8
無人の訓練場に着くと、俺は軽くストレッチをした。手を擦って温めてから、俺は目立たないように端で走り始めた。最初は快適に走れたが、何周かする内に少しずつ息が上がり、俺の体はポカポカに温まった。少しずつ速度を落としてから俺は止まった。上着を脱ぐと腰に巻いた。ふと後ろを見れば、何人もの人が俺と同じように走っていた。誰もが俺に集まると敬礼してきた。綺麗にタイミングが揃っていた。
「ご苦労さまです、クロスネフ副隊長」
小声で数人が俺のことを口にしていた。俺は恥ずかしくなり背中が痒くなった。ただ走っていただけなのに、どこにもご苦労と言われるようなことはしていなかった。俺は何と返事しようか悩んだ。すると背後から足元がした。終盤で登場する悪役の拍手の仕方をしながら、声がした。
「寝起きで温まったのではないですか、副隊長?」
俺はその声の持ち主を忘れる訳がなかった。振り返ればやはり、ギールが立っていた。どうすれば俺が寝ていたことが、そんなにすぐにギールに伝わるのだろうか。やはり私兵でもいたる所に潜めているのだろうか。俺は左右を見てから、人々の輪から抜けるように歩き出した。ギールが呆気に取られたように俺を見た。
「副隊長、どこに行くのですか?」
と、ギールが俺の腕を掴んだ。
「……お前に関係ない」
そう俺は言うとギールの腕を振り解き、拘束から逃れた。ギールが気に食わなかったので、ギールの腕を掴み返すとそのまま地面に倒した。砂利で汚れた顔を手で払うと、ギールは口笛を吹いた。遊び人の所は今も健在のようだ。
「痛いですよ、副隊長」
痛い訳がなかった。痛い人が堂々と口笛が吹けるはずがない。
「怠けてるせいだな、ギール。鍛錬が足りないのだろ」
俺はそう淡々とギールに告げた。流石にイシャルといちゃいちゃしているせいでとは言わなかった。隊員から爆笑されるだけだろう。向こうもむざけている、と言われなくても分かった。俺はギールを振り返らずに、今度は本当に出て行った。訓練する場所と時間も考えものだった。体が冷え、寒くなった俺は上着を羽織った。軽く袖を見たが、この格好では出歩いても大丈夫なように思えた。丁度軍服を隠す袖の長さで、首元も少し分厚い服を着ているだけに見えるはずだった。基地の門に近付くと、俺は箱に詰めている兵士に挨拶した。
「ちょっと散歩に行く」
「銀狼隊のクロスネフ副隊長じゃないですか。済みませんが、一応認識票を提示して下さい」
認識票。それは通称ドッグタグと言われ、身分証の簡易版として手渡されていた。常に折れやすいカード型の身分証を携帯する訳にはいかないので、持ち運びやすい簡易版が作られた。
「あいよ。いつも有難う」
と、俺は服に隠していた認識票を手渡した。
俺としても偽者のスパイが基地に入れられるのは困る。しっかりと疑って欲しい。それに俺が外に行かなければ、仕事が増えることがなかった。兵士は認識票を機械に通した。異常はなく、俺に戻された。俺は失くす前に付け直した。
「それではお気を付けて」
手を振ると俺は基地の敷地から出た。まず一度深呼吸をし、新鮮な空気を吸った。そのまま俺は街中を歩き始めた。行く宛はないとしても、足は自然と動いた。目的地のない散歩もたまには良かった。俺はぶらぶらと歩き、顔を上げた。急いで左右を見回した。全く見覚えのない場所に来ていた。俺は立ち止まり、何も考えずに出歩いたことを後悔した。自分が極度の方向音痴であることを思い出した。地図も上手に読めず現在地が分からずに、よく地図を両手で持つと左右に動かしていた。するとセインが笑ってきた。俺が方角も分からずに悩んでいる中、すぐに向こうは現在地から目的地まではっきりと理解していた。どのように進むかもすぐに頭に叩き込んでいた。
俺は肩を落とすと溜め息をした。空を見ればまだ太陽が強く照っていた。日が暮れるまでに俺は家に帰られるのだろうか。それは神のみぞ知る。やはり慣れないことはするべきではないようだった。それを俺は嫌でも感じ、ひたすら関係ないことを考えることで現実逃避していた。こちらをちらりと見てくる視線を躱すように、何も思わない植物や家々の景色を眺めていた。俺は迷ってなどいない。俺は意味があって立ち止まっていた。それは芸術家が閃いた時と同じである。
「クロスネフ副隊長、迷子ですか?」
声をかけられた俺は急いで振り向いた。最初からそこにいたかのように、灰狼が自然体に立っていた。俺は気配を感じていなかった。これはそれほど俺が考えに没頭していた意味だろうか。俺は口を開いた。
「迷子じゃない」
「そうですか。なら、さようなら」
と、灰狼は俺を気にかけることなく、勝手に歩き出した。
妙に歩く速度が早く、俺が注視していないといつの間にか視界から消えてしまいそうだった。俺は咄嗟に手を伸ばした。
「ま、待ってくれ。基地まで案内してくれ」
「分かりました。……断られたらどうしようかと思っていました。ジェベル副官からクロスネフ副隊長に来客が来ているから早めに帰らせろ、と言われていましたので」
灰狼は小さな笑みを浮かべながら、そう俺に言った。だが、微塵も失敗した時のことを考えている様子ではなかった。俺は無口な灰狼しか知らなかったので、感情が読みにくいと思った。少々苦手なタイプである、と今更気付いた。原文のまま伝える辺り、性格が分かった気がした。ただ来客が来ているとは知らなかった。俺に会いに来る者など特にいなかった。それにこの時期に誰が来ると言うのだろうか。俺は親鳥を追うヒヨコのように灰狼の後を急いだ。灰狼は当然のこと迷うことなく歩き、俺の速度に合わせて歩いていた。後頭部に目が付いていると新しい種族の人間と思われた。基地を見た時に何と安心したかは、言葉に書き記す必要もないだろう。
上着を脱いで軍服を整えていると、灰狼が素早く俺の上着を回収した。俺は鏡がない中、何とか身嗜みを整えると執務室に入った。中には既にギールがおり、他に見覚えのない老夫婦がいた。濃い茶髪に明るい緑色の目を持つ老婆。優しい印象があった。老爺は黒髪に明るくても陰のある青い目だった。海のように色が深く、透き通っていた。老婆共に服に解れがなく、裕福なようた。ただ白髪が目立つようになり、年であることを伝えていた。だが、俺との接点は皆無だった。ギールに視線を送っても、ギールは何も答えてくれない。老夫婦は俺と目が合うと目を大きくさせ、涙を流しそうになっていた。俺は状況が分からず、唖然としながら佇んでいた。すると老婆の方が立ち上がり、俺の腰に腕を回していた。
「落ち着いて下さい、奥さん」
と、俺は腕をゆっくり剥がそうとしたがタコの吸盤のように俺にくっ付いていた。
俺は肩を上下させるとそのままの状態でいるしかなかった。老婆は何度も俺に顔を近付けると、やっと顔を上げた。
「やっと見つけたわ、ジェイド。私達が今まで探していた息子よ」
「違います。私はゼド・クロスネフという名前があります。貴方の息子さんのジェイドさんは別の人です。人違いですよ」
訂正するために俺はすぐに言った。間違ってでも誰かに、そのようなことを言われたくなかった。だが、老婆は激しく頭を左右に振った。
「いいえ、合ってるわ。愛しい息子である、ジェイド・ウェルヴィスの顔を忘れる訳がないじゃない」
これでは老婆に伝えても、何かが変わることはなさそうだった。俺は頼りの綱である、ギールを見た。
「ギール、どうにかしてくれ」
今すぐにでもこの茶番を止めて欲しかった。俺はこのようなことに付き合うほど暇ではない。副隊長として、片付けなくてはならないことが多く残っていた。ギールは足元を眺めてから、顔を上げた。そのような表情をされたのは初めてだった。嫌な予感がプンプンした。
「副隊長。……いや、ゼド。これは確認が取れていることだ。私は貴方が捨て子ではなく、本当は家族がいると伝えたかった。突然合わすことになって済まない」
と、ギールは頭を下げた。
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