お腐りと黒狼 ある隊員

 その本を読むのに非常に集中していた隊員は、近付く気配に気付くことが出来なかった。普段は誰も来ることがなく、隊員にとって取っておきの場所であった。基地の一番端の非常階段の近くであった。巡回がいつ来るかも必ず把握した上で、外で楽しんでいた。何故なら自室では解放感がなく、物足りないからだった。だが、公衆の場として気を付けながら、危険な橋を渡っていた。その陰はブックカバーがかかった本を一瞥すると、読み続ける隊員を眺めた。陰は少し眺めていたが、苛つき本を取り上げた。やけに薄く、内容は深く見なくてもすぐに分かった。

 隊員は誰が取り上げたかを見て、顔色を悪くした。青色から土色へとすぐに変化した。

「く、クロスネフ副隊長、このような場所でどうしたのですか?」

 と、情けないほど震えた声だった。

 ゼドは隊員を軽蔑するように見下ろすと、本を投げ返した。隊員は落とすまいと、犬のように急いで投げられたものを捕まえた。ゼドはそれを眺めながら、溜め息をした。

「節度を考えろ、馬鹿が。そんなのを読んで何が楽しいんだ?」

 得意分野を聞かれ、隊員は即答した。尊敬するクロスネフ副隊長であろうと、そのことを軽視される訳にはいかなかった。自分自身は幾らでも良く、少々蔑まれるのも嬉しかったが。

「失礼ですが、クロスネフ副隊長は興奮したことがないのですか?」

 隊員は口を開いてから、聞くことを間違えたことに気付いた。妙に気分が上がっている時は失敗をするのだった。そっとゼドを見たが、ゼドはその時を思い出そうと唸っているようだった。興奮。そんな破廉恥をクロスネフ副隊長がする所を、隊員は想像出来なかった。

「興奮か? 戦場でなら興奮するなぁ。あの敵の喉元を掻き切った後の感触とかか? 生きて帰って来れた時は、誰もが興奮している」

 ゼドの答えを聞き、隊員はずっこけそうになった。そうだった。この男は妙に天然であった。だから、現にシルヴィス隊長がアプローチしていても一切気付かない。いや、気付けないのだろうと隊員は分析していた。この薄い本と現実は違った。そのようなこと。恋や愛を知らなければ、知ることもないのだった。隊員は目前の男が憐れに見えてきた。ここはファンとして言いたくなるのだった。早くくっ付け。連載を待っている隊員は多くいる。皆、恋という二人の話の続きが知りたくて仕方がなかったのだった。だが、隊員はゼドがここまで戦闘狂とは知らなかった。汚れてなくお腐りでないから、興奮と聞かれると正統派の戦闘時のドーパミンが上がることを言う。何とも可愛いのだった。

「それ以外は?」

 と、隊員は一応聞くことにした。

 神に頼むがクロスネフ副隊長の答えが変わる訳はなかったが。

「ない」

 完全に予想通りの答えを返してきた。隊員は本を開けるとゼドに見せた。一ページずつじっくり濃厚な所だけを見せ付けた。ゼドは視線は送っていたが、表情が変わることは一度もなかった。それは男として心配になるほどだった。

「クロスネフ副隊長、これを読んで何か気分が上がったりしませんか?」

「しない」

 と、ゼドは奪って本を無理矢理閉じると、隊員に突き返した。

 隊員をゼドはじっと見つめると続けた。

「そもそもそんな動物の繋がりみたいなのを見て、何が良いんだ? それなら動物の交尾にでも興奮するのか?」

 隊員は動物を想像しようとしたが、洗脳された頭では動物の顔が人になってしまった。何度も想像し直そうとしたが、幾ら行っても変わらなかった。少し自分の重症度が分かった気がした。はっと顔を上げれば、そこにはゼドはもういなかった。

「クロスネフ副隊長、どこに消えたのですか?」

 と、隊員は消えたゼドを探そうと、辺りを確かめた。

 だが、神隠れにあったようにどこにも姿が見えなかった。隊員は叱られた狼のようにしょんぼりした。最初に出来た友達に趣味を話し過ぎてしまい、友が離れてしまった時と同じだった。そのことを思い出してしまい、隊員は心が更に痛くなった。本を服の中に隠すと足元を眺めながら、その場から去った。ただ廊下から盛大な溜め息が響いた。

 一方で当のゼドは、廊下を少し駆け足で歩いていた。少し寄り道をしたゼドは定例会議に遅れてはいけない、と少し早足で隊長室に急いだ。隊長室に入ると、セインとギールが見てきたがゼドは無視した。唯一空いていた席がセインの隣だったので、ゼドは静かに座った。セインはゼドを見つめた。

「今日は遅れていたがどうしたんだ、ゼド?」

 セインがじっと目を合わせようとしたが、ゼドは決して合わせる気がなかった。

「何も。ただ変な物を読んでいる奴がいたから、ソイツと少し話をしただけだ」

 セインは目を細めながら、頷いた。

「へぇ。そんな奴か……。どんなの? 僕も内容が気になるなぁ」

 内容を聞かれ、ゼドは黙った。流石のゼドも公衆の場で言うのは躊躇った。セインはゼドに更に近付いた。

「ふーん。教えてくれないんだ」

 ゼドはその様子に苛つき、口を開けた。

「う、薄い本だ」

 すると、セインは大きく目を開けた。背後でギールも何やら反応していた。逆にゼドは二人が反応するとは思わなかった。セインはゼドの両肩を掴むと言った。

「何も悪いことはされていないか?」

 と、焦るように体を上から下まで確かめられた。

「悪いこと? ただ話をされただけだ」

 セインは椅子の背もたれに倒れかかると、天井を見つめながら息を吐いた。ゼドは室内の温度が急激に冷えた気がした。ギールを呼び寄せると何かを言っているようだったが、ゼドには聞こえなかった。ギールが部屋を早々と去ると、ギール抜きで定例会議が始まった。ゼドは特に気にかけなかったが、セインはギールに「ゼドを穢す屑を許さん。今すぐ調べてこい」と告げていたのだった。ギールにすぐに捕まった隊員はセインの前に連れて来られ、こってりと絞られたのは言うまでもなかった。セインは隊長命令で、そのような物を隊員の全部屋から排除させた。それ以降、ゼドはその隊員を見かけることがなかった。

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