7

 誕生日から数週間が過ぎ、俺は座り慣れた執務机の椅子に座った。セインの執務室で仕事をしていた時は、俺の部屋からこの椅子が運ばれた。いつまでも俺を下から支え、すっかり馴染んだ座り心地になっていた。俺が背にもたれると音がした。俺はそのまま限界まで倒れ込むと、背伸びをした。執務机に視線を戻せば、プレゼントで机が飾られていた。机の一番手が届きやすい場所には、銀狼が座っていた。銀狼の隣にはギールがこっそり撮っていた、セインとの写真が写真立てに飾られていた。俺が使っていた万年筆はイシャルがくれた物だった。俺の色に合うように真っ黒の本体だったが、アクセントとして翡翠色が入っていた。無機質で必要最低限の物しかなかった部屋が、多くの物で溢れていた。隊員から貰ったポスターや額縁、照明器具があった。額縁には当然のこと、銀狼隊の写真が収められていた。

 応接用のソファには黒狼のぬいぐるみがあった。売られている噂を聞き付け、隊員が買ってくれた。今はセイン二世の寝るお供になっていた。セイン二世は玩具を乱暴にせずに扱い、玩具をくれた隊員に飛び付き感謝を表していた。流石に全てを飾ることは出来なかったので、残りは俺の私室に置かれていた。それも俺だとただ放置するのでわざわざギールが他の隊員を呼び、俺の部屋を飾り付けさせた。ホテルのようにきらびやかになった時には、どうしようかと悩んだ。俺の部屋であって俺の部屋でないように思えた。闇に放置されていた俺が突然腕を引っ張られ、黄金で輝く世界に投げ入れられたようだった。左右も分からずきょろきょろしていたが、そのような時にベッドで休んでいるセイン二世に癒やされた。

 後、唯一変わったことは俺の部屋に居候が増えたことだった。本名は言わずに灰狼とだけ名乗った。特徴的な灰色の髪に少し眠そうな紺色の瞳を持っていた。俺も隊員名簿を見れば名前が分かったが、面倒なので見ようと思わなかった。俺が執務室で仕事を続けていると、風のようにふらりとやってきた。堂々と副隊長の執務室に来れるのは、中々度胸があるように思えた。最初は気になったが今は放置していた。俺の邪魔をする訳でもなく、ただそこで読書をすることが多かった。ギールとは共闘する仲だったが、静寂を共にする仲というのも良いと思った。俺は気になってふと灰狼に聞いた。何故俺の所にわざわざ来たんだ、と。すると灰狼は顔を上げて言った。俺と同じように疲れた顔をしていた。

「煩い知り合いに付き合うのは面倒だからだ」

 俺はその言葉を聞き、非常に共感した。俺がギールに思うように共通の悩みを持っているようだ。俺は灰狼に自由に来ることを許した。それほど来客も少ないので、多少の安らぎは提供出来そうだった。灰狼にとっての居場所となったようで、気付けばそこに座っていて、気付けばどこかに消えていた。意図的に気配を消しているようだった。よほどその人からは隠れたいようだった。

「お先に食べますよ、クロスネフ副隊長」

 目前の灰狼はそう俺に言い終わる前に、食事に手を付けた。遠慮が微塵もない。その言葉通りに勝手に先に食べている。隣のソファには読みかけの本に栞が挟まれていた。食事している場所から極力離す辺り、本当に本が好きなようだった。昼か。そう俺は思った。灰狼は意外と優しいのか、俺の昼も一緒に買ってきてくれていた。後でしっかりと代金は支払っている。副隊長がただ食いは許されない。俺は灰狼に近付くと、灰狼が空いてる手で俺の方に袋を押した。中身を見れば、食べやすいパンだった。ハムと野菜のカスクートに塩パン。俺の大好物だった。ウェッティも入れられていた。

「わざわざまた有難う」

 俺が袋を開けると、パンの香ばしい匂いがした。空腹を堪えられなくなり、俺は齧り付いた。硬いパンの食感にシャキッとするレタスと柔らかいショルダーハムの食感がした。ピリッとする胡椒の香りが俺の食欲を増した。

「美味しい」

 そう呟きながら、俺は喉をゴクリと鳴らした。食べた時の幸せは何にも勝らないように思えた。ここのパン屋はこのカスクートの他に、パンの耳や塩パンもオススメだった。ギールが以前俺に突き付けたサンドイッチも同じ所からだった。誰もが腹をしっかりと掴まれていた。灰狼の方を見れば、大きなメロンパンを両手で持ち、端から食べていた。その様子はリスのように見えた。俺は気付かれる前に食事に集中した。硬いカスクートはすぐに噛み千切ることが出来ずに、少々パンと戦う必要がある。だが、少しずつ食べるからこそ美味しさをより長い間味わえた。室内がパンの香りに溢れ、俺らの食べる音だけが響いた。食べ終わると俺はウェッティで口元を拭きながら、顔を上げた。丁度、灰狼も同じことをしていた。目が合うと笑いあった。

「たらふく食って腹が苦しい……」

 と、俺はソファに深く沈んだ。

「同感です」

 灰狼も同じように腹を押さえていた。メロンパンとクロワッサンを食べ、意外と甘党のようだった。俺はそこまで甘いものが入らないので考えられなかった。最初は灰狼と同じように塩パンなどと、野菜が入っていないものを食べていた。すると、ギールに取り上げられ、せめて野菜が多少入っているカスクートを食べるように言われた。パセリは抜いたが、レタスと共にトマトも入っていた。それに多少の油として野菜でパンを湿らせないためにある、マヨネーズもあった。俺の塩パンは代金を受け取った上でギールが食べ、次の日に踊りながら買いに行っていた。パン屋の魔に吸い込まれたようだった。塩パンの良さはまだ知らなかったらしい。

 俺はそのままソファにいれば寝てしまいそうだ、と言われなくても分かっていた。だから、数分ソファでリラックスすると、いつもの椅子に戻った。頬杖を突いて貴重な休憩時間を楽しむことにした。だが、瞼が勝手に合わさり始めていた。二つの磁石のように俺の意志に反して行動していた。俺は何度か船を漕ぎ、手が滑った時に目を覚ました。頬を叩くと伸びをした。食べに行ったギールが帰ってきた時に眠っているのは嫌だった。眠れる黒狼や部下を差し置いて昼寝する副隊長と言われたくはない。だが、背中に当たる太陽の温かさは抗うのが難しかった。猫の日向ぼっこする気持ちを強く理解出来た。俺は欠伸をすると目を擦った。世界の全てが俺を眠らせようとしていた。

「眠いのですか、クロスネフ副隊長?」

 灰狼の声が近くからした。

「……眠くない」

 俺はすぐに答えようとしたが、既に頭が上手く動かないようだった。眠いのを受け入れたくない自分と、受け入れて大人しく昼寝しようとする二つの自分が対立していた。

「明らかに眠そうですが」

「寝る訳ないだろ。食後にすぐ寝たら牛になるんだぞ」

 指摘する灰狼に俺は言い訳した。

「そうですね……」

 と、灰狼は自信がなさそうに行った。

「風邪を引いてしまいますよ、クロスネフ副隊長」

 何かが広げられる音がすると、俺の背中が重くなった。灰狼が俺が収納していた布団を取り出して、俺にかけたようだった。いや、俺を寝かされては困る。これは新たな俺へのテロか。きっとそうだった。

「眠くない、眠くない。眠く……」

 俺はそう呟いて眠気を打ち消そうとした。だが、既に机に倒れ、枕代わりにしている俺に勝つ方法は残っていなかった。何かを考えることも出来ずに俺の意識は消えた。疲れが癒え、俺はふと顔を上げた。先程と時間が変わっていないはずだった。灰狼は普段と同じように読書を楽しんでいた。だが、パンの香りはいつの間にか消えていた。それにその証拠に壁にかけられている、時計に視線を移せば三十分も過ぎていた。俺は飛び起きた。

「はっ、寝過ぎた」

 灰狼は俺を見ると、日差しで眩しいのか目を細めていた。

「まだまだ時間がありますよ、クロスネフ副隊長。折角なら最後まで仮眠を取ればどうでしょうか?」

「駄目だ」

 俺は頭を左右に振った。きっとギールが休憩を早く切り上げ、俺の寝顔を間近で眺めて楽しむのだった。無防備な俺の体に何をされるか分からない。それに幾ら鍵を閉めても、合鍵を相手は持っていた。俺は立ち上がると、布団を椅子に置いた。ポールハンガーから上着を取ると、俺は部屋を出た。眠気覚ましには兎に角歩くことが重要だった。俺を肩を震わせながら歩いた。外界は日が出ていても、何とも寒く感じられた。だが、そのお陰で俺の頭は冴える一方だった。何度か声をかけられたので、片手を上げて対応した。余り袖から手が出ていなかったのは気のせいだろう。

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