10
ゼドの執務室の天井裏に身を潜めながら、灰狼はじっと待機していた。息を殺しながら、天井に開けた小さな穴から外を確かめていた。調査班が集めた情報によれば、今日スパイがこの部屋に侵入するようだった。その人物の確保、また難しいなら暗殺が求められた。いつものように音を立てずに片付ける必要があった。ただ今回は銃では音が出過ぎるので、ナイフなどが好まれた。一応万が一のために銃の携帯をしていたが、それは非常時だけだった。ギールからも、灰狼は生きて帰ることを約束させられた。ギールは常に隊員のことを思い、ギールはギールでこれまで殺害人数を記録していた。灰狼はギールの部屋の壁にかかっていた、灰色の石板を警護の都合上見たことがあった。ナイフで一つ一つ手で彫られているようだった。そして、灰狼が終われば、処理班が死体などの後処理を担ってくれた。
影狼小隊に入隊した灰狼は、執行班で狂狼と組まされた。狂狼は一つの分野に集中すれば伸びるタイプだったようで、ギールの後継者のように変装技術だけを吸収した。演技能力を完全にマスターし、どのような人も巧みに騙した。ただそれ以外はからっきしであり、結局銃も上手に撃てなかった。対して灰狼は記憶力と分析力を頼りに、狂狼の苦手分野をカバーした。特にどのような鍵も開けられるようになり、どのような場所にも隠れられる体を持っていると判明した。最初から気配を小さくして生きていたが、より意識すれば気配を完全に消すことが出来た。そして、不器用で役に立たない狂狼に代わり、狂狼の分も合わせたかのように高度な戦闘能力を手に入れた。二人は気付けば、執行班で一位となっていた。その時には狂狼も、身を守ることぐらいは出来るようになっていた。
今はバディが解消され、二人は一旦護衛班に転属となった。狂狼はイシャルの護衛官となった。だが、灰狼からすればギールが使える人を休ませる訳がなかった。少しすればきっと。いや、既に別の仕事に飛ばされている可能性が高かった。ただそれを灰狼が気にすることではなかった。灰狼は灰狼でゼドの護衛官を任されていた。今回は場所が場所なので、ゼドにバレないように極力する必要があった。ただギールからはバレた時に、どれほど情報を開示するべきかも叩き込まれていた。それでも完全に秘匿しなくはならない極秘事項もあった。灰狼は視線を落としながら、集中した。扉が開く音がすると、黒い人影が執務机に近付いた。人影は椅子の方に回ると、辺りをキョロキョロと眺めた。開けられる引き出しを開け、中身を確認していた。だが、出てきたのは煙草とライターぐらいだった。人影は舌打ちをすると、鍵がかかっている引き出しを開けようとした。だが、力で引いて開く物ではなかった。人影は床に膝を置くとピッキングツールを取り出した。
灰狼はその様子を眺めながら、手に力を込めた。ゼドに心酔する灰狼からすれば、そのような下郎の穢れた手がベタベタ意味もなく触るのは許せなかった。天井の蓋を外すと、灰狼は人影の真上に飛び降りた。何かが折れる爽快な音がし、灰狼はスパイを執務机から退かすように蹴り上げた。すぐにナイフを構えるとスパイからの攻撃を防いだ。数本折っただけではくたばれることはなかった。顔に銃を乱射すれば何よりも気持ち良かったが、今はナイフで刺していくしかなかった。面倒だが、手で消したい敵の命を削っていくのを感じられた。それは何よりも灰狼を心躍らせた。どのような娯楽よりも殺し合いは勝てなかった。是非とも目前の敵をナイフで切り刻み、カラスに食べさせたかった。それほどのことをしたからだった。
死を肌で感じながら、灰狼の口角は上がった。逆にスパイの方が怖気付いたようで、一歩後退った。灰狼は目を大きく輝かせながら、その隙を逃さなかった。ナイフで体を切り付けると、新鮮な血の香りが辺りに漂った。灰狼は息を大きく吸い、その匂いで肺を満たした。薬が効いた時のように気分が冴え、いつまでも戦える気がした。灰狼は更に殺気を飛ばすと、戦いを片付けようとした。下っ端と戦っても面白くなかった。より戦い甲斐がある人が必要だった。それはギールとのやり合いのようにだった。更に深くスパイを切り付け、動きが鈍くなるのを楽しんだ。ただ死ぬのなら、少しは娯楽に貢献して欲しかった。どの道裏切り者に明日などないからだった。裏切り者には死を。それが正論で正義であった。情けは全ての崩壊を生むだけであった。
灰狼は小さく笑うとスパイの顔を覗いた。顔色は蒼白で唇も青く、冷や汗を掻いていた。目からは光が消え始めていた。この世に対する絶望か、死への諦めか。そこには恐怖で怯える小動物しかいなかった。罠にかかった鹿のように、ただ震えることしか出来ない。灰狼は興味が失せた。ナイフを振り回して遊ぶと、スパイの頬に刃を当てた。首元に突き付けてから、目に当たるギリギリの距離まで近付けた。そのまま背後に回ると両手でナイフを強く握った。そのまま大きな釘を打ち込むように、スパイの肉に刺した。力で刃を押し進めると、反対側から刃が顔を出した。スパイは口元と胸から血を噴き出しながら、床に倒れた。灰狼はナイフを刔り、傷口を広げるとナイフを一気に引き抜いた。血の花火が部屋に散り、灰狼はうっとりした。だが、すぐにやり過ぎたと気付いた。
スパイの服の端でナイフの血を拭おうと思った瞬間、灰狼はもう一人の気配がいると気付いた。戦闘に集中し過ぎていたせいで気付くことがなかった。撤退時の助っ人か。灰狼は視線を向ける前に、気配がする方にナイフを投げた。急所に確実に投げるのは見なくても出来た。後はこのスパイと同じ末路を辿るだけだった。
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