9

 俺を役職名ではなく名前で呼ぶ辺り、真剣なのだった。だが、今の俺にはそのような謝罪など無用だった。許せなかった。信じられなかった。俺は息を荒くしながら、老婆を睨んだ。出来たのならその首に両手を回したかった。ただそうすれば何をするか分からなかった。

「ふざけるのは大概にしろ。俺を捨てといて、今更よくのこのこと顔を見せることが出来たな。お前らの顔など一生見たくもなかった。俺を見て、どうせ笑っているのだろう。その分厚い皮の下で。俺があの日死ねなくて悪かったな。俺はどうせこういう奴だ」

 俺は頭を押さえながら、叫んだ。老婆は怯えた顔をしながら、退いた。耐えられなかった。最後は自分自身が何よりも惨めに感じられた。一気に吐け出せない感情により、気分は一層悪くなっていた。逆上し、爆発しそうな感情に俺は視界がぼやけ、足元がふらついた。折角綺麗に収まりかけていた俺自身のパーツが、また粉々に砕け散りそうだった。

「ジェイドは赤子の時に誘拐されたの。銀狼隊の活躍を聞き、その中で見覚えのある貴方がいたの。ジェイドが生きているかもしれないと聞いて、私達は何よりも嬉しかったわ。神様に心から感謝したわ。そして、急いでそこのジェベルさんに連絡をしたの」

 老婆は恐怖を飲み込むと、俺に語りかけた。俺は何よりも誘拐されたとは知らなかった。これまで俺が何のために、ひたすら生きてきたのかが分からなかった。セインに会うまで俺は何故あれほど理不尽に遭う必要があったのだ。何故俺でなければならなかったのだ。何故俺は誘拐されなければならなかったのだ。俺は人生を壊された。引き返せないほどまでに。俺は抗えずに床に座り込んだ。今はそれしか出来なかった。

「貴方は被害者なのよ、ジェイド」

 と、老婆は俺を再び抱擁した。

 俺は声を大にして言いたかった。俺はまだ自分がジェイドだと認めた訳ではなかった。なのに、今は壊れた機械のように体が動かなかった。容量がパンクしていた。俺の乾いた無機質な笑みが部屋に響き、消えていった。今すぐにでも目を閉じ、現実から消えたかった。何も知りたくなかった。知りたくなければ幸せになれた。知らないでいれば、今のこの苦しみを感じる必要がどこにもなかった。様々な感情が混ざり、俺は涙を流すことも出来なかった。

 ふと老婆を見れば、俺でないのに俺と同じように苦しそうな顔をしていた。唇を噛み締め、目には涙が溜まっていた。だが、意地でも涙は流すまいとしていた。老爺の方は耐えれなかったようで、誰よりも先に袖を鼻水塗れにしていた。それを見ていると俺は少しだけ気分が良くなった。ギールが近くで吹き出していた。俺をよく知っているギールには、俺が今何を思っているかがばれたようだった。ギールのせいで場がしらけ、俺も笑いに釣られた。これでは駄目だった。真剣になる必要があるのに、全ての原因はギールだった。後でキツく注意する必要があった。本当にギールはどう償ってくれるのだろうか。目を丸くして見ている二人に、俺は咳払いをした。

「兎に角、今日はお帰り下さい。まだ私としましても、情報の整理が出来ていませんので。済みません」

「分かったわ、今日は押しかけて済まないね」

 と、老婆は俺に笑みを浮かべた。

「いつでも待っているからな」

 老爺はそう言うと老婆の肩に手を置き、夫婦は出て行った。俺は何の言葉もかける暇もなかった。ソファの一つに座ると、空いている方を無言で指差した。ギールはそこに座ると背筋を伸ばした。俺がぐうたらしていることが一層現れているだけだった。俺は前屈みになると手を組んだ。

「何か言い訳はあるか、ギール・ジェベル副官? 副隊長に情報を秘匿するとは良い度胸をしている。事態によれば軍法に則り、銃殺刑だぞ。それほど死にたいか?」

 ギールは口を開けるが、言葉が出ることはなかった。仕方がないと俺は思ったが、呆れてもいた。

「ジェベル副官。これが第一の警告だ。二度目はない。俺を愚弄するな」

 副官であるとしても、副隊長に対してしたことが域を越えていた。

「ゼド」

 俺の名をギールは縋るように言った。だが、俺は扉を指差した。名前で呼んだからと言って、気が変わる時点はもう過ぎていた。遅過ぎる。

「今日は帰れ。お前の顔を見るとこの手で殺したくなる」

 これは本当だった。本当に敵判定をした場合、戦場の敵兵にするように容赦は出来ない。俺はきっと逆切れしながら、ギールの顔が分からなくなるまで殴るだろう。もしナイフがあれば滅多刺しは容易いだろう。ギールは苦虫を噛み潰した顔をした。拳も爪が白くなるまで握り潰していた。だが、それは俺がしたくなることだった。

「わ、分かりました」

 と、ギールはその言葉を口から絞り出すと静かに部屋から去った。

 扉が閉まる重い音がすると、俺は肩の力を抜いた。そのまま重い足取りで執務机に向かった。俺は椅子に腰を下ろすと、誰もいない部屋を眺めた。隊員のせいで部屋は華やかになっていたが、一人ではどこか寂しくなっていた。この執務室で俺だけになるのは本当に久しぶりのように思えた。俺は目的の引き出しを開けた。中には昔に先輩から渡された煙草とライターが入っていた。非喫煙者の俺だが、これを使えば気が晴れるのだろうか。俺は一本だけ取り出すと口に咥えた。手でライターを弄った。最初は火が出なかったが、何度目かに火が点った。俺はその火を眺めた。この煙草に火を付ければこの身も穢れるようだった。セインの日記の目前でそれえほどの冒涜は許されていなかった。俺は煙草を折るとゴミ箱に捨てた。もう見たくもなかった。大きく溜め息をすると背もたれに倒れた。目頭を押さえると、俺は頬杖を突いた。

「何とも嫌な日だ」

 机を見ると俺が終わらせていない書類が山を作っていた。俺は一つを手に取ると中身を見た。頭が動いていないのか全然内容が頭に入ってこなかった。俺はパラパラと眺めながら、見たものは横に移していった。それぐらいしか時間を潰す方法を知らなかった。少しずつだが山が小さくなり、隣に新しい山が出来上がっていた。最後の一枚を見終わると、俺は底に紙が置いてあることに気付いた。パッと見は白紙だが裏に何かが書いているようだった。俺は紙を裏返した。部隊名簿。ギールから渡された最新版だった。こんな所に挟まっているとは知らなかった。これからは管理場所を考える必要があった。ちゃんと仕舞おうと思って結局忘れていた物だった。隊長にはセインの名前が記され、副隊長には俺。隊長の副官にギールの名があった。その下に銀狼隊の隊員の名前と狼名が書かれていた。俺は上から下まで見たが、動きを止めた。

「……ない」

 なかったのだ。灰狼の狼名が記された隊員の名前が。灰狼は誰なのか。俺はそれを確かめる必要があった。隊員名簿を折り畳むと、俺はポケットに入れた。そのまま立ち上がると執務室から出た。左右を見渡せば丁度隊員が歩いてきていた。何とも良いタイミングだった。近付くと隊員は俺に気付き、敬礼をしてきた。俺はそれに手を上げて返すと、隊員を手招きした。小さな声で俺は聞いた。

「少し質問なんだが、灰狼を見かけたか?」

 隊員は頭を傾けた。

「灰狼ですか……。そう言えば灰狼は少し前から見かけていません。ふらりと消えたので、除隊したのかと思いましたが。灰狼がどうかしましたか?」

「いや、何でもない。ただ確認でな」

 と、俺は誤魔化してから部屋に帰った。

 灰狼は除隊したようではなかった。除隊すれば軍服も部隊章も階級章も返却が求められる。ということは誰かが密かに雇っている。いや、銀狼隊の中で所属を変えさせた。それが唯一可能なのは一人しかいない。ギール・ジェベル。副隊長の俺に伝えずに部隊を持っているのだろう。ただギールだけが作れる訳ではないので、セインの時の名残だろうか。それらを灰狼に確かめた方が良いだろう。俺はそう決断した。日が暮れるまで書類と戦っていると、俺は夕食を取った。ギールのいない一人だけの食事は何かが物足りなかった。俺は何も考えずに栄養分を腹に詰めると、食堂から出た。同じ食事のはずなのに味は違った。去り際にギールとイシャルが歩いているのが見えたが、俺は無視を貫いた。寝る準備を済ませると俺はベッドに潜った。今日はセイン二世も来てくれないようだった。俺は布団を握り締めながら、丸まって寝た。誰かが側にいてくれると思えるだけで、不安が少しだけ消えた。自分とは何かが分からなくなる、怒涛の一日だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る