第八話 アリスは語る

「あら……?」


 ようやく俺に気づいた『少女』は、優美に首を傾げる。

 豪奢なイエローゴールドの髪をクルクルとカールして、耳元に水色のリボンで2つ結びにしている。子供ながら、気品のある面立ちだ。

 エプロンドレスは、正しくは水色ではなく、白地に青いピンストライプのもの。

 そこまではっきりと見えているのに、ぼんやりと向けられた青い瞳と、この寒さに半袖の夏服姿が、少女がこの世のものでないと教えている。

 少女はスカートを摘み、完璧なカーテシーを決めて、自己紹介する。


「初めまして。私はヘーゼルバーン伯爵家の次女、アリスと申します」


 見事に名前が当たっているぜ、学生たち。

 どうやら、話ができる幽霊のようで助かる。


「俺はアオイ。プレイヤーだ」

「プレイヤー……初めて見ました。私たちと、変わらないのね?」


 声も表情も興味深そうなのに、目は変わらずにぼんやりとしている。

 作り物ともまた違う感覚に、さっと肌が粟立った。

 吐く息まで凍りつきそうだ。


「君は何で、大学にいるんだい? まだ通学する年齢ではないだろう?」

「ええ……まだ社交界にも、お目見えしてませんのにね」


 アリスは少し考える間を置いて、懐かしいものを思い出すように言葉を続けた。


「家族みんなで、ホームズ川で舟遊びをしていたの。私は……はしゃぎ過ぎて川に落ちてしまって……気がついたら……夜にホームズ川のほとりに、一人でいたわ」


 それから、急に子供らしく身を揺すって華やぐ。

 急に時間が巻き戻ったように。


「夜の外出なんて、初めてだもの。私……誰もいない歩道を、お散歩して楽しんでいたの。霧も深いし、誰も私が子供だなんて気づきもしないのよ……」

「それが、何でこの大学に?」

「お気に入りの散歩コースだったのに……がいっぱい湧いてきたの。逃げ出して、行き場の無くなった私を、ここのお爺様が迎えて下さったの……」


 ぼんやりとした青い目が、壁の絵画や、置かれた彫刻を眺める。


「ここは素敵……嫌なものなどいないし……みんな優しいの……見慣れぬ子供に驚いた方もいらしたけど……最近は、驚かさないように合図してくださるのよ」


 喜べ、警備員たちよ。

 君たちの優しさは、ちゃんとアリスに通じているぞ。

 それは良いのだが……。


「アリス嬢。君の言うって何だい? それは怖いの?」

「嫌なものは……嫌なものよ」


 上品な美貌が、嫌悪に歪む。

 じんわりと空気が冷えてゆく。肺が凍りついてしまいそうだ。


「ホームズ川は……私のお気に入りの場所だったのに……。あの嫌なものに盗られちゃったの……て……耐えられなかったわ……」


 ゾクッと、別の意味で背筋を奔るものが有る。

 だと……?

 俺の知るホームズ川は、水質が良く、嫌な臭いなどしない。

 舞衣と二人で歩いた黄昏時の霧の河畔も、ロマンチックな感じだったじゃないか。

 そして、ヨハンの途切れ途切れの記憶。

 鮮魚輸送の荷車に乗せられていたから、『魚臭い』のだと思っていたが、この不思議な一致は何だ?


「アリス、教えてくれ! 君が言う嫌なものは、ホームズ川のどこにいる?」


 つい、その肩を掴んで問い質そうとしてしまったら、小さな青い影は、すっと遠退いた。


「レディに対して……無礼ですよ……」

「ご無礼をしました。……でも、アリス。君が好きな散歩コースは、ホームズ川のどの辺りなんだい? 教えてくれないか?」

「え……っ?」


 思いがけない事を問われたように、アリスはキョトンした顔で俺を見た。

 感情を無くしたガラス玉のような瞳が、どろんと見据える。


「どこ……って……あれ……? 何で思い出せないの……。私……ホームズ川で……」


 小柄な少女が纏う淡い青が、激しく明滅した。

 感情が嵐となって、吹き抜ける。

 風が通り抜けた俺の髪も肌も、霜が降りたように凍りついた。

 見る見る内に少女は濡れそぼり、白い肌は血の気を失い、ぶよぶよと膨れ上がってゆく。

 水死体として発見されたアリスは、こんな姿だったのだろうか……。


「私は……水に落ちて……苦しかったのに……誰も……助けて……くれなくて……」


 アリスの足元に出来た、水たまりが広がってくる。

 俺は、反射的にそれから逃げた。

 絶対に触れてはいけないと、頭の中で警報が鳴り響いた。

 ジリジリと、二人が眠る教室のドアへと後ずさる。


「私が……いけない夜遊びをしているのに……どうして……パパもママも……叱りに来てくれないの? ……私は……私は……」


 ガスに膨らみ、髪も肌も艶を失い、濡れそぼった美少女のなれの果てが、それだけは変わらぬガラス玉のような青い瞳で泣いている。

 この感情に、囚われてはいけない。

 戻れなくなってしまう。


 その時、大音声の怒声が響いた!


「哀れな少女を虐め、泣かす者は誰だ!」


 その衝撃で、感情の嵐から引き離されることが出来た。

 俺は、教室のドアをくぐり、しっかりと閉じたドアを押さえつけた。

 アリスを護る為に、爺さんの方まで来やがった!

 俺は全身の力を振り絞って、ガタガタと暴れるドアを必死に押さえる。

 廊下を吹き荒れる暴風が、治まってくれと。

 生まれて初めて、本気で神に祈った。

 それは、数分のことだったのか、数時間経った後なのかは解らない。

 ようやく鎮まったドアに凭れ、俺は意識を失った……。


       ☆★☆


「おーい、アオイくん。こんな所で寝ていると風邪を引くぞ」


 揺り起こされた俺の眼の前には、山崎の呑気な顔が有る。

 辺りはすっかり明るくなり、朝が来ているらしい。


「それで……アリス嬢には、逢えたかね?」

「ああ……身体が震えるほど、可愛い少女だったよ」

「アオイ……お前、大丈夫か?」


 大河が心配を通り越して、怯えた顔で俺を見ている。

 俺は、ゆっくりと立ち上がった。


「そんなに、変な顔をしているか?」

「ああ……何だか、命を吸われたような顔だぜ」

「この世に在らざる者と逢ったんだ。さもありなん」


 山崎の差し出すグラスを、一気に煽る。

 喉を流れ落ちる酒精の熱さが、自分が生きていることを感じさせてくれる。

 ようやく身体を、熱い血が巡り始めたようだ。


「ふむ……用事が済んだなら、帰るとしよう」


 山崎がドアを開くのを、反射的に止めようとしてしまう。

 だが……開かれたドアの向こうは、何も変わらぬ風景だった。


 小鳥が長閑に鳴いている。

 二人に支えられながら校門を出る俺を、警備員たちが噂した。


「おぉ……怖っ。やっぱり、興味本位で幽霊なんかに会うものじゃない」

「綺麗な女の子らしいけど、あいつの顔色を見るとな……」


 その通りだ。

 好き好んで、幽霊なんかに会うものじゃない。

 骨身に染みたよ。


「あの……言い辛いんだが、アオイ……」

「解っている、日当だろ?」


 IDカードを合わせて、金を送る。

 1万5千円の金額に、大河が目を見張った。


「おい、ちょっと多過ぎるぞ」

「いいんだ……いてくれて良かった。一人じゃあ、とても持たなかったよ」

「何もしなかったじゃないか。酒を呑んで寝ちまっただけで」

「いてくれた事が大きいんだよ……本当に、感謝してる」

「では、僕はこれで」


 山崎が去り、気にしながらの大河とも別れる。

 覚束ない足通りで、俺は最近会員になれた図書館に向かった。

 分厚い紳士録を借り出し、ページを捲る。

 伯爵家なら、それほど数は多くないはずだ。

 ヘーゼルバーン伯爵家の項を探し、家系図を辿る。


 一代前の伯爵家の次女アリスは、1819年に川遊び中に水死。と書かれていた。

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