鮫の置物
紫鳥コウ
鮫の置物
日野家の玄関の
が、かれこれ三十分も座ったままでいた。別に、待ち人がいるわけではない。というよりも、じっとしていることに、なんの理由も持ち合わせてはいなかった。季節外れの蝉の抜け殻のように、言葉を発することさえしない。
× × ×
夕暮れになると、猫が
初子は、有名人の醜聞のひとつひとつに、口に出せぬ冷評を下していった。しかしふと、窓の向こうの寒々しい雨を見てしまうと、自分の身の上は、夫の浮気を知った女優よりも、悲惨極まりないのだという感傷が、胸中に膨らまないこともなかった。
× × ×
線香に火をつけると、梅子は神妙な顔を作りながら手を合わせた。作りながら?――それは紛うことなく演技に違いなかった。のみならず、死者を
冷ややかな空気のなかを漂う線香の匂いは、不思議が起こるかもしれぬという、演出効果をもたらしていた。が、梅子は、死人が姿を現わすのは構わないが、
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太一は手も当てずに咳をしながら、地元の新聞社が主催している文学賞に応募する小説の構想をノートブックに
そういえば昨日、太一は、初子に教科書を投げつけた。彼にとってそれは愉快な一事だった。無論、初子にしてみれば、雷に撃たれるような衝撃に違いなかった。が、それは、太一による積年の復讐と言えなくもないのは当然だった。
× × ×
ところで、日野家の玄関には、
が、これが鮫であることは、鮫であると言い張られたから鮫とされているに過ぎなかった。そうでなければ、
鮫は歯を抜かれていた。というより、彫りが深かったために取れてしまったらしい。のみならず、この鮫の置物は、
加えて、メモ帳の上に横たわっているボールペンは、手に取られることは滅多にないらしかった。というよりも、もうすでにインクを
× × ×
その日の夜、浩太郎は、赤らめた顔を玄関の明かりのなかに見せた。片手には飲みかけのビールの缶が持たれていた。そしてまた、少なからず陽気な気分ではあった。が、若干の寂しさが隠しきれていないのも事実だった。
無論、浩太郎を待ち望んでいた者は、誰もいなかった。のみならず、みな、夜が
「相変わらず、
が、その理由を、知らないはずがなかった。そして、
「酒なんて飲みだしたのは、お
浩太郎は、萎れた水仙、旧い電話帳、カレンダーで作ったメモ帳……の陰に隠れた鮫の置物の上に、残ったビールを
「もう俺たちゃあ、家族でもなんでもねえんだ。残った俺たちゃあ……」
〈了〉
鮫の置物 紫鳥コウ @Smilitary
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