18
俺は目を開けた。瞬きをしてみた。何度も見上げた執務室の天井が見えていた。ヒリヒリと額がした。あれほど叩けば痛くなるのも当然だった。そこで俺はギールを狩ろうとしている途中だと気付いた。急いで起き上がろうとしたが、体の自由が効かなく失敗した。俺はそのまま背中からソファに倒れた。きっちり手足が拘束され、俺を無力化する方法をマスターしていた。武器も全て取り上げられ、俺の見えない所に隠されていた。俺が口を開けて何かを言おうとした直前に、灰狼が俺の顔を覗いた。視界一杯に紙を突き付けられた。俺はそれを振り払うことも出来ず、仕方なく黙読した。俺を無理矢理読ませるために、拘束したのだった。
諜報員がいると判明したため、芝居をしていました。副隊長には不自由をおかけしますが、ご協力のほどよろしくお願いします。
言葉を読み終わると灰狼は紙を直した。拘束が外された俺はソファの上で頭を抱えた。とても質が悪く、今は何も考えたくなかった。灰狼が気を利かせて、俺に麦茶を用意した。だが、俺は到底飲む気になれなかった。今飲めば一生飲みたくなくなるほどだった。好きな物で解決することではなく、気分も良くならなかった。俺は一度だけ顔を上げた。滅多に引かれたことのない窓のカーテンが引かれ、扉や角に人が立っていた。知らない顔もあるため、ギールの手下と思われた。厳重体制が敷かれ、全体的に重苦しい雰囲気になっていた。俺は自分の安心する執務室に閉じ込められていた。ただそんなすぐに状況に納得出来なかった。
俺は首を横に振った。だが、副隊長としては私情を挟むのは許されなかった。それに考えたくはなかったが、ギールも何も私情を挟んでいた訳ではなかった。俺が管理出来ない小隊を動かしながら、銀狼隊のブレインも担っていた。諜報部門を専門的に担うギールと、表業務だけしか知らない俺とでは考えることが異なっていた。対立をした所で、何も作戦成功率が向上する訳ではなく悪化するだけだった。俺がギールのストレスを増やす原因になってはならなかった。俺に綺麗に型に嵌まりさえすれば、ギールは小隊の方に出来る限り集中出来た。それは俺が頼んだことだった。俺は目を押さえて円を描くように撫でた。息を静かに吐くと、無駄な物を捨てた。悩みから切り離され、気分がすっきりした。俺は望まれる副隊長であり続ければ良い。
「ギールを呼べ」
灰狼を真っ直ぐ見つめ、俺はそう言った。灰狼はじっと俺を見たが、俺は小さく頷いた。俺に頭を下げてから、灰狼は扉から出て行った。少しすると扉が開き、ギールが現れた。扉が閉まり切る前に俺はギールに近付いた。何も言わずに胸倉を掴むと、ギールの顔を殴った。唇が切れ、血が床に飛び散った。ただ赤い絵の具が広がっただけだった。床に倒れたギールは抵抗もしなかった。
「死にたいのか、ギール? いつまでもふざけて、流石に俺は切れるぞ」
と、ギールの服の首元を掴むと、廊下を引きずった。
手足をだらりと伸ばしながら、ギールは俺の私室前まで運ばれた。俺は鍵で開けた扉を蹴り開けると、ギールを中に放り投げた。扉を乱暴に閉めると、ギールと取っ組み合いを行った。息が切れて共に床に倒れ込んだ。ギールを乱暴に掴むとそのまま乱暴に壁に叩き付けた。重たい音がすると、ギールは壁に座り込んだ。どこまでもボロボロの雑巾になっていた。俺はそれを見ながら、口角を上げた。
「ざまぁ見やがれ、ギール」
俺はそう言い終わると、粗い息を整えた。ギールは未だ俯いたままだった。灰狼が天井裏から現れると、俺とギールは目を合わせた。争いを隊員に見せつけることで、情報を漏らした者の尻尾を捕まえようとしていた。ギールは髪を掻き上げると、灰狼に渡されたティッシュで血を拭いていた。見た目の割には特に出血していない。多少ボコした所で、どこも折らないのがギールだった。俺はクローゼットを開けると適当に軍服を取り、ギールに投げ付けた。そのまま何も言わずに洗面所を指差した。血塗れた状態で出歩くのは迷惑だった。ギールは頷くとシャワーを浴びに行った。俺はベッドに腰かけた。
「殺る気だったのですか、クロスネフ副隊長?」
俺は顔を上げて灰狼を見た。
「どうだろうか。本気ではあった。演技だけだとバレるからな。ただ殴るのは殴る方も痛いからな。それで気分はすっきりしない。だが、これでおあいこだ。……辞めさせるのは一発だが、後任は一瞬で育成出来ない」
「以前も憲兵隊の者をしばいていましたね」
灰狼に言われ、俺は思い出した。憲兵隊の新人が何をトチ狂ったのか、俺は隊長呼びした。ただの間違いであろうとその過ちは言語道断だったので、力で黙らせてから憲兵隊の所まで引きずった。銀狼隊以外の者はドン引きしていたが、銀狼隊の隊員は微笑ましく見ていた。後日、その上司から正式な謝罪があったが、憲兵隊は銀狼隊の信用を失った。俺も許す気がなかった。
「そうだな。……だが、毎度暴力で解決している訳ではないぞ」
と、俺は灰狼に付け足した。
どのように思われているか分からないが、侵入者を物理的に黙らせる灰狼も大概だった。更に脇腹を突かれるのは困るので、俺は強引に会話を逸らすことにした。丁度、部屋に視線を移すと窓のぬいぐるみ軍団を見た。そうだった。この犯人は目前にいた。
「灰狼、聞きたいのだが……あれらは何故置いたのだ?」
俺はぬいぐるみ軍団を指差した。灰狼は視線を横に動かして、何のことか納得していた。
「小隊長からクロスネフ副隊長の部屋を飾り付ける物を、用意するよう言われましたので。大切なコレクションを聖域に飾ることにしました。彼らも黒狼様と一緒なら幸せに生きられると思いますし」
目を輝かせる灰狼に俺は二歩後退った。一歩では足りなかった。ぬいぐるみを人のように接し、俺を神様か何かにしていた。ただの俺の私室がどうすれば聖域になるのだ。新手の宗教でも始められないのは困る。
「俺、それ聞かされていないのだが」
「それはクロスネフ副隊長だからですよ。……あ、今の言ったら駄目なことでした」
と、一瞬で普段の顔になった灰狼は足元を見つめた。
そこでやらかしたと気付いたようだ。パラパラ漫画のワンシーンでも見せられた気がした。満開になった花が間違えたと言わんばかりに、急いで萎んだ。あの灰狼でさえ興奮する時は間違いを犯すようだ。俺からすれば丁度良かったが。
「あれ、返す」
灰狼は顔を上がると、両手を体の前で忙しなく振った。
「そんな滅相なことは出来ません。神の手が触れた物に触るなど不敬にもほどがあります」
丁寧なことを言っているようだが、逆に俺の手は菌で溢れているようにも聞こえた。俺は灰狼に近付くと、灰狼の腕を掴んだ。灰狼は驚いた猫のように飛び上がると、倒れ込んだ。何故か鼻血が出ていた。俺はティッシュボックスを探すと、灰狼に手渡した。もしやチョコレートを食べ過ぎたのだろうか。
「何しているのですか?」
シャワーが終わったギールが、上半身裸で髪をタオルで拭きながら現れた。俺は机の下にある冷蔵庫を開けると、冷えたペットボトルをギールに投げた。死角だからだったが、ギールは顔に当たる前に手で掴んだ。俺に片手を上げると、蓋を開けて口を付けた。一気に半分飲み切っていた。シャワーの後でも俺は冷えた飲み物で腹を壊すのに、ギールはケロッとしていた。
「で、何をしていたのですか?」
と、ギールは再度聞いた。
状況が理解出来ないようだった。俺はギールに無言で近付いた。両方の肩を掴むと、ギールは寝室と洗面所の間にある壁にぶつかった。
「何でもない。……それよりもギール。俺であれほど遊んだからには、ちゃんとした情報を集めないと速攻首だ。銀狼隊からも軍からも除隊され、二度とこの地に足を踏み入れるのは許さない。俺は俺の敵となる。嫌ならお前の全てを懸けて行え。情報を一つでも隠せば同じだ。理解したか?」
俺は言い切るとギールを睨み付けた。ギールは俺を見ていたが、目が泳いでいた。絶対に何かを隠しているようだ。俺は小さく息を吐くと、背後に立っていた灰狼に口を開いた。
「灰狼、顔を洗ってこい」
灰狼は一瞬戸惑ったがすぐに洗面所に行った。俺はギールがそちらを見ているのを確認してから、素早くナイフを取り出した。ギールが反応する前に首元に突き付けた。
「副隊長……?」
と、ギールは小さく呟いた。
俺はギールに答えずに少しだけナイフを滑らせた。赤い血が一筋流れた。空気が当たればヒリっと痛いはずだ。俺が更に力を入ればギールは首元から血を滝のように流し、出血性ショックで死ぬだろう。殺し慣れた軍人が殺すのを躊躇する訳がない。それは人の心が残っているからではない。殺した後の損失と生かした時のことを天秤にかけただけだ。ただの敵なら背後から襲って遺言も言わせない。宿敵ならいたぶりながら殺す。安らかな死など何故与える必要がある。
「ジェベル、言え。喉を掻き切られたくないなら」
ギールは赤い瞳で真っ直ぐ俺を見た。瞳の奥の赤がどこまでも揺られていた。止めることの出来ない風が吹き続けるように。ギールは静かに涙を流してから、俺を見た。今度は瞳は揺れていなかった。だが、その瞳には陰が落ちていた。俺はナイフを握り直した。背後で灰狼が息を殺していた。
「悲しい結末であるとしても貴方は知りたいのですか、ゼド? 知りたくないと言ったとしても、遅くなり過ぎるのですよ……」
俺は息を吐いた。このように回りくどい方法が大嫌いだった。何故いつも俺は守られなければならない。
「現実は小説じゃないんだ。俺はもう現実から逃げないと決めた。もう何も失いたくない。俺はただ本当のことを知りたい。それのどこが間違っているんだ? 俺は偽りの世界を生きたくない。そんな世界で幸せなど見つけられない。……なぁ、俺に隠すな。知っていることを言え。言ってくれよ、ギール」
と、俺はギールに頭を当てた。
答えが側にあるのに、知らされずにいるのは何よりも辛い。そこにあるのに見えないように、隠されるのは許されたことではない。ギールは静かに頷いた。だが、それは力強かった。
「……貴方の誘拐犯、グリエル・ゼヌゲール。奴はシルヴィス家の遠い親族であった、と判明しました。私はそのことを随分前から既に把握していました。全てを知る必要がありますので」
俺はギールの服を強く握った。
「だから、どうしたんだ?」
俺には分からなかった。セインの遠い親族だったからどうした。どのような家族でも遠い認識していない親族に、一人ぐらい悪人はいるだろう。存在を認めたくもない悪人が。だからと言って、セインに関係などない。ギールは拳を強く握り締めた。
「違うのですよ、ゼド。……奴はセインの。セインの親に金で雇われ、貴方を誘拐させた。奴らはセインとは違い、人の血が一滴も通っていない。奴らは近くに住む金持ちで幸せな家庭が目障りだった。奴らは貴方がいた名家、ウェルヴィス家を心から一方的に憎み、愛されている貴方を誘拐することで困らせようとした。殺すのも面倒だと貴方は基地前に捨てられた。……だから。こんなこと。こんな現実を貴方に教えたくなかったのですよ、ゼド」
と、ギールは倒れるように座り込んだ。
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