第12話新たな歯車

営業時間前の仕込みの時間だった。

入口にはcloseと仕込み中の立て看板が掛けられている。

いつものように音があまりしない静寂の中で僕は仕込み作業に勤しんでいる。

しかしながらその静寂を破ったのは入口のドアをノックする音だった。


「誰だ?まだ仕込み時間なんだがな…」


そんな独り言を口にしながら仕込みの手を止めて入口に向かう。

窓から件の相手を目にすると僕は無警戒のままドアの鍵を開ける。


「何用ですか?」


ドアの前には二十代前半ぐらいの女性の姿がある。

何かを伝えようとしている彼女に僕は首を傾げていた。

彼女はもじもじとした態度をとると胸ポケットからメモ用紙を取り出す。

もう片方の手に持ったペンで彼女はメモ用紙にサラサラと文字を書いていった。

何事かと少しだけ訝しんでいると彼女は僕にメモ用紙を見せてくる。


「こんにちは。私は何度か一屋に飲みに来たことがあるのですが…

お店の雰囲気が凄く気に入っていまして…

私はこんなだからバイトをするのも困難で…

でも初めて働きたいって思った場所なんです。

勝手を言っているようですが…私は一屋のファンなのです。

良ければ私を雇ってください」


メモ用紙を目にした僕はウンウンと頷き彼女に目を向ける。


「こんなだからって?」


確認をするように僕は彼女へと視線を向ける。

彼女はすぐに新たなメモ用紙にペンを走らせていた。


「はい。他人と話すのが苦手で…緊張して上手に話せないんです。

声を出してコミュニケーションを取るのが苦手で…

手間ですが…この様にして会話をしているのです」


「そっか。緊張して声が出ないんだね?」


彼女は僕の問にウンウンと頷いて応えた。


「そうか…それだとホールの仕事は…」


僕がそこまで口にして断りの返事をしようとすると…

彼女はどういうわけか必死で首を左右に振る。

僕は意味がわからずに首を傾げていた。


「キッチンで料理補佐をしたいです。

一屋で修行がしたいのです!」


彼女は衝撃的な事実をメモ用紙に書いて僕に見せる。


「えっと…料理の経験は?」


「はい。専門学校に通っていました。

ですが上手にコミュニケーションが取れないので…

就活は全部失敗でした…」


「あぁー。でも働かないと生きていけないからどうにか就職先を探していたと?」


彼女はそれに頷くので僕は一度彼女を店の中へと案内する。

カウンター席に案内すると僕は仕込み作業を行いながら彼女に質問をしていた。


「どんな事が出来る?」


僕の問に彼女は一生懸命にメモ用紙に書き記していた。

僕は書き終えるのを待ちながら仕込みを少しずつ進めていた。

しばらくすると彼女は自らが出来ることをメモ用紙にびっしりと書き記している。

僕はそれを一つずつ眺めながらウンウンと頷く。


「ここに書いてあることが本当なら…即戦力として雇いたい」


僕の言葉を耳にした彼女は大きく頷いて見せる。

自信に満ちた表情で頷く彼女を目にして僕は柔和な笑みを浮かべる。


「じゃあ一週間。君の仕事ぶりを見てから採用を判断しても良い?」


彼女はそれに大きく頷くと僕に右手を差し出してきた。

握手に応えるように右手を差し出すとそのまま握手を交わす。


「僕のことは店長か一で覚えておいて」


彼女はそれに頷くと手を引っ込めてメモ用紙にペンを走らせている。


「私は水野彩みずのあやです。

数少ない友人は水彩すいさいって呼びます。

好きなようにお呼びください」


「分かった。それで…いつから入れる?」


「今日からでも」


ということで本日より急遽キッチンの料理補佐である水野彩が仮採用されたのであった。



「そういうわけで今日から料理補佐で働いてくれる水野彩さんです。

コミニュケーションを取るのに筆談を用いますが仲良くね」


僕は本日のホールアルバイトであるケイに向かって他己紹介をしていた。

水野は深く頭を下げると早速ケイに対して筆談で自己紹介をしているようだった。

二人はすぐに意気投合したようでお互いに笑顔を向けていた。

何も波乱な出来事がなく安堵して本日の仕事に向かうのであった。



宣言通り水野の料理補佐としてのスキルは一級品だった。

彼女なら何処でも活躍することが出来ると僕は確信の様な思いを抱いていた。

それならば…彼女を手放す必要がないという確信も抱いている。

それなので僕はここから数日間の彼女の仕事ぶりをしっかりと拝見しようと思っていた。


二十四時になり閉店作業をしていると僕は彼女に問いかける。


「どうだった?きつい?」


その問いかけに彼女は首を左右に振って応える。


「そっかそっか。それなら良かった。続けられそう?」


再びの問に彼女は大きく頷いて応える。

それに笑顔で応えると二人で閉店作業を終わらせて戸締まりをする。

裏口から店を出た僕らは少しだけ大きな伸びをする。


「もう遅いから送っていくよ」


僕の言葉に彼女は何とも言えない表情を浮かべる。

今日一日でまだ見たことのない表情だった。


「あれ?迷惑だった?」


僕の言葉に彼女は首を左右に振る。


「じゃあ…どうしたの?」


その問いかけに彼女はペンを走らせていた。

メモ用紙を怖ず怖ずとした表情で見せてくる水野。


「帰る場所は無いので…漫画喫茶にでも行きます」


その悲しい文章に僕は言葉を失っていた。


「え…帰る場所がない?実家は?」


僕の問に彼女は詳しい説明はせずに首を左右に振ると大きく頭を下げて先を急ごうとしている。


「ちょっと…!危ないよ。

水野さんが嫌じゃなければ…住む場所が見つかるまで僕の家に住む?」


その下心など微塵もない問いに彼女はぽかんとした表情を浮かべていた。

あれだけケイや青空とのルームシェアを断っておきながら…

どの口がこの様な言葉を口にしているのか…

しかしながら僕は眼の前の女性を見捨てることが出来ないでいた。

それ故の提案だったのだ。


「えっと…その代償に何かを差し出せとか…」


その怯えたような文章を目にして僕はいたたまれなくなり思わず苦笑する。


「そんなわけ無いでしょ。100%善意だよ」


「じゃあ…お邪魔します」


「帰ろうか」


そうして本日出会ったばかりの女性。

急遽料理補佐として店に入った水野彩は…

僕の家で同居することになったのであった。




また一つ歯車が加わり…

僕らの関係に進展が見られそうだった。


新たな歯車のお陰で…

今までにはない不協和音にも似たノイズが聞こえてきそうだった。


僕らの関係は今後どうなるのであろうか。

それはまだ誰も知らないのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る