明日は明日の寒風が吹く 灰狼

 眠る狂狼の顔に灰狼はそっと近付いた。鏡に映る自分自身と友達になった時は驚いたが、日が経つと少しはその衝撃も薄れた。灰狼はゆっくりと顔を覗き込んだ。整った顔に本来の赤い髪が少しずつ生え始めていた。口を閉じてさえいれば良いのだが、喋れば口から出るのは暴言だった。目を開ければきっと忘れることのない、赤い炎が灯されるのだった。気のせいか、と灰狼は自分に言い聞かせた。有難うと言われて心がどきりとしたのも、きっと気の迷いだからだった。灰狼はそう何度も自分自身に言い聞かせることで、平常心を保つことにした。

「……灰狼?」

 灼熱の赤い、狂狼の瞳が灰狼を見つめていた。灰狼は急いで狂狼から離れると、何事もなかったかのように演じた。

「目を覚ましたんだな、狂狼。大丈夫か?」

 狂狼はむくりと体を起こすと、頭を掻いた。

「ん……灰狼か。何か頭がまだはっきりとしないな。やはり、帝国の猟犬と鬼ごっこをしない方が良いな」

 灰狼は狂狼の両肩を強く握った。

「お前、鏡と話していたの思えているか?」

 寝ぼけた顔をしていた狂狼は、すぐに不機嫌そうな顔をした。

「鏡? 何故俺が鏡と友達でないといけないんだ? 俺、そこまで狂ってはないぞ。って言うか、ここには俺の愛しの御本はないのか?」

 灰狼は目を閉じ、一瞬で温かい雰囲気が消え去ったことを悟った。拳を握り締めるとベッドの端の本棚に置かれていた、本を手で包めた。自分で直した本だったが、今は丁度良い武器としか思えなかった。狂狼が逃げる前に素早く狂狼の頭を叩いた。ゴキブリを叩くように、程良い音がした。

「馬鹿、心配した俺が馬鹿だった」

 狂狼の胸に本を押し付けると、灰狼はすぐに踵を返した。機嫌が収まることは一向になかった。何から何まで馬鹿馬鹿しく見えた。灰狼は今すぐにでも機関銃で敵を蜂の巣にしたかった。跡形もなくこの世から消せば、気分が今よりはましになるように思えた。だが、そんなことを行った所で根本的な解決には決してならないのだった。灰狼は何故あの時本をわざわざ直したのか、その行為を行った自分自身が理解出来なかった。狂狼など気にかける必要もない人なのに。怒りのせいで狂狼のことを思い出すだけでも嫌だった。瞼の裏に瞬間的に何度も、普段の何気ない狂狼の横顔が映し出された。灰狼は唇を噛むと、頭を掻いた。両手で激しく掻いても、頭が痛くなるだけで何の解決にもならなかった。灰狼はボサボサになった前髪の間から、色のない景色を眺めた。


「何人もの女は落とせたのに、たった一人の男も落とせないのか?」

 狂狼は痛い所を突く声に不機嫌な表情をしたまま、下を向いた。女は仕事のために落としただけで、狂狼は一度も女に恋心を抱いたことがなかった。それなのに弄るように、言われるのは不快でしかなかった。

「煩い。俺のせいではない。……それに自ら告白した訳ではなく、された方だろ。小隊長は」

 と、狂狼は扉の隣に立っているギールを見た。

 ギールは口角を上げながら、狂狼に近付いた。

「それは痛い言葉だ。だが、だからこそ今は何よりも守ろうと決心し、それを必ず実行するようにしている。後、上官にそのような口調だと不敬だぞ。訓練場を十周でもしたいようだな」

 ギールは悪戯を思い付いた餓鬼のような笑みを浮かべた。狂狼は顔色を悪くしたが、今更発言を撤回出来る訳がなかった。視線を逸らしながら、狂狼は口を開いた。ギールでなければ逆に愚痴も言えたのだった。

「……一番好きな奴にそう軽々しく言えるかよ」

「ふん、正直でない奴が」

 と、ギールは一見口が悪かったが、状況を楽しんでいた。

 狂狼はギールを睨もうとしたが、見つめるだけに抑えた。

「正直ではないって言うな。俺は本も重要なのだった」

 付け加えるように狂狼は急いで言い訳をした。ギールは溜め息をした。

「それだから、灰狼よりも本が好きだと勘違いされたんだ。灰狼を憐れむよ。流石にどんな人も悲しくなるよ」

 狂狼は拳を握り締めながら、ギールに突っかかろうとしたがすぐにギールに押さえられた。上から肩を押されると狂狼は更に動けなかった。

「俺の大切な趣味を冒涜するな」

 ギールは隣の椅子に座ると、ゴミを見るような目を狂狼にした。

「冒涜ではない。仲間を大切にしないお前を心の底から軽蔑しているんだ。まだ気付かないのか?知らないとは言わせないぞ。……その本を直したのが灰狼だと忘れた訳ではないだろう? 散々危機から救ってくれた人物は誰だ? 灰狼しかいないだろう」

 狂狼は指で遊びながら、口を尖らせた。

「そ、それは分かってるけど……」

 ギールは狂狼をベッドに押し倒した。狂狼は衝撃に体を咄嗟に丸めた。

「良い加減、素直になれ。お前は灰狼も大切にしていないし、自分自身にも嘘を付いている。そんな不安定な状態で仕事をされても、確実に死ぬぞ。男なら自分で全て片付けろ、狂狼」

 怒鳴られた狂狼はギールの行動に驚愕し、その言葉は一切頭に入らなかった。狂狼は口から出そうになった短い悲鳴を抑え、心を落ち着かせると口を開いた。

「小隊長、ハニートラップのお趣味でもお有りで?」

「黙れ。お前にはそういう魅力などない。磨いてから来い」

 と、ギールは狂狼の頭を叩いてから座り直した。

 シワが付いた服を直しながら、倒れたままの狂狼をジロリと睨んだ。仰向けで倒れている様子は服がなければ、全力で降参している狼と同じだった。

「いつまでその降参ポーズをするんだ?」

「……何でもないですよ」

 と、狂狼は起き上がるとベッドの上で胡座を掻いた。

 ギールは何も言わなかったが、ギールの前でこのような舐め腐った態度が出来るのは狂狼一人だけだった。狂狼の腕を強引に掴むとギールはベッドから引きずり出そうとした。

「なら、今から一番過酷な訓練に放り込もうか? そうすれば少しはお前も改心するのか、狂狼?」

 ギールの引っ張る力が緩んだ隙に狂狼は急いで、土下座を綺麗に行った。

「す、済みませんでした」

 狂狼の頭を見ながら、ギールは首を左右に振った。

「違う。お前は状況を一切理解していない。そもそも謝る人が違うだろう。お前は私に何か困らせることをしたか? いや、してるが一番困らせたのは違う人だろう」

「で、ですが……」

 初めて経験する出来事に狂狼は自信が持てなかった。幾ら行おうとしても、口から出るのは言い訳ばかりだった。本来はこのようにしたくないとしても、それを変えることは出来なかった。痺れを切らしたギールは勢い良く立ち上がった。

「もう勝手にしろ」

 と、ギールは荷物を纏めると早足で出て行った。

 振り向かれずに見捨てられ、狂狼は手元の布団を握り締めた。大きな溜め息をついてから天井を眺めると、布団に潜り込んだ。今はそれ以外何もしたくなかった。

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