第二章  第一のささやかな、いくつかの事件 7





「どうしちゃったの鈴、なにか気になることでも──」

 怪訝な顔で夕香が尋ねる。


「あの・・・、この話し俺がしたっていうのは内緒にしてもらっていいですか。チクったって思われちゃうと──」

 おずおずと上目遣いに雄作が言って来る。

「分かってる、あんたの名前は出さないから安心して」

「ありがとうございます、夕香さん。じゃあ、俺行っていいっすか」

 夕香が右手を、行け行けと無言で振る。

 雄介はぴょこんと頭を下げ、小走りに去って行った。


「ねえ夕香、あたしそのジュンって子に、むかし逢ったことがあるような気がする」

 ぽつりと鈴が呟いた。

「えっ、さっきの話しに出てきたイケメンのこと?」

「うん・・・、たぶん五歳の頃にね。いままで忘れてたけど、ジュンって名前を聞いて思い出した。子どもの頃はあんなに覚えてたのに、最近なぜ忘れてたんだろ――」

「へえ、どんな子だったの? 雄作が言ってたみたいに、イケメンの面影あった」

 興味津々に、夕香の瞳が輝いている。


「真っ白な男の子、それが唯一残ってる印象かな。なにもかもが真っ白なの、髪も顔も来てる服も全部が──」

 鈴が当時を必死に思い出そうとする。


「たしか夕方の海岸で出逢った、夕陽が海面に揺れていて綺麗だったもの。たしか小さな桜貝をくれたんだわ、そう、思い出した。いまあたしがずっと身につけてる桜貝のペンダント、小学生の時にお母さんにねだって鎖をつけてもらったの。また来年も遊ぼうねって指切りして別れたんだ。両親に手を引かれ石段を昇るあたしを、彼はいつまでも手を振って見送ってくれてた」

「なにそれ、ロマンティックじゃない。いまイケメンなんだから、きっとその頃も可愛い顔してたはずよ。再会したらフォーリンラブしちゃうかもね」

 揶揄うように夕香が笑う。


「でもあたしはそれっ切り、ここへは来なかった。約束を破っちゃった」

「なに気にしてんの。そんな小さな子供の約束だもの、向うだってすぐに忘れちゃってるって」

「そうかな・・・、だったらいいんだけど」

 鈴は不安そうに俯く。


「あ、あのう──」

 そんな二人に声が掛けられる。

「あっ部長、なんの用ですか」

 言いにくそうに声を掛けて来た、名前だけは恰好いい三年生の高岡翠たかおかつばさに、夕香が訊き返す。


「あのですね、一応いまは練習時間なんで、ほかの部員と一緒に身体動かしてもらっていいかな。特に弓岡さんは、次期部長なんだからみんなの手本になってもらいたいんだけど。あっ、嫌ならしょうがないんだけど」

 昨年廃部を救ってもらった恩があるため、いまになってもこの二人には部長も遠慮がちに接しているのだった。

 特に勝気な夕香は苦手らしく、あまり顔を見ずに鈴にばかり話しかける。


「すいません部長、おしゃべりに夢中になっちゃって。すぐに戻ります」

 素直に頭を下げる鈴を見て、彼は安心したように作り笑いを浮かべ戻って行く。

「じゃ、じゃあお願いしますね」

「はーい、ごめんね部長」

 夕香が部長の後ろ姿に、ぺろりと舌を出す。


「ねえ鈴、部長あんたのことが好きだよ。絶対間違いないって、でも鈴にはイケメンの王子さまが待ってるんだものね。あんな冴えない部長じゃ、どう考えたって太刀打ちできないわよね」

「そんなんじゃないって、軽口叩くとひどいわよ夕香。あたしだって健一くんとのこと、ある事ないこと言い触らすからね」

「だはは、それは勘弁してよ。あたしは構わんが、照れ屋のあいつが困っちゃうじゃん」

「駄目だこりゃ」

 声を上げて笑う夕香に、鈴は諦めたような溜息を吐いた。



 その日、事件は起きた。

 お寺の庫裡の裏手に干していた女子たちの洗濯物の中から、麗子先生の下着だけが誰かに盗まれてしまったのである。


 女子たちが真っ先に疑ったのは、テニス同好会の男子生徒たちであった。

 憤慨した同好会の男子生徒は、身体検査から持ち物検査までを徹底的に実施してもらい、その濡れ衣を晴らした。


「美術部のやつらも調べろ、俺たちを疑ったんだから当然だろ。こいつらだって同じ男だぜ、俺たちとどこが違うってんだよ」

 剛志が美術部員に詰め寄る。

 こればかりは真っ当な意見であった。


「そうよ、うちの部員だけを疑うなんて失礼じゃない」

 同好会の男子だけではなく、女子部員からも不満の声が挙がった。


「馬鹿な言いがかりはよしてもらおう、美術部の生徒はそんな真似はしない。お前らとは出来が違うんだ、下衆な勘繰りをするんじゃない」

 例のごとく速水が、馬鹿にしたような返事を返す。


「こら速水、下衆といったな。聞き捨てならねえな、謝れ、手をついて謝れ。お前は同好会全体を馬鹿にしたんだ、このままで済むと思うなよ」

「済まなきゃどうする、岡部。得意の暴力か」

「口で言ってわからなきゃ、そうせざるを得ないよな。空手の組手でもなんでもいいぜ、先生立ち合いの上で受けて立とうじゃねえか。仲間を馬鹿にされて黙っていたんじゃ男が廃る」


「ケンちゃん」

 隆介が声を掛ける。

「止めても無駄だ、隆ちゃん」

「誰が止めるって言った。さすがはケンちゃんだ、ここらで雌雄を決するのもいいんじゃない。本物の男がどんなもんか、このエセ優等生に教えてやりなよ。二度と偉そうな口を利けないくらいにね」

 にやにやと笑いながら、隆介が健一の肩を叩く。


「なに煽ってんのあんた」

 健一の肩に置かれた手を振り払い、夕夏が隆介に鋭い視線を向けた。

「健一、あんたも止めなさい。そんな事してどうなるの、先生たちに任せるのよ」

「うるせえよ、夕夏。お前は黙ってろ」

 滅多に見せない自分へのきつい言葉に、夕夏が驚く。


「と、いうことだ先生。これから俺たちは正式な組手の練習をする、立ち合いを頼む。こりゃ喧嘩じゃねぇんだ、お互い同じ道場で鍛錬した者同士の組手だ。わかるよな先生」

 珍しく健一の目が据わっている。


「先生、そういう事になりましたので見分役をお願いします。そうですね、決着はどちらかが参ったをするか、立てなくなったら終わりでいいでしょう。多少の怪我もあるかも知れませんがね」

 どこか人を喰ったような言い方で、速水が軽く晃彦へ会釈をする。


「馬鹿かお前ら?」

 緊張感の高まったその場の空気が一変するほどの、拍子抜けする言葉が晃彦の口から出て来た。


「そんなの教師の俺が許すわけないだろ、ホントにお前らまだガキだな。いまの話しは同好会の意見が正しい、美術部員も身体検査と持ち物を調べる。これは顧問命令だ、素直に従え。どうだ岡部、これで文句はないな」

「ふん、最初っからそうすりゃいんだよ。でもね先生、こいつには一言謝ってもらう。俺たちを馬鹿にしたんだからな、それが人間の筋だろ」

「それもそうだな。速水詫びを言え、お前が悪い」


「くっ──」

 速水が唇を噛んで、健一を睨み据える。

「────」

 なかなか謝罪の言葉を口にしない速水を、晃彦が無言で促す。


「すまなかった、ぼくの言い方が悪かったようだ。勘弁してくれ」

「どうだみんな、これで気が済んだか」

 健一が同好会のみなの顔を見回す。


「いいんんじゃねえの、こうやって謝ってるんだから」

 剛志が言うと、ほかの者たちも頷く。

「よし、これで済んだ。お互い根に持つんじゃねえぞ」

 健一が大声で言った。


〝こいつ、なかなかやるじゃないか〟

 晃彦はまだ十七歳の青年を見て、満足そうに微笑んだ。


 その後美術部員たちからもなにも出て来ず、生徒たちの疑いはとりあえず解けた。

 後になって思いもかけない真犯人が見つかることになるのだが、それはまた別の話しである。

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