第一章 発端 10
「それにしても晃彦くん、君が美術教師になるなんて思っても見なかったよ。わたしはてっきりプロになるんじゃないかと思い込んでた。あの頃マスコミも大騒ぎだったしね、一体アメリカでなにがあったんだね」
「あなた、そのことは──」
言い辛そうに、君江が夫の言葉を遮る。
「いいんです伯母さん。みんな気を遣って腫れ物にでも触るように俺に接する、いい加減そんな態度は止めてもらいたかったんですから。もう十五年も前のことだ、いい加減忘れちまいたいんですよ、テニスのことは」
晃彦が明るい顔で了海を見る。
「俺もあの頃はプロになることを疑っていなかった、なにせ高校一年の十六歳で日本のトッププロに勝ったんです。自分でも天狗になってました、まだ子どもだったもんで。そして十七歳になる直前にアメリカに行った、そこでも俺の才能は群を抜いていました。渡米三日後に強制出場させられた全米ジュニアで、あっさりと優勝。順風満帆とはまさにあの頃の俺のことじゃないかな」
薄々とは知っていたが、やはり晃彦は若い頃にテニスの選手だったのだ。
鈴は叔父の口から語られる、若い頃の話しに魅入られていた。
「所属したテニスアカデミーでは、すぐにでもプロに転向することを勧められた。そこで実際の能力を試すために、極秘にある試合が組まれたんです。グランドスラムで上位に進出するクラスの選手との練習試合です。誰もが俺が勝つ事など予想だにしてなかった、ただどこまで食い下がれるかを見極めるためのものだったんです」
誰も話しに口を挟まない。
「俺自身も勝てるなんて思ってもいませんでした。自分の力を試したい、ただそれだけです。しかしふたを開けてみれば、圧勝だったんです。──俺の」
鈴は息を呑んだ。
平凡な田舎の高校教師だと思っていた叔父晃彦が、そんな天才テニスプレーヤーだったとは今のいままで知らなかったのだ。
「秘密の試合だったために公にはされませんでしたが、業界内には衝撃のニュースとして瞬く間に広がったようです。誰よりも一番驚いたのは俺自身でした、まさか自分の力がそこまでとは思ってなかったんです」
特になんの感情見せずに、晃彦は淡々と話しを続ける。
「周りは色めき立ちました、すぐさまプロ転向への準備が進められ、同時にスポンサーへの売り込みが始められた。そうして一月後にはデヴューは世界四大大会の一つ〝全豪オープン〟と決まった。スポンサーも世界的な有名企業が数社つき、契約金は合計一億ドル以上だといっていた。なんの実績もない選手を、どんな伝手を行使したのか知らないけど〝主催者推薦枠〟の八人の中にねじ込んだんです。故意的にスーパースターを誕生させる計画だったらしい」
「────」
衝撃的な展開に、鈴は言葉もなかった。
ほかの二人も、固唾を飲んで聞き入っている。
「それからの俺は、テニス漬けの毎日でした。二十人近くの専属スタッフが組まれ、狙うのはプロ緒戦にしてグランドスラムでの優勝、壮大なプロジェクトです。優秀なコーチが招聘され、徹底的に最先端の練習が繰り返されました。そんな時、思ってもいなかったことが起こってしまったんです」
晃彦はそこで話にひと区切りつけた。
それから先に語られるであろう話しは、あまり耳障りのいい事ではないことが察せられた。
「話したくないのなら無理をすることはない、誰にでもそんな事の一つや二つあるものだ」
了海が柔らかい眼差しで、晃彦を見ている。
「いいえ伯父さん、話させてください。いつまでも過去に捕らわれてても仕方がない」
引き結んでいた口元を緩ませ、晃彦が自嘲のような笑みを浮かべる。
「いつものメニューをこなしていた時、突然胸が苦しくなり目の前が真っ暗になって気を失ってしまった。病院のベッドで目を覚ました俺に、信じられないような言葉が待っていました。〝ガミー、君はもうテニスは続けられない、プロにはなれないんだ。アカデミーとの契約も切られた、二週間以内に日本へ帰国してくれ。一週間というのを二週間に伸ばしてもらうのが精一杯だった。すまないが、わたしにはこれ以上どうしてやることも出来ない〟渡米してからずっと通訳をしてくれてたリトル・ジミーからそう告げられました」
「リトル・ジミー?」
不思議そうに、鈴が小首を傾げる。
「あはは、あだ名だよ。百九十センチ以上もある大男のくせに、子どもの頃ひと一倍背が低かったらしくそう呼ばれてたらしい。人の良い優しい男でね、専用通訳として東洋人の俺を弟のように可愛がってくれた。あんな宣告を告げる役を押し付けられ、本当に気の毒だったよ」
「なにかの病気?」
君江が尋ねる。
「ええ、心臓の疾患です。普段の生活には支障がないレベルなんですけど、激しい運動には耐えられないと言うことでした。ましてやプロテニスプレーヤーになど、とても成れない位のね。まさに天国から地獄へと落ちてしまったような気持ちでした。頼るべき家族も友人もいない外国で、たった十七歳の子どもが背負うには、あまりに重すぎる現実だったんです」
「可哀そう・・・、晃ちゃんが可哀そう過ぎる」
その時の晃彦の年齢といまの自分を重ね合わせ、鈴は居たたまれない気持ちになった。
〝あたしがもし同じ事になったら、いったいどうなっちゃうんだろ〟
そう思うと、胸が張り裂けそうだった。
「アカデミーのアパートメントから出た俺は、それから帰国までの日々をリトル・ジミーの家で過ごした。新婚だった彼の部屋にはクロエという綺麗な嫁さんがいて、嫌な顔ひとつせずにすごく親切にしてくれた。明日が帰国という夜に、俺はしてはいけない選択をしてしまった。大量の睡眠薬を飲み手首を切ったんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます