第二部
プロローグ
俺は何度目か分からない溜め息をした。だが、溜め息をして何かが変わる訳でもなかった。溜め息はいつまでもただ体から吐き出される息であり、何の魔法でもなかった。そんな素晴らしいことをしてくれる物なら、誰もが喜んで息が出来なくなるまで溜め息をしているのだった。左手の指輪を見れば穏やかになれるのに、目前の現状はそうではなかった。俺は百も承知だった。副隊長として、セインの残した銀狼隊の面倒を見るのがいかに重要なことか。
だが、面倒を見られるのが当然、という風に来られるのは正直言って面倒だった。邪魔でしなかった。視界から消えてもらいたかった。無理矢理にでも視界からしばき倒したくなった。暴力は良くない。それは言われなくても良く分かる。俺は戦闘狂ではない。ただきっとそれさえも喜ぶのが彼らだった。セインと同じように俺のことを可愛いなどと言い、遊ぶ奴らだからだった。鍛え方を間違えたか、と俺はふと考えた。だが、それを言えば俺の責任のようで癪だった。俺は何も悪くない。俺はむしろ被害者のはずだった。
ギールは手を止めて俺を見ると、優しい笑みを浮かべた。最近オシャレでかけ始めた金縁の伊達メガネが、妙に知的に見せていた。茶髪も伸ばし、縛った尻尾が前に垂れていた。隊の軍服ではなく、明るい茶色のベストを羽織っていた。下の白いシャツの真ん中には、琥珀のブローチが光るループタイをしていた。今日は仕事の後に何やら急ぎでデートに行きたいようだったので、副隊長の俺が特例で私服での出勤を許可した。わざわざ昨晩私室に押しかけ、俺が頷くまで退こうとしなかった。
銀狼隊の部隊章を忘れずに左襟に、副官を表す階級章を右襟に付けていた。それなら許すしかなかった。銀狼隊の部隊章は私服でも装飾品のように収まっていた。最近は民間人も部隊章のレプリカを付けるのが流行っている、とギールが前に言っていたことを思い出した。ただ正式のは裏にしっかり本人の狼名が彫られていた。副官の階級章はギールだけが持っており、狼と羽ペンが描かれていた。副隊長の俺のは、狼が長銃を担いでいた。隊長は月を咥えた狼が長銃を担いでいた。隊員は狼だけの階級章であった。
ギールの眼鏡が照明に当たり、ガラスが一瞬輝いた。
「そんなに溜め息をしなくても、禿げますよ」
「黙れ」
と、俺は即答した。
今すぐにでも手を伸ばして、その目障りな眼鏡をへし折りたかった。晴れてギールの恋人となった、イシャルが泣こうが気にしなかった。勝手に泣けば良かった。ギールなら気が利くことを言ってくれる、と予想した俺が馬鹿だった。恋人が出来たからと恋人だけにしか、良いことを言わなくなった。面倒なしょうもないことしか言わない、オンボロ機械へと化した。これだから、俺の溜め息は増すばかりだった。もし白髪でも生えたのなら、逆にギールを取っ捕まえて白髪を探してやるまで離さないのだった。
「手厳しい」
ギールはそう言うと、泣いているように目に手を当てた。だが、その下では笑っていることなど言われなくても分かった。
「お前なぁ、もう少し良いこと言ってくれないのか? お前の副隊長は大変な目に遭っているんだ」
俺は手に持っていた書類を机に投げた。ギールは何事もなかったかのように顔を上げると、満面の笑みを浮かべながら親指を上げた。
「ドンマイ、ですね。頑張って下さい、副隊長。ただ私の副隊長になってもらった記憶はありませんが。私はイシャルだけを愛すると決めたんですよ」
「煩い」
そうギールを切り捨てた。いつ口を開いてもイシャル・ベニトスの素敵なこと百選を始める。俺はそんなことを聞くほど暇ではなかった。頬杖を突きながら、少しだけセインがギールにどうだったかを理解した。だが、仕返しというように俺にギールが自慢話をするのもどうかと思われた。間違っているのか。間違っているはずだ。執務時間中に恋人の百選をする馬鹿はどこにいる。
俺はギールを見た。目が合うと口角を上げてくる。いた。馬鹿は目前にいた。俺は書類を乱暴に横に退かすと、机に倒れ込んだ。冷たい机であったが、それだけが俺を癒やしてくれる気がした。俺はギールを無視しながら、大きな溜め息をした。幸せが逃げようが気にしなかった。今の俺は溜め息をしないと、更に不幸せになるのが目に見えていた。俺は何を間違えたのか、とこれまでのことを思い出した。
全ての始まりは何気ないものだった。ギールが好きな隊員がいたから、二人がくっ付くように最後のゴーサインを出しただけだった。ただ二人が付き合うことを副隊長として、俺が隊員の方に許可した。それがギールが今お熱になっていた恋人、イシャルだった。それだけで終われば良いのに、いつも噂はおかしな方向に行くのだった。何故か俺が恋のキューピッドと言われるようになった。そして、パートナーのいない隊員がわらわらと俺に面会するようになった。丁度、面会を最近行っていなかったので良かったが、そういうことではなかった。俺はただの副隊長であり、お見合いをセッティングするような人ではなかった。それを俺は何度も告げたと言うのに、パートナーが欲しくて仕方がない男らは引かなかった。普段は草を食べる草食動物であるのに突然覚醒し、黒狼と呼ばれる俺さえも怯えた。何だ、あの瞳に映る怪しい輝きは。あの血に飢えた様子は始めて見た。
勝手に仲になれば良かった。上手にそういうのを行うのがギールだったが、今のギールは故障していた。恋というものにより。あの様子では近々更に仲が深まるように思われた。隊員も俺を頼りにしているのは非常に嬉しかったが、俺はそういう面で頼られたい訳ではなかった。黒狼恋愛相談所と言われていると知った時には、発狂しそうになった。これまで気にしていなかった新たな問題に直面し、俺は以前が恋しくなった。ただセインとひたすら訓練の繰り返し。俺は戦闘能力を買われていたため、副隊長としての管理職はさほどしていなかった。そのため、今そのツケが返ってきたとも言えた。
「人生って上手くいかないもんだな……」
俺はそう呟くと、目頭を押さえた。少し指を動かすだけで気持ち良かった。俺にとっての人生は戦闘が全てだった。セインに心を開いたきっかけも戦闘を通してだった。脳筋野郎とギールには酷く言われるが。俺が初めてセインと戦った時、俺はセインを殺そうとした。模擬戦用のナイフであろうと強く心臓にぶつければ、衝撃で心臓が止まる。なのに、セインは避けようともしなかった。一軍人が隙だらけのはずがなかった。俺は無抵抗な奴を殺す趣味はなかったので、気分はすぐに冷めた。そんなことをするのは負け犬だからだった。
セインは俺を真っ直ぐ見つめ、「君になら殺されて良いのに」と言った。馬鹿正直に言われ、俺は冗談でもそのようなことを言われたくなかった。今では分かるが当時の俺は、何とも屁理屈を述べていた。セインが自分を優れていると思っているから、そんなことを言えるのだと思った。俺なんかに殺される訳がない、と。だが、ただセインはその言葉通りに言っているのだった。セインは初めから馬鹿正直だった。自分自身より、他人の俺を優先するなど間違っていた。そう俺はセインを捕まえて、耳元で大声で叫びたかった。そうすれば、二度とそのようなことをしないでくれる気がした。もう意味がなかったが。
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