第二部外伝
狼も歩けば子狼に当たる 灰狼
ゼドから黒狼ぬいぐるみを授けられた灰狼は、何とか平常心を保ちながら部屋の外へと出た。流石に黒狼様の前でおかしな格好を見せる訳にはいかなかった。扉が閉まると灰狼は急いで振り向き、扉がしっかりと密閉されいているかを確認した。そして、ぬいぐるみを神の前に捧げるように、持つ手を頭の上で上げながら跪いた。決してぬいぐるみを壊し、穢れることがないように丁寧に触っていた。黒狼様を愛する者として黒狼ぬいぐるみは神器であった。灰狼は音も立てずに静かに涙した。行きつけの喫茶店の店長から新作の黒狼ぬいぐるみが入荷したことを聞き、買おうと土日にでも行こうかと考えていた。だが、それを急いでせずに違う選択肢を取った、自分自身のことを褒めたくなった。¬黒狼様から戴いた物なら家宝にし、子孫代々継承する必要があった。灰狼は今日という一日を。そして、狂狼と出会ったことで、よりゼドに近付けたことを心から感謝した。
「……だ、大丈夫ですか?」
灰狼は静かに横を向いた。白髪に水色の目をした男が、不安そうながらも心配した視線を送っていた。灰狼はすぐに記憶から、ギールの恋人のイシャル・ベニトスと理解した。灰狼はゆっくりと両腕を下ろすと、失くす前に黒狼ぬいぐるみを上着の内ポケットに入れた。安心させるために、首を触りながら振り向いた。
「あぁ、有難う御座います。丁度、持っていた物にゴミが付いていたようだったので、それを取り除いていました。ご心配させて済みません」
そう答えながらも、灰狼は脳内で自分らしくない口調だと思った。どこまで誤魔化せるかは怪しかったが。だが、イシャルの方は一気に安心したようだった。
「それなら良かったです。体調不良だったら、いつでも教えて下さいね。……えっと」
イシャルは灰狼を頭から爪先までじっと見つめながら、言葉を紡ごうとしていた。
「あぁ、済みません。私はエゼル・グレストニーです。イシャルさんですよね? 非常に有名ですよ。あのジェベル副官を射止めた人物だと」
灰狼はイシャルが名前を思い出そうとしていると感じ、用意されている偽名を口にした。このタイミングを間違えれば、正体がバレてしまう可能性があった。イシャルはすぐに顔を手を当てた。顔が恥ずかしさで真っ赤になっていた。灰狼はその様子を見て、意識を逸らせたとほっとした。
「……そ、そんなに知れ渡っているのですか? 嫌だ、恥ずかしいです……」
「恥ずかしいことではありません。誇りに思って下さい、イシャルさん」
と、灰狼は無難な笑みをイシャルに見せた。
イシャルは灰狼を見上げるように下から見つめた。灰狼は心を殺していたから平気だったが、中々守りたくなる独占欲を唆らせた。それが無意識なら中々恐ろしいのだった。ただ灰狼はイシャルが訓練で、自分よりも遥かに大きい男を吹き飛ばしていたのを見ていた。華奢に見えて実際は強いのであった。流石の灰狼でもその様子を見た時は、投げられる方にはなりたくないと思った。か弱い子狼に見えれば、実際は眠れる獅子であった。
「有難う御座います、エゼルさん」
イシャルは灰狼に満面の笑みを作った。灰狼は辺りが神々しく照らされる錯覚を見た。瞬きをすれば、元の視界に戻っていた。
「いえいえ」
と、言うと早急に灰狼はその場から去った。
イシャル・ベニトスと距離が近くなり過ぎると、上司の小隊長から何を言われるか分からないからだった。灰狼はエゼル・グレストニーを病欠と設定すると、そのまま日常業務に戻った。だが、突然ギールから呼ばれたかと思えば、殺意を込めて睨まれた。
「イシャルを悲しませるとは何事だ、灰狼」
「……はい?」
いきなり訳の分からないことを言われ、灰狼は戸惑うばかりだった。ギールは組んだ手を顔に当てながら、長い溜め息をした。
「イシャルが体調が悪いというエゼル・グレストニーを心配している。会うことも出来ない重症なのか、と心を痛めている。折角のイシャルとの楽しい憩いの時間だったのに、それが台無しになったではないか……」
灰狼は何も言い返さなかったが、ただ愚痴を言われているとだけは嫌でも理解出来た。だが、そもそも灰狼にエゼル・グレストニーではなく、灰狼として仕事に戻れと言ったのはギールだった。灰狼はギールの命令以外で動くことはなかった。責任転嫁されていたが、それを指摘した所でギールに屁理屈で勝てる訳がなかった。
「済みません」
と、灰狼が言えばギールが顔を上げた。
「なら、行動で示せ。良いな、エゼルを病欠や死亡させるな。二度とイシャルを悲しませるな」
灰狼はすぐに口を開いた。公私混同していようと小隊長だから許されるのだった。小隊長が全ての正義となる。
「了解しました」
ギールは指でテーブルを叩いた。静かな部屋にその音が響いた。
「後、昼にでも一緒に食べていってやれ。ぼそっと一緒に食べれたら良いのに、と言っていたからな。だが、変なことをしようと考えでもしたら、即除隊だからな」
灰狼はギールを真っ直ぐ見つめると、しっかりと頷いた。やはりどこまでも過保護だったが、言う訳がなかった。翌日、灰狼は食堂でイシャルがよく座る座席の近くに腰を下ろした。すると、笑みを浮かべながらイシャルが現れた。灰狼は優しい笑みを浮かべながら、イシャルと会話をした。だが、横ではギールが終始睨んでいたので、心を休めることは出来なかった。このようなことに巻き込まれるから、隠れて出歩くのが好きだった。ただ今回は自らが招いた種だったので、仕方なく自分で片付けることにした。出来るだけギールの機嫌を損なわないよう気を付けていた。そのため、イシャルから外出に誘われた時は酷く悩んだ。部屋に戻った時、頭を抱えながら盛大に溜め息をした。何度も修羅場に遭遇し、胃がジリジリと痛くなるのだった。
「エゼルさんは何を食べるのが好きなのですか?」
目前のイシャルから声をかけられた灰狼は、顔を上げた。過去の回想を断ち切ると、手前のティーカップに口を付けた。美味しくも不味くもなく、ただの飲み物が注がれていた。灰狼はすぐに質問に答えるために頭を動かした。食べるのは好きではなかった。食べるのは生きるためにする必要があるから、仕方なくする行為でしかなかった。だが、それを言う訳にもいかず、灰狼は焦りながら口を開けた。
「これが好きです」
「スプーン……? いや、スプーンにもとても大切な思い出があるのですかね」
と、イシャルは苦笑いをしながら喋っていた。
灰狼はそこで手にスプーンを持っていることに気付き、やってしまったと思った。スプーンに何の思い出もなかった。唯一あるとしたら、ケーキが置かれている皿にあるフォークだった。フォークなら刺すのにも使えそうだった。スプーンは眼球をくり抜く方法しか思い付かなかったが、使い勝手は悪そうだった。
「そ、そうです」
短く灰狼は答えるだけにした。灰狼は持ち得るコミュニケーション能力をフル活用し、イシャルとの他愛ない会話を続けた。灰狼からすればこの場にギールが用事でないことが、何よりも救いだった。少しは最近のストレスを癒やし、何気ない時間を楽しむことが出来そうだった。そのためなら、後でギールから何か言われても我慢することが出来そうだった。このような時間はゼドとはないものだった。知らぬ間に灰狼はイシャルとのティータイムを楽しむようになった。それが初めてのリラックス出来る時間だった。静寂を共にする仲、趣味を共にする仲の他に、会話を共にする仲も心地良いものだった。イシャルと別れる時間になり、灰狼が少し寂しく感じたのはきっと気のせいではなかった。灰狼は少し心が揺れているように感じた。
「本日は有難う御座います、エゼルさん」
少し日が落ちてきても、イシャルの輝きが衰えることは一度もなかった。それを眺めながら、灰狼も口を開いた。
「素敵な時間を有難う御座いました、イシャルさん。このようなことは初めてだったので」
「いえいえ」
と、イシャルは小さく言うと灰狼に背を向けて歩き出した。
その姿を少し見てから、灰狼も帰路を進んだ。だが、すぐに手を伸ばすと飛んできたナイフを掴んだ。刃で皮膚が切れ、地面に血の模様が出来ていた。灰狼が静かに振り向くとイシャルが立っていた。灰狼が口を開こうとする前に、イシャルが灰狼の目前まで迫っていた。覚醒した狼のようにその瞳は見開いていた。急いでナイフを持ち直すと、灰狼は首元に迫ったナイフを間一髪で防いだ。衝撃で灰狼の背中は壁にぶつかった。イシャルはハッとすると灰狼から一歩退き、仕出かしたことに顔色を青くしていた。灰狼は少しだけ痛かったが、平気だとすぐにイシャルに伝えた。あってはならないことだったが、イシャルといて気が緩んでいた。
「……影兵さん、僕は自分で僕の身を守れることを伝えたかったのです。僕はギールさんのお荷物になるつもりはありません。しっかりとギールさんの隣に立てる、クロスネフ副隊長みたいになりたいのです」
灰狼は乾いた口を動かした。影兵ということは、影狼小隊の存在を感じ取っているということだった。
「いつから……気付いていたのですか?」
イシャルは視線を下ろしてから口を開けた。
「最初は分かりませんでしたが、少しずつですかね……。まぁ、一番はギールさんが悪いと思いますけど。影兵さんの演技は騙されましたよ。エゼル・グレストニーも本名ではないですよね?」
灰狼は息を小さく吐いた。
「答えられません」
イシャルは灰狼に近付くと縋るように灰狼を見た。
「なら、それでも良いです。僕を強くして欲しいのです」
灰狼はゆっくりと首を横に振った。
「それを私で決めることは出来ません。どうかジェベル副官にご相談下さい、イシャルさん」
「分かりました」
と、ここでイシャルは大人しく退いた。
灰狼はこの件に関し、ギールから何も言われなかった。ただギールが悩ましそうな顔をする所から、ギールがイシャルのことを正しく見れていなかったと思われた。恋は人を盲目にする、ということを灰狼は目前で垣間見た。翌日に灰狼は笑顔のイシャルに声をかけられた。
「よろしくお願いします、エゼルさん」
それで灰狼はイシャルがギールを打ち負かし、無事に勝利したことを知った。灰狼は元からイシャルの申込みを却下するつもりはなかった。腕は良かったのでアドバイスさえあれば、更に上手になることは明らかだった。ただそれを行うには、守護者の許可を得る必要があった。訓練のためとは言え、許可なく行い怪我でもさせれば、物理的に抹殺されるのだった。灰狼はその日にイシャルからしっかりとした謝罪を受け取り、新たな黒狼ぬいぐるみが灰狼のコレクションに仲間入りした。ギールが何よりも素晴らしいアドバイスをしたようだった。その後、ギールにも頼まれ、訓練外で灰狼は少しずつイシャルを教えた。一応外から見れば、二人の軍人が貴重な休憩時間も犠牲にして、特訓をしているようであった。
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