能ある狼は牙を隠す ギール・シェベル

 私は人付き合いが面倒だと感じている。きっかけは至って単純だった。馬鹿な兄が女に巻き込まれ、村の全員から悪人呼ばわりされたからだ。多少は尊敬していたが、兄は取る選択も間違え女に騙された。すっかり良い包まれ、謝罪もしてしまえば後戻りは許されない。兄は本当は被害者であろうと、誰もが加害者と見る。女は謝罪する両親に気にしないで下さいと言うが、心の底では何を思っているのか。こちらを見下していることは言われなくても分かった。俺は人が嫌いになった。特に女が。あのような女を二度と許すつもりはなかった。だから、あの女が私を見てきた時に私は女を睨み付けた。この足で踏み潰し、粉々にしてしまいたいと思いながら。バラバラにし、この怒りを晴らしたかった。殺意が湧いていたのだろう。女は情けない悲鳴を上げながら後退り、逃げ出した。肉小動物に睨まれた獲物のようだった。

 一気に勢力が逆転し、愉快でしかなかった。私は心の中で笑った。これまでの人生で一番笑い、相手の不幸を祝った。だが、今度は私が汚れてしまったようで、急いで服を払った。邪念を振り払うと、以前の落ち着きを取り戻した。油断していると足を引っ張られるのだった。それに、そんな者のことを気にするほど、私は暇ではなかった。私は家計を支える必要があり、軍に志願した。母親が突然病気になり、薬が出来るだけ早い内に必要だからだった。女は後日罪を認め、兄は加害者でなくなった。だが、田舎でそんなすぐに虫の良い話を信じる者はいなかった。収入が見込めない兄の代わりに、村を出たのだった。居心地が悪かったからというのも一理あったが。これはまぁ、幼き私が何かあった時に悪役のように額を押さえながら笑うので、気持ち悪い子認定されたのだった。愛しいはずの妹からもダサい、と切り捨てられた黒歴史だった。

 私は基地にいる間も噂を上手に使うことにした。私がどれほどの遊び人かの噂を意図的に流し、誰もが近付きにくいようにした。髪も特に手入れをせず、誰かに会う時は念入りにボサボサにした。服もある箇所だけにシワを付け、ベルトは急いで付けたように見せた。そうすれば見事に誰もが私を避け、私の背中に指を指すようになった。ありもしない噂が付け加えられるようになり、蔑まれる自分自身を眺めるのは中々興味深かった。黒い渦が膨れ上がるのをこの目で見ているようだった。そして、背後の暗闇からはきっと誰かのせせら笑いがするのだった。喰いたいと背後から襲う者もいたが、私は自分の手を汚すことなく倒した。相手を器用に避けるとそのまま勝手に転ばせ、鼻から血を流させた。大抵がそこで痛がって終わる、呆れた大人だった。たまに魔が差しそうになる時はあるが、私は欲が理性に勝つことはなかった。もしそのようなことを仕出かした日には、首を自ら掻き切る自信がある。噂の信憑性は個々に任せる。戦場では心理戦も重要だ。

 だが、私の予想に反した出来事が起きた。何と真っ向から噂を信じない変人がいた。変人は私を見つけると手を振りながら近付いてきた。生憎私は友達が一人もいないボッチであった。そのため、このような明る過ぎる人物は愚か、誰も知り合いはいなかった。変人は犬を飼いたいから手伝ってくれ、と不審者の私に言ってきた。そう、その変人こそセイン・シルヴィスだった。知らぬ者ほど彼が格好良く見えるが、私に言わせると中々狂っている人物である。そして、好きなものには歯止めが効かなくなる。どのような格好良いオーラも消えてしまうので、気を付けるようにと私はよく伝えている。でだ、そのセインが言う犬こそゼド・クロスネフであった。やはり人を犬扱いするとは中々な人物だ。悪意がない状態でそれなので、きっと母親のお腹の中にネジを二、三本忘れたのだろう。目を輝かせながら言うので、指摘する方も指摘しにくくなる。

 ただセインには神がかった観察眼があるのだろうとは思う。でないと手当たり次第に会いに行けば、いずれ事件に巻き込まれるはずである。なのに一度もそれはなく、セインは捨てられていた動物を保護するように、現部隊では馴染めていない人を見つけていた。私を見つけ出したように。ただ唯一口下手であるので、代わりの交渉を私が担うこととなった。セインが口を開ければ誤解が広がるだけで、変人と知られてしまう。志願者は日に日にセインのことを、厚く信頼するようになった。それはセイン自身の魅力であった。私とは真逆であり、セインが太陽なら私は常に影と言えた。だからだろうか、ふざけてではあるが影狼と名付けられたのは。そもそも正しい表記は陽炎であるはずなのに。

 私の日々は楽しそうな日々を一歩後退って見るのが好きだった。おじさん臭いと不名誉に言われるが、どうしても誰かの成長を眺めるのが好きだった。例えば基地で数ヶ月前に見た人が、今日見ればどのように成長していたか、など。ありきたりな誰かの日々を覗く。それは公園のベンチで座り、時間を過ごしている老人と思われても仕方がないのかもしれない。反論出来ない自分が仕方がないのだが。まぁ、私が何を言いたいかと言うと、ある二人の恋を眺めるだけで幸せだったのだ。純粋な恋が作られていくように見えるが、片方は天然。ではなく、恋や愛も知らなずに育った、珍しい生き物。片方は変人だが、その好きな人の前ではどうも格好良く生きている。そう、セインとゼドのことである。副官として特等席に座れるなど、きっと私は一生の運を使ったのだろう。それほど見ていて微笑ましい、素晴らしい時間だった。

 私は恋などしない。そう考えていたのに、結局一番分からないのは自分自身なのだと気付かされた。私は二度目の運を使った。きっと明日にでも死んでしまうのではないか。縁起が悪いので本気で書く訳ではないが。恋など若者のすることだと思っていた。若気の至りでするものだと。そう言い訳をしながら、私は自分の本心に気付いた。そうか、私はあの女のことを忘れていなかったのだ。今この瞬間も心の底から嫌い、決して許せなかった。だから、恋も自分の問題になると穢れのように見えた。あの女のようになってしまうと恐れていた。

 だが、実際はそうではないと私は知ってしまった。隊員の一人が私の好きな花を差し出しながら、愛を伝えてくれた時に。その言葉を聞いた時に私の中で彼はただの隊員から、何か特別な者に変わっていた。私は嬉しかった。わざわざ花のことも調べてくれていた。夜の闇のように黒く染まった花。その花はどのような光も透き通さず、底のない闇を見せてくれた。それを窓際の青い花瓶に挿し、眺めるのが好きだった。悪魔やネズミのような目だと言われる、赤い目を忘れることが出来たから。

 このことは私が信頼出来る隊員だけに伝えていた。その隊員の審査を軽やかに、突破したようだった。ただ遊びで伝えただけだったのに、このようなことを起きるとは予想もしていなかった。私は花を受け取ると、彼を優しく抱擁した。そして、涙した。ゼドが出来ないことをしてしまい、裏切っている気がした。ゼドはセインともう抱擁が出来ないのに、私は抱擁をしてしまった。セインの代わりにゼドを守る必要があるのに。

「ギールさん、ありがとうございます。……ギールさんは常にシルヴィス隊長とクロスネフ副隊長のために、尽力していました。そんなギールさんに一目惚れしてしまったのです。なので、泣かないで下さい。クロスネフ副隊長からは告白する許可を得ていますから」

 私は最後の一文を聞き、動きを止めた。クロスネフ副隊長からは告白する許可を得ています? いつそのようなルールが加えられたのか、私は教えられていなかった。何故。これはドッキリなのだろうか。絶対にそうだろう。絶対にそうであるはずだった。この者も悪い。ゼドの許可を得るなど。私の先に知るなど。許せない。

「ゼド、殺す」

 私は長い息を吐きながら、そう呟いた。彼には聞こえてしまったようで、彼は「え?」と唖然としていた。彼は一気に顔色が悪くなり、私の前に立ち塞がった。

「やっぱり良くないと思うんですよ、ギールさん。暴力は反対ですよ。駄目です、駄目です。喧嘩など」

 と、彼は涙目になりそうだった。

 私は恋の後はその彼からの妨害かと思った。だが、怒りが掻き消えるほど私は衝撃を受けた。このハムスターのような可愛く、守り甲斐のある生物は何なのだ。儚い天使猫のようにそっと触らないと、逃げ出してしまいそうだ。やはり、格好良い所を見せなくては、と私は両腕の裾を上げると副隊長室へと急いだ。背後で彼がか弱い悲鳴を上げていた。それは私には私のための応援歌のようだった。気分はすこぶる良かった。後は悪人ゼドを倒し、正義を貫くのだった。

 副隊長室の扉を叩き開けると、そこには誰もいなかった。私は急いで辺りを見渡し、壁にもたれかかるゼドを見た。慣れないことをゼドがするのは珍しかった。ゼドが取るのは常に安定であり、わざわざ危険な橋を渡ることがなかった。ゼドは私を見ると、歯を見せながら笑った。後ろではやっと追い付いた、彼が息を整えようとしていた。彼をこのような目にさせるのも、全てはゼドのせいであった。

「ギールもやっと、お相手が見つかったようで俺も安心したよ。俺のことを心配して付き合って良いか確認を取りに来るなど、ギール。お前とは違い、どこまでもしっかりしているようで。これではいずれ尻に敷かれるぞ」

 私はゼドを逃さないように前を塞ぐと、ゼドの胸倉を掴んだ。

「副隊長の許可がいるなど聞いていないぞ」

 ゼドはただ冷ややかに私のことを眺めた。これはその視線だけで何人も殺せるようだった。ゼドは小さく溜め息をすると、口を開いた。

「何を勘違いしているか分からないが、そんなルールはない。お前も知っているだろう。……お、俺はセインだけを生涯愛するんだ。だから、そんな誰かのパートナー奪う訳ないだろ」

 と、ゼドは恥ずかしそうに横を眺めていた。

 私はついつい興奮で血を吐きそうになるのを押さえた。ゼドを汚す訳にはいけないので、ゼドを離すと咳払いをした。

「まぁ、なら安心したよ」

 ゼドはじっと私と彼を見ると、思い出したように言った。

「あ、そうだ。おめでとう、二人共」

 と、ポケットから二枚分のチケットを渡した。

 私がそれを受け取ったのを確かめると、ゼドは早々と部屋から去った。私はそっと彼と目を合わせると頷いた。この感謝を伝えるために、今度は私達が何かをしようと決意した。私はその時、彼の中にある強い芯を見つけ、更に離したくなくなった。そして、互いに遠慮しながらも、廊下を歩く距離は近付いた。この噂が広がり、ゼドの元に独り身の隊員や隊員以外も多く集まるようになるのは別の話である。訓練の時に私の急所をやけに狙うのは、私のせいではないと願いたい。

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