あとがき

 こたつに入りながら、僕は冷やしたお茶を啜った。猫舌だから湯気が立ち上るお茶は、まだ挑戦したことがなかった。ピラミッドに盛り付けている蜜柑も、雰囲気を出していた。わざわざ狭い部屋を更に狭くし、こたつというものを味わおうと思った甲斐があった。インターホンが鳴り、僕はミミズのようにこたつから這い出た。急いで手元の上着を羽織った。以前のゼドとは違い、今日の訪問者は常識人であって欲しい。暴力反対の僕に怖いことを皆したいようだ。僕の心臓に悪いというのに。

「はい」

 と、僕は言いながら扉を開けた。

 扉の向こうで満面の笑みを浮かべながら、包丁を握っているギールがいた。顔が血濡れていたら、大きな勘違いを生みそうだった。いや、最初から包丁を勝手に持ち出すのは法に触れている。僕は何も言わずに扉を全力で閉めた。二つの鍵も必ず閉め、チェーンも付けた。それでも不安になり、僕はひ弱ながらも全身で扉を押した。扉の向こうから何度も叩く音がした。怒った狂気がすぐ背後に迫っていた。

「一東先生、お話しましょうよ」

 僕は頭を左右に振った。そのお話は暴力と書く方だと言われなくても理解出来た。

「仕方ないですね……」

 ギールはそのように言うと続けた。

「灰狼、開けてくれ」

 僕は動きを止め、冷や汗を掻いた。灰狼も呼んできているとは聞いていない。そのカードを切るのは反則だった。どんな鍵も開けられる、解錠の魔術師。灰狼と影狼。この二人が合わさった時に何を仕出かされるか分からない。

「済みません、一東先生。小隊長の命令は絶対ですので」

 灰狼はそう前置きを言うと、鍵を弄り始めた。僕は鍵が回っていくのを、呆然と見ることしか出来なかった。許容出来ない出来事に直面し、体が硬直していた。僕が負けるとは何事だ。あっという間に、二つの鍵が開けられていた。だが、チェーンにより、ギールはまだ中に侵入することが出来なかった。僕は何とか安全を保てたとほっとした。嫌な予感がしたと思えば、ギールが何かを取り出す布が擦れる音がした。

「一東先生、怪我を負いたくなければ射程から離れて下さい」

 僕はギールの言葉を脳内で言い直した。射程。銃のことだと馴染みがない僕は、すぐに分からなかった。扉の隙間から見れば、ギールが本当に銃を突き付けていた。僕は恐怖で仰け反り、四つん這いで扉から一番遠い机の下に急いだ。

「何故、そんな危ないことをしたのです?」

 と、ギールの叱声が答えた。

 だが、僕がもし反論出来るのなら言いたかった。最初に危ないことをしたのはギールの方だった。包丁から始まり、今は銃とあり得なかった。

「両方の耳を塞いで下さい」

 僕は言われた通りにした。すると間も開けずに銃声が響いた。目の前でチェーンが破壊され、破片が部屋中に飛び散った。僕は体を丸めると悲鳴を上げた。近付く足音が聞こえ、僕は必死に叫んだ。

「帰れ。僕はお前をそんな人間に育てた覚えはない。何でゴリ押ししてでも入ってくる? あり得ない」

 ギールは僕の前でしゃがんだ。丁度陰にいる僕からすれば、ギールが光っていた。イシャルもこう見えたのだろうかと思ったが、今はそうではなかった。

「幻滅しました、一東先生? 私を消しますか? ただこの方法を取らないと中に入れなかった、と弁明しますよ」

「それはそうだろう。包丁を手に持った人が扉の向こうにいて、はいどうぞと開ける人がいるか。いないんだよ」

 と、僕はギールに切れた。

 ギールは静かに僕を見た。

「もしや、私にムカ付いていますか?」

「当然だろう」

 僕はギールに噛み付いた。気分は必死に威嚇しようとする子犬だった。だが、この肉食獣にはどう足掻いても勝てない。ギールを見ると、ギールは最初に見た時に見せた笑みを見せた。怒りのギールの表情だ。

「これで分かりましたよね。危ない現状に陥ると誰だって怖いのです。で、私は特に貴方に苛付いているのです。今回私の愛しいイシャルを身の危険にさせましたよね。イシャルは一人間であって、貴方の趣味に付き合わされる筋合いはないと思うのですが」

 ギールの言葉を聞きながら、僕は聞こえないように吐き捨てた。

「大好き野郎が」

 すると、ギールの顔が目前にあった。ギールはあの赤い目で僕を直視していた。僕は恐怖で震え上がった。それは先程の銃と比べ物にならなかった。

「一東先生、聞いていますか? いらない耳なら削ぎ落としますが?」

 と、ギールは包丁を手に出現させた。

 僕は血の気が引いた。ギールは包丁を投げて遊ぶ、狂気の遊戯をしていた。僕はぎゅっと目を閉じた。だが、少し待っても衝撃が何も来なかった。目を開けるとエプロン姿のイシャルがギールの耳を引っ張っていた。

「ギールさん?」

 悪戯をした子供を叱り付けるように、一言一言はっきりと言った。流石の鬼将もママには勝てないようだった。ギールは正座をすると頭を下げた。

「済みません、ふざけました」

 と、いつの間にか包丁はちゃっかり消していた。

 イシャルは腕を組みながら、仁王立ちしていた。一見子犬の威嚇のようだが、実際は熊と錯覚するほど怖い。

「僕に弁当を作らせておきながら、ギールさんはこっちに来ていたんだ。それほど僕の作る物はいらないのですね」

 と、軽蔑する冷めた目をしながらギールを見た。

 イシャルは溜め息をしてから、その様子は『舞姫』のエリスのように美しく、誰もが優しく抱擁したくなるものだった。ギールは涙目になりながら、必死に頭を左右に振った。裏切ったとここで気付いたのだろう。

「ち、違う。それは」

「それにですね」

 イシャルはギールを指差すと続けた。

「謝る相手が違うのです。ギールさんのせいで被害を被ったのは僕ですか? 違いますよね。胸に手を置かなくても、それぐらい分かりますよね」

 大きな溜め息を零してから、イシャルは僕を見た。

「本当に済みません、一東先生」

 と、イシャルが非常に綺麗なお辞儀をしてきた。

 ギールも倣って後に続いた。僕は突然のことに何も言えなかった。イシャルはギールの耳を引っ張ると、そのまま部屋から出て行った。ギールは涙目になりながらイシャルに引きずられた。扉が閉まる音がし、僕は立ち上がると椅子に座り直した。伸びをすると体の緊張が解れたように感じられた。

「やれやれ、酷い目に遭った……」

「ご苦労様です、一東先生」

 横で声がした僕は急いで頭を横に動かした。優雅にティーカップを手に、空間に浮いているセインがいた。全員帰ったはずなのだが、何故ここにいるのだろうか。僕は嫌な冷や汗を掻いた。セインがここにいれば、非常に困る迷惑ストーカーが飛んでくる。扉が破壊される音がすると、息を荒くしながらゼドが登場した。端から僕を威嚇し、本当の黒い狼と遭遇しているようだった。ゼドは僕を睨みながら指差した。こら、人を指差すな。

「一東、セインとイチャイチャしていたんだろ」

 と、黒髪の下で翡翠色の瞳に涙を溜めながら、僕に叫んできた。

 言うことが支離滅裂である。それよりもセインのことをもっと信用してやれば良いのに、と言いたくなった。ただ僕はそれさえも信用がゼドからないのだった。セインはティーカップを置くと、ゼドに近付いた。そっと頬に手を滑らせると、猫のように爪を立てた。中々力を込めているようで、ゼドは声を漏らしていた。銀狼は相当お怒りのようだった。

「ゼド、僕にも同じことを言うのか?」

 そう言いながら、今度は胸板を指でなぞっていた。ただ時より首に近付き、喉仏を触っていた。更に怒らせば、爪で喉を掻き切るようだった。ゼドは頭を横に振った。

「そんな訳ないじゃないか、セイン。俺はそんな悪い奴じゃない」

 どの口が言うと言いたくなった。黒狼も嘘は得意なようだが、銀狼からすれば赤子の手を捻るようだった。セインはゼドを一度睨んでから、部屋から去った。ゼドは手を伸ばすがすぐに追いかけることは出来ないようだった。俺を恨む目を向けると、急いで走り去った。セインを呼び止める声が聞こえた。やっと部屋が静かになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る