17

 ゼドが私室で熱を出して寝ていた時、執務室に集まったギール、灰狼、狂狼は緊張した雰囲気を漂わせていた。誰かが動けば撃ち殺されるように、誰も動かなかった。その原因は執務机の上に置かれた一枚の手紙だった。真っ白の紙の上に綺麗な真っ赤な字で言葉が書かれていた。穢れを知らない純白な肌の上に、黒く染まり切った血が垂らされたように。


 黒狼様の看病ご苦労様、鷹君。


 差出人はなかったが、それを見つめるギールは悔しそうな顔をしていた。ギールは目を閉じてから、小さく息を吐いた。ギールは鷹君と自分を呼ぶ人物を一人しか知らなかった。街で出会った見知らぬ女性。ただの女性ではなく、とても質の悪い女性だった。今にでもギールは自分の状況を笑っている、その女性の顔をすぐに想像出来た。ギールが小隊長に成り立ての頃、作戦は全て試行錯誤の中行われた。まだ今のように上手でなかった時に、ギールは女性にからかわれた。それも、冤罪で捕まる寸前まで仕向けられた。一度も勝てたことのない女性。ギールは出会った時から同じ匂いがしていた。何度捕まえようとしても、逆に遊ばれるだけだった。

「敵国の諜報員、毒薔薇だ」

 凄腕の諜報員が行ったとは思わなかった、灰狼と狂狼はギールを凝視した。全ての標的を確実に仕留めてきた毒薔薇。このような所に現れるとは思わなかった。千の顔を持つと言われ、どの姿が本当かも分からない。灰狼は手紙を見てから、ギールと目を合わせた。

「良く誰も殺されませんでしたね。ただ本当に毒薔薇なのですか?」

 ギールは死んだ目をしながら頷いた。

「あぁ。私を鷹君と呼ぶ奇妙な奴は一人しかいない。副隊長が風邪だとどこにも公表していないのに、真っ先に把握しているとは。……わざと近くで見ていると教えたいようだな。迷惑でしかない愉快犯だ」

 狂狼は大きく笑みを浮かべて、笑った。

「小隊長の元恋人ですか? 大変ですね」

「狂狼」

 と、灰狼は狂狼を睨み付けた。

 しょうもないことを言い、ギールの業務を妨害するのは打首案件だった。ギールに招集されて狂狼と共にこの場にいたが、本当は狂狼と同じ空気を吸いたくもなかった。赤髪を黒く染めた狂狼は、闇の中から赤い瞳で灰狼に笑みを見せた。

「分かっていますよ、灰狼」

 灰狼は狂狼を見ずに靴を踏み付けた。何とも踏み甲斐のある足が近くにあった。狂狼は足を押さえながら座り込んだ。悲鳴を上げていたが、それに構う者も部屋に誰もいなかった。灰狼は狂狼を無視しながら、ギールを見つめた。

「どのように対処しますか、小隊長?」

 腕を組んだギールは短く唸ってから、口を開いた。

「……一芝居打つしかない。ただそれだけを行い、敵を炙り出すのだ。敵を欺く前に、まずは味方からだ。だが、更に亀裂が深まるだけだろう。仕方ないとは言え」

 ギールは唇を噛み締め、痛みと共に血の味がした。ゼドの最大の地雷を撃ち抜くのは言うまでもなかった。だが、それをしてまででも、諜報員を銀狼隊の陰として排除しなくてはならなかった。ここで手を抜けば、何が起きるか分からないからだった。ゼドとの関係がどれほど悪化したとしても、ギールは止める手段を選べなかった。答えは一つの方にしかなかった。

「死刑判決が下った瞬間のようですね、小隊長」

 狂狼から顔色を指摘され、ギールは頬に手を置いた。どのような顔をしているか、確かめようがなかった。随分前から表情が死んでると思っていた。常に陰はどこまでも残酷だった。いつまでもギールは打ち拉がれていた。それを見ないように偽りの仮面を身に着けていた。灰狼がまた狂狼をしばいていたのが、何ともいつも通りの日常が広がっているようだった。ギールは唾を飲み込むと、思い口を開いた。気分は首の上にギロチンがあった。

「私の名でフェルベル・イエダスが銃殺刑で処刑された、と副隊長に伝えろ」

 ギールとしては体調不良のゼドが一番使いやすかった。正常の判断が出来ない時ほど、掌で踊らせやすい。普段なら気付く矛盾もそのまま飲み込み、脳内で良いように解釈される。今だけしか使えない手だった。灰狼は真剣な顔をしながら、すぐに反論した。

「冗談抜きで殺されますよ、小隊長」

 灰狼はギールがふざけていないのは、嫌でも理解出来た。だが、やっていることは自ら火に飛び込んでいるだけだった。これまで証拠が残らないよう、慎重に作戦が行われていた。それさえも出来ないと言うことは、非常に焦っていた。今すぐ動かなければ、事態は更に悪化の一途を辿るだけ、と。何も手を差し伸べられない灰狼は、心の底から自分のことが恥ずかしくなった。この緊急時に何の役にも立てないのなら、何のために生きているのか。ギールは灰狼と狂狼に視線を送っていたが、二人を見ていなかった。感情の籠もっていない乾いた笑いをした。

「銀狼隊を守るためなら、死を望むよ。私の命でも守れないのなら、私は毒薔薇に言われたように、どこまでも幼稚で守りたい物も守れない出来損ないだ。私個人のことは気にするな。私よりも大切な物がある」

 利他主義者。それがどこまでも心優しいギールだった。陰に向いていないのに自らを縛り付けて、どこまでも犠牲を払っていた。どれほど危険な橋を渡ろうとしているか、見えているようで一切見えていない。銀狼隊のことだけで考えればプラスだが、ゼドとの人間関係で言えば数値化出来ないほどのマイナスを生む。灰狼はどう言葉をかけるべきか分からなかった。狂狼は頭の上で腕を組むと、口を開いた。

「そんな小隊長はカッコよくありませんよ。英雄になろうとしても、似合っていなくてダサいだけですよ。イシャルを泣かしても俺は知りませんよ。ただ悪者になろうと思うのなら、俺達も混ぜて下さいよ。何勝手に面白さを独り占めしてるんですか? 非常に独裁的な小隊長ですね」

 小隊長に対してどこまでも不敬なのに、狂狼は核心を突いていた。狂狼が浮かべていた笑みは、悪巧みに成功した餓鬼だった。灰狼は一歩近付くと、驚きで動きが止まっているギールを見た。

「小隊長、狂狼の言う通り参加させて下さい。伝言はお任せ下さい。共に悪に染まりましょう」

 ギールは笑みを浮かべたが、とても悲しそうだった。赤くなりつつある目元を押さえていた。

「本当に良いのか? 最悪の結果になる可能性もあるのだぞ?」

「はい」

 灰狼は狂狼と目を合わせてから、一緒に頷いた。答えるのに考える必要はなかった。始めから答えを二人は知っていた。

「何のために影狼小隊に入隊したと思うのですか? 小隊長がいたからですよ」

 と、灰狼は口角を上げながら続けた。

 ギールはしてやられたという風に、天井を見つめながら流れる涙を隠した。ただ灰狼と狂狼は気付いていた。二人で笑みを浮かべると、ギールをそっと眺めた。だが、灰狼はすぐに狂狼から顔の向きを変え、距離も離れた。狂狼は捨てられた犬のような顔をした。

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