第一部外伝
守護狼、銀狼 ギール・シェベル
遙か遠くの山々は白く積もっていた。ギールがふと空を見上げれば、小さな雪が降り始めていた。手に舞い降りてもすぐに消え、水滴となった。だが、息も白くなり、ギールは急いで両手をコートのポケットに隠した。手袋を付け忘れたのは失敗だった。幾らコートに耳を収納しようとしても、少し歩けばすぐに風に当たった。
「寒っ」
と、ギールは体を縮めながら、呟いた。
夏になれば冬が好きになるのに、冬になれば夏が恋しくなった。常に矛盾していたが、ギールは寒いのが嫌いだと身に染みて理解した。これならもう少し後に外出するべきだった。まだ朝が早く太陽も余り出ていなかった。わざわざ眠い体を鞭打つ必要などなかった。だが、一度決意すると最後までやり遂げないと気が済まなかった。つくづく損をしている、とギールは溜め息をした。更に体の熱が外に出るだけで、何の解決にもなっていなかった。
ギールは寒さから気を紛らわすために、その場で足踏みをした。ふと辺りを見れば、どの店先や家の窓にもある彫刻が飾られていた。セイン・シルヴィスを表す銀狼。それは今や幸せの象徴であり、人々の守護狼となっていた。銀狼がいてくれるから、店や家の安全を守り、幸せを運んでくれるのだった。迷信であるかもしれないとしても、人々はそれを深く信じるほど英雄銀狼への思いがあった。街のどこを見ても銀狼が座っており、ギールは微笑ましかった。大きさも一匹一匹異なり、手彫りの物は何とも味が出ていた。多少不格好だとしても、不器用ながらに頑張ったのだとその思いを垣間見れた。
「……すっかり人気者になりましたね、隊長」
折角なら生きている内に見せたかった光景だった。何も格好付ける必要はなかったのに、それほどセインはゼドを愛していた。なら、ギールが口出すことではなかった。自分もあの時咄嗟にセインを守ろうと、動くことが出来なかった。格好良い死に方をされるとは、どうしても堪らなくなるのだった。そんなことをせずに二人で最後まで、生き延びる方法を見つけることが出来ていれば。ゼドが悲しむことはなく、セインが辛い決断をする必要がなかった。だが、全てはもう終わったことだった。今更後悔してもどうしようもないのだった。ギールは零れそうな涙をぐっと我慢すると、前を向くことにした。セインとゼド。その二人がいたお陰で今の平和な世界になれたと言えた。二人のお陰で窮屈な世界でなくなり、多くの者が幸せになれた。
雑貨店の窓には店番のように二匹の狼が置かれていた。片方は銀色の狼で、もう片方は黒色の狼。どちらも首元に赤いリボンが結ばれていた。どうしても愛する者のために散った、英雄銀狼のイメージが強い。だが、一方でその銀狼のために銀狼隊を率いた活動した黒狼、ゼド・クロスネフも多くの人気を集めていた。そこの店主は二人のことを考えて、わざわざ二匹を並べてくれているようだった。
「ぎんろうしゃまだ」
と、子供が目を輝かせながら、窓に張り付いていた。
二匹をじっと眺める我が子を、母親は微笑ましそうに眺めていた。子供の側に近付くと、銀狼の方を指差した。
「この銀狼様はね、国の英雄なの。戦争を終わらせたカッコいい軍人さん。大好きな黒狼様をね、命をかけて守ったの」
母親は今度は黒狼の方を指差した。子供は嬉しそうに笑いながら、母親の言葉を反復した。
「えいゆう、えいゆう。ぐんじんさん」
子供は振り返ると、母親の方を見た。
「ぼくも、おかあちゃんまもる。ぼく、まもる」
母親は感激したように子供の頭を優しく撫でた。
「ありがとう。誇れる大人になってね」
「うん。ぼく、なる」
と、子供が頷くと、母親は子供の手を取って歩き出した。
二人が見えなくなるまで、ギールはその背後を眺めていた。いつまでも見続けたくなる温かい瞬間だった。一人だけではなく、銀狼隊の全員が一緒に楽しむべき瞬間だった。そのような瞬間を見ると、ギールは全てが間違っていなかったのだと思えた。報われたかのように、冷えた体が温まった。それは何よりも温かった。
ギールは目をそっと閉じると、セインがいずれ来るであろう危機のために遺書を書いていた時を思い出した。セインは発熱し、体調が悪いと言うのに休むことを拒んだ。今ある時間に書かないと、後から後悔すると思っていたのかもしれない。だが、幸せの日々を送る中で書く遺書ほど辛いものはない。ギールでさえ横で見るだけでも辛かった。
ふとセインの様子を見れば、手が止まり肩が震えていた。遺書を濡らさないように耐えても、完全に耐え切ることは出来ないようだった。ギールはその背中を見続けることしか出来なかった。今のセインを部外者の自分が、邪魔をするべきではないからだった。書きたい所まで書かせ、早く眠ってくれることを祈るばかりだった。次の日までに治さないとゼドにバレてしまう。それをセインは絶対にしたくない。ゼドを困らせるのは何よりも禁忌だった。無理をしてでも、笑みを浮かべ続けるだろう。それも最期まで。どこまでも不器用で、ゼドのことだけを何よりも愛していた。だから、きっとセインは結末に安堵しているのだった。
小さく息を漏らすと、ギールは目を開けた。前に進むかと思った時に、犬の鳴き声が後ろからした。ギールが振り向くと狼のように大きい黒い犬がいた。目はセインと似た黄金色のようだった。ゆっくり近付くと頭を撫でた。嬉しそうに音を出すと腹を見せるので、ギールは気付けば両手で触っていた。ぬいぐるみのようにもふもふで、ギールはその魅力に吸い付かれていた。これほど動物は可愛いとは知らなかった。
「あの大きな犬も、これくらいお利口であれば良いのですが……」
と、不機嫌そうな黒狼を思い出し、笑みを浮かべた。
だが、あの黒狼が自分にそのような姿をするのは、極めて合っていなかった。それに恋人の許しを得てはいなかった。
「何だ、ギール? お前は犬にも発情するのか?」
真横でゼドの囁きがし、ギールは飛び跳ねそうになった。地獄耳なのだろうか。何故今このタイミングに、わざわざ現れるのだろうか。ギールは先程のことを聞かれていないことを願った。
「寝ていなくて大丈夫なのですか、副隊長?」
ゼドはギールをジト目で見た。やはり自分にはこの顔しかしない、とギールは思った。まぁ、笑顔を求めている訳ではなく、楽しく人生を送られているのならそれで良かった。
「何だ? 寝ていて欲しかったような言い方だな、ギール」
「いやぁ、違いますよ。普段なら寝ているなぁ、と思っただけで。外出が珍しく思っただけで」
と、誤魔化すようにギールは笑みを浮かべた。
「その作り笑いを止めろ。それに俺はいつも寝ている訳ではないぞ。出不精でもない。お前が出て行った後に出て行き、帰る前に先に着くからだ。朝が苦手なのは最近知ったことだ。ここでは気にせず眠れるからな」
戦場とは異なるから、とギールは心の中で付け加えた。戦場から離れ、仲間だけが周りにいれば安らかに眠ることが出来るのだった。今では隊内で誰が副隊長を起こすか、強奪戦になっているようだった。全隊員から愛される副隊長とは心温まるストーリーだ。
「それはそれは失礼を。で、どのような理由で外出を?」
「生活必需品などだ。お前とは付き合うつもりはない。犬を飼いたいのなら、基地に聞け」
と、ゼドはギールの顔を見ることなく、歩いて行った。
ゼドが片手を上げるのを見て、ギールは呟いた。
「優しい所があるのに、わざわざそれを正直に言わないとは……。恥ずかしがり屋のようで」
幼い頃から罵詈雑言を言われ続けたゼドは、息を吐くように暴言を言えた。本気ではないと誰もが分かるので、特に気にしなかった。それに本当は普通に話せることを、演説でゼドは証明してしまっていた。
「さて、たまには隊員を労うためのご褒美でも買いますか。付いてきますか?」
と、ギールが言うと犬は音を出さずに鳴いた。
「本当にお利口さんのようで」
ギールはそう呟くと、犬を連れながら買い物に行った。買い物に連れ添ってくれた犬のために、ギールは美味しい物を買うのを忘れなかった。犬が銀狼隊のマスコットになったのは、言うまでもなかった。
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