28

 ゼドに毒薔薇の情報が伝えられる前のこと。隊長や毒薔薇の情報を調べるために狂狼が敵国に派遣された、と知った灰狼は最初は何も思わなかった。だが、日が経つことに何故か不安になり始めた。場所が場所であるため一応大丈夫であるとは思うが、ヘマをすればいつでも殺されてもおかしくなかった。灰狼はその不安は知らぬ間に仕事を通して築かれた絆、だと考えた。取り敢えず他の仕事に影響を与えないため、灰狼は狂狼のことを頭から切り離すことにした。精神が統一されていなければ、仕事をしている時に集中力が切れる。それは灰狼だけのヘマではなく、影狼小隊全体の信頼にまで影響してしまうからだった。そのため、そうすれば安全だと灰狼は安心してしまっていた。そのような事態にこれまで遭遇したことがないからだった。ただすぐにそれに効果があったかが証明された。

 基地から影狼小隊の本部がある、セーフティハウスに戻った灰狼は自室へ戻ろうと廊下を歩いた。その時にたまたま狂狼の部屋の前を通ってしまった。すると、ふと忘れていた狂狼のことを灰狼は思い出してしまった。灰狼は急ぎ足で自室に戻ると、黒狼ぬいぐるみに安らぎを求めた。黒狼ぬいぐるみを優しく両手で抱けば、他を忘れることが出来た。

「これで大丈夫だ……」

 と、自分に言い聞かせるように灰狼は呟いた。

 だが、こびり付いていた狂狼のことが視界で、何度もしつこくチラついていた。折角の鑑賞タイムも妨害するほど、抑えられない物になりつつあった。腕を組み首を傾けながら悩んだ灰狼は、気付けば椅子で足も組んでいた。一先ず立ち上がると、灰狼は狂狼の部屋の鍵を突破し、机に置かれた紙吹雪を両手に抱えながら部屋に戻っていた。ハッと顔を下ろせば、両手に持っていたのは中々の重症であった。狂狼が一番好きな本だったと灰狼は机に並べると、パズルを解くように元の場所に置き始めた。だが、場所が足りないと分かると床も利用するようになった。何かに集中する。それだけで気分は良くなった。全てを元の場所に置くと、一ページずつテープで何とか直していった。痛い体を鳴らせば、元通りの本が手元にあった。

「……俺は、馬鹿だ」

 本を床に置いた灰狼はそう両手を付きながら、嘆いた。少ない癒やしの時間を妨害された上、気付けば更にそれに時間を割いていた。黒狼の養分を得ることが出来なければ、明日のやる気が失われる。生き甲斐がない中で仕事をするなど地獄でしかなかった。一大事であるとしても、他からは些細なことと思われるのだった。それはただ灰狼が外では表情筋が滅多に動いていないせいで、ゼド以外誰も灰狼の趣味嗜好を知らないからだった。拳を握り締めて強く意を決した灰狼は、本をテーブルに置いてから急いで就寝のための準備を行った。普段の無駄を省けば、十分の短縮を何とか行えることが出来た。灰狼は部屋で一人で微笑みながら、黒狼ぬいぐるみと共に布団の中に入った。黒狼ぬいぐるみの頭をそっと撫で続けると、灰狼はベッドサイドテーブルの赤座布団の上に黒狼ぬいぐるみを飾り、目を閉じた。

「おやすみなさい」

 寝る前に普段より楽しめる時間が増えたと考えれば、沈んでいた心が逆に跳ね上がった。灰狼は夢で黒狼ぬいぐるみと踊っていたが、起きた時にはそれを覚えていなかった。狂狼抜きの生活が続く中で、怪我をした狂狼が緊急帰国したとの報があった。灰狼はポケットに黒狼ぬいぐるみを入れてから、本を手に病院に急いだ。病室の扉を力付くで開けると、丁度狂狼がベッドで座りながら、手鏡を眺めているようだった。頭には包帯が巻かれているが、それ以外は目立った怪我が見当たらなかった。灰狼を本来の赤く燃える目で、狂狼は見ると口を開けた。普段付けている、コンタクトレンズは治療のために外されたようだった。

「灰狼、新しく出来た知り合いを紹介させてくれ」

 と、狂狼はしきりに鏡に映る自分を灰狼に見せた。

 灰狼は戸惑いながら狂狼に近付いた。

「おい、お前。狂狼、ふざけているつもりなら今すぐ止めろ。そこに映るのが何か分からないのか?」

 狂狼は不思議そうに灰狼のことを見た。あたかも目前に広がる事態が普通であるかのように。

「……どうしたんだ、灰狼? そんなに俺の新しい友達を拒絶するなよ」

「それはただの鏡だ」

 と、灰狼は鏡を奪い取った。

 狂狼は一度動くのを止めたが、すぐに見えない誰かに手を振った。

「帰ってしまったじゃないか、灰狼。……またいつ会えるか分からないのに」

 灰狼は震えながら鏡を叩き落とすと、狂狼を睨み付けた。狂狼の両肩を激しく振り、中に潜む悪霊を追い払おうとした。

「良い加減早く目を覚ませ、狂狼。分からせないといけないのか?」

 灰狼が更に力を込めると、狂狼は首から頭が取れそうなほど左右に揺れた。すると周りに待機していた隊員らが急いで二人の間に入った。灰狼は他にまで、危害を加えそうな雰囲気を出していた。

「灰狼さん。狂狼さんも治療をしている最中なので、このままでは悪化してしまいます……」

 狂狼の肩に灰狼の指は瞬間接着剤でくっ付けられたほど、頑丈に張り付いていた。隊員らはきつく握られた指を一本ずつ取りながら、灰狼に語りかけた。灰狼は肩で息をすると溜め息をしながら、靴を見つめた。一応は相棒であった者が、本当に狂うのは見るに堪えなかった。一番近い隊員に直した狂狼の本を渡すと、立ち去ろうと振り向いた。更にその空間の空気を吸い続ければ、灰狼までもが狂いそうだった。拳から血が垂れそうになるほど強く握り締めたが、何故か足は前に進まなかった。見捨てられないと思ってしまう情が、知らぬ間に生まれていたようだった。灰狼は心の中で大きな舌打ちをした。

「有難う、灰狼」

 灰狼が振り向けば、狂狼が直した本を手に持っていた。丁度、隊員が気を利かせて渡したようだった。灰狼は狂狼と目を合わせずに口を開いた。

「慣れない言葉をわざわざ言うな、ダサいだけだ。正気になってからしか、再度会いたくない」

 と、部屋から出た。

 廊下に出ると灰狼は服の袖で口元を覆った。顔が赤くなりそうになったのは、廊下が暑いせいだった。

「……嬉しくもねぇ、馬鹿」

 そう呟くと灰狼は早足でその場から立ち去った。

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