第一章  発端 11





「それからの俺は散々だった。慌ててアメリカにまで駈けつけて来た両親を見て〝ごめん〟それだけを言うのがやっとだった。病院のベッドに寝ている俺の顔を見たお袋は、気も狂わんばかりに泣いた。親父からはこれでもかと言わんばかりに怒鳴られた。もし普通の身体だったら、嫌というほどぶん殴られただろうな。俺はその時、一生分の親不孝をした」

「まさかそんな事があったとは──」

 了海の重々しい声が、静かな室内に響いた。

 君江は涙ぐんでいる。


「十日後俺は日本に戻った。しかし故郷へは帰らず、東京の親父の知り合いの所に厄介になったんです。どうしても生まれ育った町に戻る気にはなれなかった、俺のことを知らない人間の中で暮らしたかった。要は現実から逃げたんです、しょうがないじゃないですか、まだ十七歳だったんだから」

 言い訳されなくっても、鈴には晃彦の気持ちが嫌というほど理解できた。


「それからは、まるで抜け殻のような生活だった。親父の知り合いの所からもすぐに逃げ出し、一人暮らしを始めた。部屋に閉じこもり、誰とも顔を合わせないような日々を三年近く過ごしたんです」

 思春期の青年にとっては、あまりに勿体ない三年であった。


「やっとどうにか人と接することが出来るようになった頃、俺は二十歳になっていました。どう言うわけか、たまたまその日美術館にふらふらと入っていた。そこで俺は、子どもの頃絵を描くのが好きだったことを思い出した」

 晃彦は、遠くを見るように目を宙に向けている。


「その日、小学生の集団が見学に来ていた。ほとんどの子が絵になど興味を示さず、館内を走り回ったりして教師に注意を受けていた。そんな中、一枚の絵の前で立ち止まり、一心不乱にその絵を見詰めている少年がいた」

「変わった子ね、絵が好きだったのかしら」

 鈴が言う。


「なんとはなしに俺は、その少年に声を掛けた」

〝きみ、絵が好きなの〟

「声を掛けられても、その少年は絵から目を逸らさなかった」


〝別に絵なんか好きじゃないよ、ぼくはこれが好きなだけ〟

「そう言った少年の瞳から、ひと雫の涙がこぼれた」

〝ぼくもこんな絵が描きたいな〟

「少年の口から、そんな言葉がぽつりと出た」

〝お兄さんもこの絵が好き?〟

「ひと筋の涙の痕を拭きもせずに、少年が俺に訊いて来た。その時、少年の顔が凄く厳かに見えた」


〝────〟

「俺はなにも応えられないでいた」

〝さあみんな、これで見学はおしまい。バスに戻って〟

「遠くから教師の声が聞こえた」

〝バイバイ〟

「屈託のない笑顔を見せて、何ごともなかったかのように少年は仲間の所へ走って行った。あの厳かな表情は消え去り、それはただの小学生の顔だった」



〝絵か・・・〟

「俺の心の中で、なにかが変わった。いまとなってはその絵が、誰のなんという作品だったのかさえ思い出せない。ただ覚えているのは、その少年の純粋な涙だけだ。俺はその瞬間美大へ行くことを決心していた」

 そこまで話して、晃彦の顔がやっと明るくなった。


「高校を卒業していなかった俺は、大検の資格を取り美大に合格するのに三年かかった。卒業するまでにさらに五年、まあ優等生とは言えない成績でどうにか教師の資格を取得し、卒業していまの学校に赴任してきたわけさ」

「晃ちゃん、苦労したんだね」

「鈴、お前が泣くことないだろ」

 涙を流す鈴を見て、晃彦が笑う。


「そんな言い方ないでしょ、可哀そうで同情してやってるのに。晃ちゃんの馬鹿」

 泣き笑いしながら、鈴が晃彦の胸を小さな拳で叩く。

 伯父夫婦も同じく涙を指で掬いながら、その遣り取りを見て笑っている。


 鈴にとって、この晃彦から聞いた話しは生涯忘れることの出来ないものとなった。

 それでも鈴は、いまのどこか頼りなげな平凡な美術教師の叔父が大好きだった。


〝ずっとこのままの晃ちゃんでいてね〟

 なんども晃彦の胸を叩きながら、鈴はそう願っていた。

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