11
小さな物音がし、俺は目が覚めた。早めに寝たこともあり、それで意識が覚醒し始めていたのだろう。俺は起き上がると寝間着を脱ぎ、軍服を身に着けた。侵入者に備え、俺はいつも通りに銃も携帯することにした。音を立てずに扉を開けたが、この時間帯には誰もいなかった。誰もが眠りに就き、辺りは静寂に包まれていた。小さな音がまた廊下の向こうからした。俺の執務室の辺りからのように思えた。俺は体を低くしながら、音の方に急いだ。執務室の扉に背中を付け、俺は耳を澄ませた。集中すると、小さくだが物音が聞こえた。俺は突然殺気を感じ、戦闘態勢を取った。いきなり敵地に送り込まれたと錯覚するほど、非常に濃厚な殺気だった。俺は銃をホルスターから抜くと構えた。扉を蹴り開けると中に突入した。丁度灰狼が侵入者の背後に周り、侵入者の心臓にナイフを突き付けていた。俺は侵入者の胸から生えるナイフを見た。噴き出した血が絨毯を汚し、侵入者は倒れ込んだ。俺の方にまで何とも濃い血の匂いがした。灰狼は氷のように冷えた目をしながら、ナイフを引き抜いた。
「黒狼様を脅かすなど万死に値する」
俺は動きを止めた。見たことのない、灰狼の一面がさらけ出ていたからだった。灰狼は猫を被っていなかった。猫よりも恐ろしい熊のように俺には見えた。視界の端に飛んでくるナイフを見て、俺は銃で避けた。俺の体の真横を通り、扉に深々と刺さった。銃に傷が出来ていた。だが、俺が銃を構えていなければ腕が持っていかれた可能性があった。
「……クロスネフ副隊長、起きていらしたのですか?」
と、真っ赤に両手が汚れている灰狼が後退った。
よほど見られたくなかったのだろう。短く息を吐くと、俺は銃をホルスターに直した。俺は灰狼よりも床に倒れている屍を見た。これでは何も聞き出せない。血塗れた惨状をどう解決するのだろうか。俺は事故物件で仕事をしないといけないのだろうか。見てしまったから夢に出てきそうだ。
「灰狼、それをどうするんだ?」
「大丈夫です。来ますので」
灰狼は顔を触ったのか、真っ赤な口元で笑みを浮かべた。一旦、取り繕うことにしたようだ。だが、本当のホラー映画のワンシーンだった。俺が何がと言う前に数人が扉に現れた。足音がしない辺り、灰狼のお友達なのだろう。数人は俺を見て目に驚きを見せたが、素早く屍を死体袋に詰めた。一人が窓を開けて空気を換気させながら、一人が薬品で何もなかったかのように片付けていた。灰狼を見れば灰狼も貰ったタオルで、血を拭いていた。たった今殺した後とは思えない様子だった。数分後に数人は俺に敬礼すると、名もなき屍を運んで行った。全てが実は夢だったと言われても、俺は信じてしまいそうだった。俺は血が含まれていない綺麗な空気を吸うため、執務机の椅子に座った。灰狼が俺の前に立った。
「言わなくても分かっているな、灰狼」
俺がそう言うと灰狼は頷いた。
「はい」
「なら、良い。お前の名前が名簿になかったのだが、ギールの元で働いているのか?」
と、俺はポケットから隊員名簿を取り出し、灰狼に見せた。
何度見ても灰狼の名前はどこにもなかった。灰狼は俺を真っ直ぐ見た。
「はい、影狼小隊です」
俺は話を聞きながら、机を爪で叩いた。音が出るごとに灰狼は体を震わせた。
「何をする所だ? 見た所、諜報機関のようだが」
灰狼は頷いた。
「銀狼隊の陰として補佐をするためにあります。調査班、護衛班、執行班、処理班の四つに分かれています。隊員は銀狼隊から影狼小隊に転属した際に、銀狼隊から名前を消します。存在しては仕事に支障を来たすので」
俺はそれを聞きながら、息を吐いた。椅子にもたれると、腕を組んだ。
「良いか、灰狼。俺は軍属なんだ。俺は温室しか知らない坊ちゃんでも、背負われないと歩けない訳ではない。俺はこれまで拷問も暗殺も処刑も、表立って言えないことは何度もしてきた。なのに、何だ? 俺達は共に戦い、支え合う仲間じゃなかったのかよ。俺は銀狼隊の副隊長だぞ。俺はセインに信頼されて、副隊長の座を任された訳ではないのか」
と、俺は拳で机を叩いた。
灰狼に怒りをぶつけても仕方がないと、俺は頭を掻いた。
「灰狼、お前に言っても意味がないな。ギールには伝えなくて良い。構って欲しい馬鹿のようだ。ただギールには俺が赤子の時に何があったか、その報告書を纏めて用意させろ。俺がギールに代わりに小隊長になった所で、何もお前らを活用出来ないだろう。嫌な所だが、人の心を掴むのは得意だからな」
俺の言葉に灰狼は表情にも嬉しそうな顔をした。やはりギールはいるのだろう。俺はふと灰狼をじっと見た。灰狼はここにいつから待機していたのだろうか。もしや始めからなら、少々労働環境が劣悪過ぎる。俺は恐ろしく聞くことが出来なかった。
「お前も寝ろ、灰狼。寝不足では仕事にならないぞ。後、俺の監視は不要だ。他にやるべきことをしろ」
灰狼は頭を下げた。俺は椅子から立ち上がると、私室に戻った。扉が閉まると緊張の糸が切れ、俺は洗面に急いだ。どうもまだ駄目だったようだ。副隊長の示しが付かなかった。俺は便座を抱きながら、胃の中を空にした。こんな固く無機質で何も語らない物を、抱擁したくはなかった。俺は血が通っている温かい物を包みたかった。足も床の冷えたタイルを服越しに感じた。俺は吐く物がなくなると、壁を伝いながら洗面台で顔を洗った。鏡越しに見た俺は髪が整っておらず、目の下に酷いクマがあった。俺は重い腰を軽くするために、ホルスターを外した。ポケットがまだ重いので、部隊名簿も床に捨てた。他に折り畳みナイフや懐中時計など、全てのポケットを空にすると気分がましになった。ベッドに帰れそうにない俺は、浴槽のバスタオルを身に纏った。壁にもたれかかると暗い洗面所で体を丸めた。目を何度閉じても寝ることが出来なかった。興奮で頭がすっかり冴え切っていた。俺は指輪を弄りながら、時間が過ぎるのを待った。普段よりも時計は何とも遅く進んでいた。
数時間何も考えずにいると、陰が薄くなり始めた。太陽に昇り始めたようだ。だが、陰に隠れている俺にはその光が届くことがなかった。最初は凍える冷たさが辛かった。ただ体が熱い今は心地良かった。床に寝転がった俺はバスタオルを体で遠ざけた。何故か腕を巻く力が湧いてこなかった。体は熱くなる一方で汗が服にべっとりと付いた。俺は震える手で折り畳みナイフを開いた。力加減に失敗したようで床に血が飛び散った。その痛さが温くなった床よりも俺を気持ち良くさせた。俺はナイフを握ると床に刺した。それで前に進みやすくなると思ったが、床を傷付けるだけで終わった。俺は項垂れると辺りを見渡した。俺が床に捨てた物が散らばり、近くに赤い染みが出来ていた。ここで立ち止まる訳にはいかないのに、体調が悪化を辿るだけだった。俺の行く手を塞ぐ俺自身が邪魔で仕方がなかった。
俺は自分の無念を吐き出すように何度もナイフで床を削った。少しずつ傷が大きくなり、印が彫られていた。それらに意味はなかった。だが、今の俺の本当の気持ちを表していた。血と汗により手が滑り、俺は手を切った。書類で指を切るように綺麗な傷口が出来ていたが、そこからは黒い血が流れていた。俺は咳き込むと体を丸めた。全身が痛かった。視界から色が消え、掠れていた。俺が左目を擦ると血が付いたのか見えなくなった。俺は使える右目で、手に付いた血を絵の具代わりに文字を書いた。唯一知っている童謡だった。誰から聞いたかは覚えていなかった。視界が静かにぼやけ始めたが俺は書き続けた。手が悲鳴を上げたとしても止めなかった。離れていきそうな心が童謡により、細い儚い糸で結ばれているようだった。俺は掠れる声で歌った。最後には何も喉から出ず、俺は口を小さく動かすだけだった。
近くで何かが落ちる音がした。硬い薄い物が手から零れ落ちたようだった。走る足音がすると、俺の肩が揺さぶられた。俺は消えかけていた意識を覚醒した。大粒の涙を零す灰狼がいた。目を真っ赤にしながら、酷く動揺していた。今日は何とも色んな顔の灰狼を見るようだった。灰狼は俺の首元を触り、脈があるかを確かめていた。何故焦っているのかと思い、俺は思い出した。床にはホルスターに入った銃と血塗れのナイフ。疑われても仕方がなかった。俺よりも灰狼の指は冷えていた。俺の背中に一気に寒気が駆け上がった。先程よりも頭がクラクラしていた。これは体を冷やして風邪を引いた可能性があった。
「死んでいない、死んでいない。良かった。……俺より先に逝かないで下さいよ、黒狼様」
灰狼は俺を優しく抱擁した。俺は灰狼の頭を触ったが、血が付いただけに終わったように思われた。済まない、俺はそう心の中で答えた。灰狼はポケットから小型の消毒液を取り出すと、俺の傷口に付けた。洗面のティッシュで周りを拭くと、絆創膏を貼った。傷の大きさが分からなかったが、縫うほどではなかったらしい。大人の俺を軽々と運ぶと、灰狼はベッドに運んだ。綺麗なタオルで俺の汗を拭き、濡らしたタオルを額に乗せた。
「氷を用意して来ます」
と、灰狼は部屋から出るとすぐに氷を運んできた。
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