第36話 エピローグ

 春の風が東京に吹いて、夏樹の鼻をくすぐる。

 この街に体ごと馴染むのにはまだ少しかかりそうだが、心のほうは上京したばかりの頃より軽やかだ。特に今日は記念すべき日だから、スキップでもしてしまいそうなくらいに。


 目的地への道すがら、書店に立ち寄る。目当てのメンズファッション雑誌を手に取り、表紙にある文字を指で辿る。


『new! 南夏樹』


 この雑誌の専属モデルに決定したのは、新年を迎えてすぐの頃だった。興奮した様子の前田から電話で報告を受けた時は、感極まって号泣してしまった。

 沢山レッスン受けて現場でもきちんと挨拶したり、努力が実ったね――

 前田がかけてくれた言葉をお守りに、ずっと応援してくれている柊吾、晴人や尊、地元の友人たちのことを胸に臨んだ専属としての初仕事がこの一冊に詰まっている。まだまだ駆け出しでほんの数カットではあるが、一生の宝物にするつもりだ。


 会計を済ませ、向かう先は事務所だ。スタッフたちに今日も大きな声で挨拶をし、早川の元へと進む。おはようございます! と下げかけた頭を、けれど夏樹は途切れてしまった挨拶と一緒に途中で止めてしまった。あんぐりと開いた口を閉じることが出来ない。


「しゃ、社長! これ! え!?」

「はは、いいでしょ。柊吾に無理言ってデータもらってね、引き伸ばしてみたんだ」

「うわあ……」


 早川のデスクの真横に貼られた大きなポスター。モノクロで印刷されたそこには夏樹と、それから柊吾の姿が写し出されている。昨年の十二月に撮影した、naturallyのカタログのカットだ。

 柊吾の顔が見えないギリギリの角度、頬にキスをしている――ように見せかけた――ふたりのピアスが共に煌めいて、よく映えている。


「めっちゃかっこいい……オレもこれ欲しかぁ」

「そう言うと思って、南くんの分も作ったよ。はい」

「え!? マジっすか! 社長マジ神……うう、ありがとうございます!」


 naturallyのカタログの写真を夏樹が見るのは、これが初めてだ。丸められたポスターを丁寧に受け取り、デスク横の同じものを改めて眺める。撮影の日のことはもう何度も思い返しているが、こうして形になったところを見ると更に感慨深いものがある。


「あとこっちも忘れずにね。メインのカタログ」

「わ、ありがとうございます!」

「ホームページは今日の夕方に更新されるそうだ。イメージを見せてもらったけど、トップに南くんの写真が配置されてたよ。カタログも時間を合わせて店頭に置き始めるそうだ」

「うわー、めっちゃ嬉しいっす。泣きそう……」

「南くんの専属デビューとnaturallyのカタログ解禁が同じ日になるなんてね。偶然とはいえ、これは必ず南くんにもnaturallyにもメリットが生まれる。どちらも話題性があるからね。最高のかたちになったよ」

「はい。なんかこう、背筋が伸びる感じがします」

「ああ、そうだね。改めておめでとう、南くん。私も心から嬉しいよ。これからがまた勝負の連続だ、頑張ってね。応援してるよ」

「はいっす!」


 ソファに座るように促され、淹れてもらったコーヒーを甘くして飲む。夏樹が雑誌を持っていることに気づいた早川は、事務所にも届くのにと笑った。記念の一冊なので、と夏樹が言うと、柊吾と晴人も同じことをしていそうだ、なんて言ってくれた。


「柊吾と言えば、まさかまたカメラの前に立つとは思わなかったよ。何度誘っても二度とやらないって言ってたのにね」

「オレも実はもうやらないんですかって聞いたことあるんすけど、同じこと言われました。でもカタログは相手役のモデルが見つからなかったんすよね。嫌なのに体張ってすげーって思いました」

「……アイツがそう言ったのかい?」

「…………? はい。撮影の時にそう聞きました」

「へえ……南くん。こっち」


 早川に手招かれ、夏樹は素直に顔を寄せる。すると驚きの事実が耳打ちされ、夏樹はつい大声をあげてしまった。スタッフの人たちが何事かとこちらを見て、慌てて口を手で押さえる。


「え、マジっすか?」

「マジだよ。はは、何隠してんだか」

「オレ聞いてよかったんすかね」

「いいんだよ。モデル事務所社長の誘いを断り続けたんだから、このくらいのことは大目に見てもらわないと」


 どこか少年のように笑う早川に夏樹も笑い返し、だがその実、心の中は大騒ぎの状態だ。

 今すぐ柊吾に会いたい、早くあのマンションへ帰りたい。だが今日はまだやることがあると、ぐっと堪える。

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