13

 俺は灰狼のメッセージを読んだが、大して外出の準備はなかった。隊員から貰った私服があったが、まだ着たことはなかった。普段の業務は軍服で終わり、外出時も使い慣れた上着で済ませた。強制的に休みにされたとしても、お洒落をする時ではなかった。それに軍服の方が指定の所に武器を忍ばせることが出来た。軍服が何よりも勝っていた。一応鏡で服を眺めていると、呼び鈴が鳴った。俺は返事をすると扉を開けた。そこには黒いコートに身を纏った男性がいた。黒髪に黒い目を持ち、銀縁の眼鏡をかけていた。上品で高価な服を着ているとその綺麗さから分かった。皺が幾つも刻まれていたが、年を感じさせなかった。男は帽子を外すと、俺に頭を下げた。

「初めまして、坊ちゃん。執事のメヴィス・ギルターです。本当に大きく成長なさいましたね」

 男メヴィスは俯くと目元を白手袋で押さえた。自然と俺を安心させる雰囲気を持ち、俺は主導権を奪われそうになった。俺はメヴィスを一瞥してから答えた。

「俺は坊ちゃんという類ではなく、軍人だ。初めて見た人に成長したと言われても、俺は知らない」

 と、俺は出来るだけ低くした声で、きっぱりと告げた。

「そうで御座いました。……済みません。ジェイド様の成長したお姿に爺は感動してしまいました」

 俺は舌打ちをしたい自分を抑え、腕を組んだ。

「ゼド・クロスネフだ。そのジェイドと言う野郎は知らない」

 メヴィスは再度頭を下げた。俺はメヴィスの頭を二度見ることになった。何度もぺこぺこ頭を下げると、謝罪の意が消えていくようだった。一生の願いを何度も誰かがするように。

「これは申し訳ないです。クロスネフ様」

 俺は我慢出来ずに舌打ちをすると、メヴィスを睨んだ。

「ゼドだ。俺はそんな敬われるほど大層な人ではない。そんな誇られる人ではない」

「英雄黒狼と言われているようですが、それでもですか?」

 メヴィスは静かに俺に聞いた。

「そうだ」

 俺が考えるまでもなく、即答した。すると、メヴィスが俺の目を真っ直ぐ見た。俺はそのように見られるのが非常に苦手だった。悪いことをしたことがないとしても、後退りたくなるものだった。俺はふとその目に光が入った時に、仄かに濃い青色に変化していることに気付いた。深海に光が照らされているように見えた。髪も薄い紺色のメッシュが入っているようで不思議だった。知らぬ内は俺はまじまじと見返していた。メヴィスは俺に微笑んだ。

「爺の瞳が気になりますか、ゼド様? 旦那様と少し色が似ていると思います。爺が分家の一員として仕えているからでしょうな。そして、旦那様は本家の現当主であるアーグス・ウェルヴィス様。その奥様ジェス様の間に生まれた愛息がゼド様であらせられます」

「と、当主……」

 俺は馴染みのない言葉を言い直した。裕福な家庭だとは思ったが、本家や分家とかがある家とは知らなかった。メヴィスは当然のように頷いた。

「はい」

「そう。まぁ、行くか」

 と、俺は取り敢えず現実逃避することにした。

 更に深い所まで知ると後戻り出来なさそうに思えた。俺はゼド・クロスネフだ。知りもしないジェイド・ウェルヴィスになるつもりはなかった。俺の本当の親であろうと、俺にとっての親ではなかった。俺は仲良くするつもりなどなかった。会う理由さえなければ、足を運ぶつもりはなかった。俺はそう考えながら、出口の方に急いだ。だが、メヴィスは俺を見つめるだけで付いて来なかった。メヴィスは申し訳なさそうに俺を見た。

「ゼド様。そちらは非常階段の方ですよ」

 何たること。俺はまたもや極度の方向音痴を、赤の他人の前で発動させてしまった。唯一この能力が役に立ったのは、戦場で俺が進むべき方角に地雷があったと判明した時だった。俺は運良く命拾いした。

「ふん、試していただけだ」

 俺はそう無駄に取り繕うと正しい方向に進んだ。メヴィスは何も言わずに俺を微笑ましく見ていた。俺は鼻が痒くなり、鼻を触った。恥ずかしさと緊張で体が熱くなり、俺は服で風を作った。

「暑いなぁ」

「寒いですね。……冗談ですよ」

 メヴィスはそう答えるとお茶目に俺にウィンクをしてきた。若い心を持つのは良いが、翌日にぎっくり腰やタンスに指をぶつけても俺は知らなかった。俺は無表情のまま、メヴィスと廊下を進んだ。建物から一歩出来ると風が吹き、俺は体を丸めた。温かい建物の中にいたせいのように思えた。肩に何かが乗せられたと思えば、メヴィスがコートを俺の肩に置いていた。俺はいらないと返そうとしたが、メヴィスは頭を振るだけだった。

「ゼド様が使わなければ捨てることになりますので」

 先程まで身に着けていたのに何故、と俺は頭を抱えたくなった。一先ず受け取ると俺は感謝を述べ、風邪を引かれないように歩く足を早めた。メヴィスの背後を見て、元軍人のように背が伸びていることに気付いた。メヴィスに扉を開けられて、俺は車の助手席に座った。基地を出る時にメヴィスは見学証を返し、俺は認識票を提出した。それが返されると車は俺の生活圏内をすぐに走り去り、俺の知らない街を通り過ぎていった。戦場への派遣を別にすると初めての遠出だった。俺は窓に張り付くことはしなかったが、多少は眺めていた。唯一言えることはメヴィスの運転が丁寧だったので、俺が酔うことがなかった。

「着きましたよ、ゼド様」

 車に揺るされ、意識を失いかけていた俺は目を開けた。メヴィスのコートの中は温かく温もりに満ちていた。俺はそれを落とさないように手で押さえながら、眠たい目を前に動かした。汚れを知らない真っ白の屋敷が目前にあった。俺は口を開けると動きを止めた。想像の斜め上を悠々と行っていた。

「驚きましたか?」

「そんなに住む場所がいるのか?」

 基地の部屋で済む俺には理解出来ない次元だった。あの老夫婦にそれほど居住地は必要なのか。そういう大きさでステータスと言うのだろうか。それとも非常に散らかっており、そこに住まざるを得ないのか。

「爺のような使用人も住む場所を共にしますので、自然と屋敷が大きくなってしまうのです」

 メヴィスがそう言うとガレージへの扉が開かれた。収納された車が停まると、先に降りたメヴィスが扉を開けた。俺は屋敷への入り口に待ち構えている使用人を見て、開けられる前に動けなかった。俺が立ち上がると人々が一斉に俺に頭を垂れた。女もスカートではなかったのが特徴的だった。

「お帰りなさいませ、ジェイド坊ちゃん」

 俺でない名を言われた。俺は無表情でいた。メヴィスとの遊びの時間が終わり、俺は意識を切り替えた。扉が開く音がすると、老夫婦が現れた。俺に近付くと俺を抱擁したが、俺は社交辞令だけを行った。返事として老婆に抱擁したが特に気持ちはなかった。老爺には貼り付けた笑みで握手した。向こうの手が硬かったので俺の思いは伝わったようだ。ただ老婆はそれでも俺が来たことをわざわざ祝福した。

「寛いでね、ジェイド」

 静かに俺は言葉を返した。

「いえ、用事が終われば即帰ります。忙しいので」

 俺は待たずに先に進んだ。すると老夫婦は慌てて俺の後を追った。メヴィスが軽やかに先回りすると、扉を開けた。その先には美術館のように華やかな世界が広がっていた。俺の執務室よりもふかふかの絨毯が置かれ、天井には輝くシャンデリアがあった。頭上から落ちてくれば死ぬ物だった。壁には良く分からない絵画がかけられ、その前に謎の壺が多く置かれていた。沢山の物があり人が行き交うが、俺には虚しさを紛らわしているように見えた。銀狼隊とは大きく違っていた。

 老婆に言われ、俺は頭を左右に振った。そのジェイドの部屋は今の俺の趣向とは違うはずだった。わざわざ更に惨めになる必要性はどこにもなかった。結局ここの人は俺ではなく、ジェイドを探し求めていた。俺はジェイドにはなれない。不可能を可能にしようにも、最後まで不可能でしかない。それをいつかは理解してもらいたい。

「不要です。それよりもお話がありますので。大したことではなく、少し調査にご協力願いたいのです」

 老婆は首を捻ったが、老爺が俺に頷いた。

「良いだろう。来賓室に行こうか」

 俺は使用人に案内され、屋敷の豪華さを一部屋に閉じ込められた、来賓室の椅子に座った。扉が叩く音がすると「失礼します」の後に、湯気が出る紅茶や茶菓子が出された。俺は頭を下げて謝意を表した。その者は俺を見ると惑っていた。

「ジェイド、そんな無闇に頭を下げてはいけませんよ」

 紅茶を口に付けていた老婆が俺に注意した。異なる価値観が繰り広げられているようだった。俺は笑みを浮かべながら、答えた。

「済みませんね、軍人のゼド・クロスネフで。少々いかつく、マナーがなくて。ただ私は国民のために尽くすために生きていますので、誰に対しても対等に接する必要があるのですよ」

 と、いつもの常套句を使い回した。

 心が籠っているかは別だが、役に立ったようだ。老婆は顔色を悪くした。

「いや、そんなジェイドを責めたつもりはありませんよ」

「当然のことなので気にしません。痛くも痒くもありませんので」

 俺は済まし顔で返事をした。

「……このアールグレイ美味しいですわ」

 老婆は誤魔化すように紅茶に口を付けた。俺は無言で見ていたが、風に漂って紅茶の匂いが俺の元まで届いた。苦手な匂いに俺は息を止め、口呼吸をした。老婆は顔を上げると俺と目が合った。笑みを浮かべてきた。俺の手元を見て、俺が紅茶に口を付けていないことに気付いたようだった。

「ジェイド、お飲みにならないの? 茶菓子もいただいて良いのよ」

 俺は愛想笑いをしてその質問を躱した。非常に苦手な匂いを放つ飲み物を飲める訳がなく、モクモクと湯気も上がっていた。茶菓子の方も美味しそうであったが、嫌いな何かが中に潜んでいるかわからないので手に取らなかった。それに俺はティーパーティーをしに来た訳ではなかった。

「お気遣いなく、それよりもお聞きしたいことがあります。私は誘拐されたとのことですが、犯人については何も知りませんか? 何かトラブルがあったとか。もし、出来れば当時誰が周りに住んでいただけでも。小さなことでも知りたいです」

 と、老夫婦に俺は真剣に迫った。

 老夫婦とも困ったような顔をした。

「この家だから羨ましがられるのも良く分かるわ。それに意図していなくても妬まれたりするのも。ただ私達は自らそのような悪事に手を染めたことはないわ。ご近所さんとは今でも良いお付き合いをしているわ。……でも、ジェイド。貴方のためなら私達は必ず手伝うわ。貴方が見つかったとしても、その過去の傷が消える訳ではないのだもの」

 老婆が俺に優しい視線を送った。老爺も頷いた。

「わしも探してみよう。皆きっと真実を知りたいだろう」

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