は、たくさんの船が停められた川面に、じっと目を凝らしていた。
アリスの言っていた『嫌なもの』が魚人のことであるなら、奴らはあの倉庫に集まっていたはずだ。……一体何のために?
そして、どこに消えたんだ?
アリスが呆れるのも解る。あの魚臭さを知った後では、全てが後手に回っている気がしてならない。
本当に邪神とやらを呼び出そうとしているなら、拠点はどこに有る?
あの倉庫ではないなら、どこだ?
焦燥感に駆られて、叫びたくなってしまう。
もう手遅れなんじゃないのか?
下宿のドアをノックすると、飛びつくように現れたパイロ夫人は俺達を見て、明らかに落胆していた。
その様子に、懐いていた舞衣が膨れる。
「お婆ちゃん、私達を見てがっかりするのは酷過ぎない?」
「ごめんよ……エドワードが戻って来たかと思っちゃって……」
「何? エドワードはどこかに出かけたのか?」
「それどころか、置き手紙と今週分の家賃を置いて、故郷に帰るって……あんな身体なのに、どうしてだい?」
「故郷って……リラプールかよ? こんな時間に、急に……」
「僕たちが待ち合わせた時刻より後に、ユーストロン駅からリラプールへの最終の汽車がある。それに乗って行ったのだろう」
冷静に名探偵が、頭の中の時刻表を検索する。
重い病を押してまで、どうして急に……。
嫌な予感がする……。
「御婦人……。大変失礼だが、彼の部屋を見せていただけないだろうか?」
「どうぞ。荷物もみんな残していったよ……」
失意のパイロ夫人を宥める役は舞衣に任せて、俺達は階段を駆け上がった。
そして、エドワードの部屋のドアを開く。
薄暗い部屋の佇まいは、何も変わっていない。
ひょっこりとエドワードが生真面目な顔を覗かせるような気がして、つい部屋の中を見回してしまう。
デスクや本棚には、分厚い法律書が並んでいる。
まだ開かれたままのノートには、見慣れた筆跡が記されている。
エドワードの息遣いが、そのまま残っているかのようだ。
「彼の寝室は?」
「確か……右側を使っていたはずよ」
エリーゼに確かめ、エドワードが寝込んでいた寝室の扉を開く。
……ふわりと魚の臭いがした。
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