第十二話 アジトへ

 幼いながらに整った美貌が、あどけなく拗ねてみせた。

 浮かべる表情の愛らしさに反して、濁ったまま感情を映さぬ青い瞳が、虚ろにこちらに向けられている。


「だから……あの嫌なもの……追い出して……」

「追い出せば……君はホームズ川に戻れるのか?」

「戻らなきゃ……いけないの……パパや……ママが……迎えに来てくれるから……待ってないと……」


 蒼白い頬が、花のように綻びる。

 時の流れに取り残された小さな魂が、寂しげに白い手を伸ばしてくる。

 まずい、逃げられない……。

 蒼白い微笑みが、目の前に迫ってきた。

 その金色の髪が、じっとりと水に濡れ始める。水色のリボンが解けかけ、白い顔がぶよぶよと膨れ上がり……。

 凍えた俺の身体を包み込もうと……。


「駄目よ、離れなさい!」


 俺とアリスの眼差しに、清廉な真白い光が割り込んだ。

 ロザリオ?

 小さな十字架に、少女の霊が後ずさる。


「この人を連れて行っちゃ駄目よ。嫌なものを追い払ってもらうのでしょ?」

「あ……」


 十字のネックレスを捧げ持つルシータが、慈悲深く微笑んだ。

 少女霊は下唇を噛んで、上目遣いに下がっていく。


「学長のお爺さんの所で待ってて。必ず追い払ってあげるから」

「きっと……よ……」

「ええ……」


 ふっと青い光が消えて、世界に音が戻ってきた。

 消えていた店の明かりに火が灯る。

 肺に注ぎ込まれた冷気をすべて吐き出す。崩れかけた身体を柔らかく、ルシータが受け止めてくれた。


「悪い……よく十字架なんて持ってたな……」

「知らなかった? 私、中学からミッションスクールだったのよ?」

「初耳だよ……」


 駄目だ、立っていられそうにない。

 カウンターを支えに、何とか体勢だけを整える。


「あれが……アリス嬢か……」


 目を剥いて、山崎が声を震わせた。

 もうすっかり酔いなど消え失せた顔で、震えている。

 店主には申し訳ないが、怯えた客が足早に店を出ていく。誰の目にも、は関わってはいけないものだと解るだろう。

 山崎も帽子を被り直すと、よろよろと店を出ていった。


「あんたらも帰ってくれ……今日はもう店じまいだ」


 怯えきった店主に追い出されてしまう。

 いくら幽霊話の本場とはいえ、実際に目の当たりすることは少なかろう。

 衝撃的だったのか、顔色を無くした大河とも店の前で別れた。



      ☆★☆



 まだ空けきらぬ朝、この上ない温もりに包まれて俺は目覚めた。

 長い髪が伸ばした腕に纏わりついている。温もりと、柔らかさを伝えるように、豊かな身体が押し付けられたままだ……。

 記憶は、はっきり残っている。


「……体調はどう?」

「寝てたんじゃなかったのか?」

「ん……なんとなくね」


 腕の中でルシータが恥ずかしげに笑みを浮かべる。

 情けないな……。前回は舞衣を抱っこして。今回はルシータと……。

 こちらの表情を見透かしたように、唇を尖らせる。


「謝ったりはしないでね。……私も望んでしたことだから」

「でも何だか、利用する形になっちまった」

「別に初めてっていうわけじゃないし……こんな形なら、有りかな。求められる時に、ちゃんと応えられたわけだもの」

「なんと言うか……凄え良かった」

「たまには、激しいのも良いものね……」

「乱暴過ぎたか?」

「馬鹿……相手の反応くらい解るでしょ?」

「…………」

「本人の前で、反芻しない! そのくらいなら……」


 しなやかな腕に抱き寄せられて、唇が重なる。

 そのまま流れ込むように、もう一度生命を産み出す行為に没頭する。互いの生命力を高めるために。


 日が昇る頃、安宿を出た。

 生々しくて、とてもゲームの中という気がしない。

 どうにも周りが明るすぎて、まともにルシータの顔が見られないぜ。


「でも、まいったわね……」

「しちゃったこと?」

「違うわよ。昨日のアリスの話。……頭を切り替えなさい」


 クールに装うけど、少し頬が赤い。

 それが、何だか嬉しいと思えてしまう。


「ここ半年で変わった、魚臭い倉庫って……ベアトリス嬢の実家の会社って事でしょう?」

「ああ……恐らくな」

「……彼女自身も絡んでいるのかしら?」

「解らない。暗くなると集まるのであれば……今夜、確かめてみるしか無いだろう」

「相手は幽霊……じゃないわよね?」

「名探偵曰く。人を刺殺できるなら、犯人は人間だろうってさ」


 下宿に戻ると、なぜか舞衣がいた。

 心配顔で、新聞を広げてみせる。

 キワモノの『イラストレイテッド・シティ・ニュース』の一面で……あちゃあ! パブに現れたアリスの霊の件がイラスト付きで、大々的に報じられてるよ。

 まだ宵の口の時間だっただけに、人の噂に上るのも早いか。


「大丈夫だったの?」

「記事にも有るだろう? ロザリオをかざして、勇敢にも幽霊を撃退してくれた美女がいたからな」


 横で得意顔のルシータを軽く睨んで、舞衣は念を押す。


「本当に、身体の方は何でもないのね?」

「一晩寝たから、こっちの身体の方は問題ない。今夜はやらなきゃならない事があるから、リアルの身体の方も休めないと」

「やらなきゃならない事って?」

「もちろん、ヨハンを殺した犯人探しだ。アリスがヒントをくれた」


 どうしても、2階を見上げてしまう。

 エドワードが寝込んでいて、話さずに済むのは不幸中の幸いか。

 不思議そうに俺の視線を追う舞衣を、ルシータが宥める。


「今夜は、もうひと騒動あるんだから。アオイくんは、早く寝ちゃって。舞衣ちゃんには私から、説明しておくわ」


 お言葉に、甘えさせてもらおう。

 現実世界に帰った俺は、当然のように汚れていた下着を流しで軽く水洗いし、まとめてコインランドリーに持って行った。

 コンビニで買ってきた弁当とサラダに箸をつけながら、回転する洗濯物を眺めている。

 成り行きとはいえ、本当に生々しかった。

 こっちも初めてでは無いけれど、感触はもちろん、肌や汗の匂いすら感覚として残っている。あれが仮想現実とは思えないくらい、確かな感触だった。


(そういえば、女なんてご無沙汰だったよな……)


 仮想世界では、エリーゼとはそんな展開にならないものの、舞衣にルシータか……。

 現実を噛みしめるように、ランドリーバッグに、熱いくらいに乾燥した洗濯物を詰め込んでいる。朝からこんな事をしているのは、俺くらいのものだ。

 通勤の人波に逆らう俺は、溜息を吐きながら家路を辿る。

 ……疲れているんだ、眠ってしまおう。


 夕方ログインすると、既に女性陣は臨戦態勢だ。

 夕べの幽霊ショックの影響がありありの大河も、呼び出されて控えている。名探偵にもルシータから連絡済みで、名探偵経由でスロットランド・ヤードが動くだろうとのこと。

 ランタン片手に……って、お前らも来る気かよ?


「当たり前でしょ? 与田くんの仇はしっかり取らないと」


 一番、暴力とは程遠い音楽家のお嬢さんでさえ、これだ。着いてくる気満々では、拒むことさえ出来そうにない。


「昨日は幽霊。今日は何が出るのか解らないってのに……」

「それについては、与田くんから情報有りよ。カエルっぽい半魚人みたいのが出るだろうから、気をつけろって」

「何だいそりゃ? それに、ゲーム中はヨハンと呼んでやれよ」

「それもそうね……ごめん。彼の話を総合すると、この世界はクトゥルフ神話っていうホラーをベースに動いているんじゃないかって、予想しているみたい」

「それをベースにしたゲームは有るのかい?」

「うん、有るみたい。テーブルゲームのRPGでは、日本でもポピュラーなんだって。そして、もし魚人だったら、捕らえるなり、死体でも証拠を残せと。そうしないと警察や軍が動かないだろうって言ってた」

「軍? 警察だけでなく?」

「魚人たちが動いているのなら、最終目的は邪神を呼ぶことだろうって。そうなるともう、人の手には負えなくなるらしいわ」

「マジか? 突然言ってる事が漫画チックになっているんだけど……」

「私だって、眉唾だと思うけど……それがヨハンの予想。アリスちゃんの言葉を信じたなら、同じ幽霊の言葉を信じてあげてよ」

「だから、ヨハンを幽霊にするなって」


 突拍子もない話だけど、あのゲーム狂が言うなら信じてみよう。

 剣と魔法の世界ではなく、このヴィクトリア朝もどきの世界を選んだとしても、恐らくゲームとして参考にしたものが有るはずだ。

 それが、何とか神話という奴なら、それも信じられる。

 邪神とやらがどういうモノかは知らないが、ヨハンが軍を必要と言うなら、おそらくはこの世界をぶち壊して、金の価値をゼロにできる代物だろう。

 そんな物を相手にできるかとも思うが、お約束満載のRPGだって、最後に倒すべきは世界を滅ぼす魔王だと考えれば、不思議どころか納得の存在じゃないか?

 本当に魚人がいたら、もう一度ヨハンと話してみる必要が有るな。


「お前ら、マジでそんなモノを相手にする気かよ」


 大河は昨日のアリスで腰が引けているのか、かなり弱腰になっている。

 もともとお前も、そういうゲームに挑むつもりだったんじゃないのか?


「だって、俺達は魔法も使えなければ、何のスキルも上げるレベルも無いんだぜ? そんなモノ相手に、どうやって挑むつもりでいるんだ?」

「それは、その時に考えるさ。今は確かめるしか無い」

「マジかよ……」

「その体格は、見かけだけなの? しっかりしてよ!」


 捕まえる用にと、縄まで準備している舞衣に発破をかけられてやがる。

 エリーゼは人を呼ぶ為の笛を準備し、ルシータは武器として鎖を持っている。やる気満々過ぎだろう。

 今夜は霧が薄く、珍しく満月がはっきりと見える。

 腰の引けた大河の尻を叩きながら、ドックの手前で名探偵たちと合流した。物陰に隠れながらアルバータ商会の倉庫を目指す。


「ダストレード君は、もう待機していてくれてるはずだ。僕らが何かを見つけない限りは、彼らは法に縛られて動けない」


 お馴染みのインバネスコートの背中を追う。

 胸のホルスターに入れた、銃の重みを確かめる。本当に相手が魚人であるというのなら、これを使う羽目になるのかも知れない。

 なるべくなら、仕込杖のステッキで済ませたい。

 ヨハンの持ち物だった杖は、丸腰では可哀想なので大河に持たせた。

 潜り戸の南京錠をピッキングした名探偵は、錠を取り除きながら、確認する。


「では……行くよ」


 潜り戸を開くとそれだけで、魚臭い空気が溢れ出る。

 いくら水産会社だからといって、異常だ。

 俺たちは、魚臭い闇の中へと躍り込んだ。

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