#001.致死量の自由 その1

 「さみしーな」

寝床にしている路地裏でその男、三木 天蓼みけ てんりょうは呟いた。腹が減った時、天蓼は必ずこの言葉を使う。初めはこの言葉が誰かに届くことを心から祈っていた。しかし天蓼が思春期に差し掛かかった頃、その声の届く範囲にいる人間が皆、水面に映る自分と同じ目をしていることを知った。


 天蓼は孤独だった。天蓼がまだ幼いころに仕事へ向かった両親は未だ帰らず、同じ目をした隣人たちもいつからか見なくなった。愛を知らず、快楽も知らず、それゆえに生への執着も死への恐怖も知らなかった。ただ、満たされない『何か』の一端が寂しさであることは知っていた。ただ日が昇り、沈むまでの間にどれだけの食料にありつけるかが日常だった。今日も腹は満たされず、両親が帰宅することもなかった。

 

 天蓼が生きる理由はたった一つ、復讐のためであった。自分を捨てた親に。同じ目をした隣人に。逃げられた鳥に。そしてこの世界に。だからこそ今も家の傍に身を置き、死ぬこともなく、ただ生きている。そして今日までは、孤独だった。


 「ふう、疲れた。随分と面倒な世の中になっちゃったみたいね...」猫がどこからか現れた。黒い毛に覆われ、その瞳には琥珀のような輝きが宿っていいる。微かに艶の残る尾を振り、座り込んだ。

「あ」

その足許には先ほど天蓼が逃がした鳥が転がっている。地面に横たえられた鳥は足を投げ出し、情けなく開いたくちばしから舌を覗かせている。

「ん?キミの分は無いからね。ホラ、どっかいった。しっしっ」


「それオレのだ」天蓼は真っすぐに鳥を見つめている。

「あらま、言葉は分かるんだね。じゃあ分かるでしょ、これはキミのじゃない。どこへも行かないのなら失礼するよ。ボク疲れてるんだ」猫が再び鳥を咥える。天蓼は立ち上がり、姿勢を低める。

「わぁ、凄い殺気。まるで獣だね。だからかな。キミ、そこさえ塞げればボクが逃げられないと思ってるでしょ。こっち側...」猫が辺りを見渡して、水路だし、と付け加える。天蓼は構うことなく、じりじりと猫に迫る。二体の距離、即ち二つの命の距離は、すでに天蓼の歩幅で三歩足らずとなっている。


 一瞬の静寂。先に動いたのは天蓼だった。天蓼はあと一歩前へ進めば手が届くであろう距離で、大きく右に跳んだ。天蓼の住み着いている場所は建物と水路に囲まれており、上から見ると斧や旗のような形になっている。天蓼はまず唯一の出入り口を塞ぎ、ゆっくりと猫に歩み寄った。しかし、今まさに襲い掛かろうかという瞬間に、天蓼はその出口を自ら譲ったのだ。


(コイツっ、馬鹿なのか!?まあ、ボクならこの水路くらい簡単に超えられるけど?今は余計な体力を使うわけにもいかないし、この鳥もいるし。だからと言ってこのボクが負けるはずがないね、こんな薄汚いガキんちょに。もしも挑発が目的なんだったら喜んで乗ってやるよ...生物としてどちらが上かというものを決定的に刻み付けてやる)


「もしかして...諦めたの?ボクが疲れてるから?ありがと。キミも早くご飯食べられると良いね」猫はちらりと天蓼を見、出口へ向かう。


「あァ...じゃあな」天蓼は落ち着いている。


(待てよ...このガキ、何かニオうな。なぜ?あの時、なぜ普通に足を出さなかった?何かを避けたのか?)猫が通路に目を凝らす。天蓼はただじっとその様子を見ている。


(はッ!これはッ!)通路には夥しい数の画鋲が敷かれていた。天蓼が水路側に回り込む。

「ふん、クソガキめ...猫だからってなめるなよ...」猫は一度大きく息を吸い込み、力強く地面を蹴った。

「ははッ!見たか!この程度の通路なぞ壁を走れば問題ないんだよ!!」


「さっき避けたのは...その鳥の魂が通ったからだ。お前のためじゃない、薄汚い泥棒猫め」


「何言ってんだこのウスノロがァ!お前が馬鹿だから退いたんだよ!このボクの邪魔をしなかったことだけは褒めてやる!!じゃあな...ん?」


 パキっ、ピシシシ、ボガァン!












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