第35話 ロードスターは恋をする3

 浴室を出た夏樹は、一旦自室に寄って柊吾の部屋の前に立つ。緊張感は拭えない。バクバクとうるさい心臓に逆らうように、勢いまかせにノックをして入室する。


 ベッドに座る柊吾の前に立つと、抱きしめられ額を肩に摺り寄せられた。


「……柊吾さん?」

「夏樹はさ、俺にかっこいいって言ってくれるけど、夏樹のほうが何倍もかっこいいよ」

「へ……そんなことは」

「あるよ。まっすぐなところ。……夏樹のこと、最初から可愛いと思ってて、今思えば好きにならないように必死にセーブしてたんだけど……あのクラブで会って叱られた時、ああもう無理だなって思った。好きにならないのは無理だ、って。かっこいいよ、夏樹は」

「いや、え……なんかすごい、恥ずかしい……」


 無理はしないで欲しいと言う柊吾に、夏樹は最後までして欲しいとねだった。柊吾は優しいばかりで、涙が出るほど幸せな時間だった。




 目が覚めると、カーテンの向こうは既に明るくなり始めていた。冬の朝なのにあたたかいのは、柊吾と共に眠ったからだ。仰向けの体には柊吾が抱きついていて、夏樹の肩口にすり寄るようにして今もよく眠っている。


「うわー、幸せすぎる……」


 昨夜、柊吾と気持ちが重なって恋人になった。体を重ねた後は共に風呂に入って。自室に戻るべきかと迷った夏樹を、柊吾が有無を言わさずこの部屋に引きこんだ。

 甘えんぼですね、とつい言ったら、『俺も思った、びっくりだよな。引いた?』と心配そうに問われてしまった。 そんなはずがない、いつも優しくしてくれる人を自分も甘やかせると思うと、こんなに嬉しいことはない。素直にそう伝えると、俺は宇宙一幸せ者だなと笑ってくれた。


「オレも宇宙一幸せっすよ」


 眠っている柊吾の髪をそっと梳くと、指の間を金色が流れる。夏樹にとっての流れ星で、北極星。ずっといつまでもまばゆいのだろうと感じながら、そっと腕の中を抜け出す。


 こんな風に迎えた朝、柊吾のためにコーヒーを淹れられるようになりたい。でも今はそれは叶わないから、ティーパックの紅茶でも作ってみようか。柊吾が起きたらコーヒーのことを話してみよう。


 そうと決まればとベッドを下り、扉へ向かいかけたところで夏樹はふと足を止める。初めてこの部屋に入った時も見た、壁にたくさん貼られたデザイン画が目に入ったからだ。あの時は、デザイナーの人から預かっているのだろうかとか、そんな風に思ったのを覚えている。

 だがnaturallyのデザイナーは柊吾自身だった。指輪にピアス、バングル……数々のアクセサリーたちが柊吾から生まれたのだと思うと、より一層宝物のように思える。


「夏樹」

「わっ」


 どれくらい見入っていただろうか。背後から柊吾に抱きしめられてつい驚いてしまった。足音に全く気がつかなかった。


「隣にいないから夢だったかと思って焦った」

「夢じゃないですよ。夢みたいに幸せですけど」

「ん、俺も。デザイン画見てたのか?」

「あ、はい。勝手にすみません。すげーかっこいいっすね、これ全部柊吾さんが描いたんすよね」

「うん」

「すげー……あの、柊吾さん」

「ん?」


 デザイン画たちには全て、コンセプトだとか表現したいものが文字でも書きこまれている。それらを見ていると、ひとつの欲求が夏樹の中に芽生えていた。


「昨日もらったこの指輪も、こういうデザイン画ってあるんすか?」

「うん、ある」

「っ、見たい」

「分かった。待ってて」


 すぐに頷いてくれた柊吾は、夏樹を抱えてチェアに腰を下ろす。昨日のリュックを開け、ふにゃくまをデスクに丁寧に置き、それから出てきたのは小ぶりなスケッチブックだ。

 開かれたページには、夏樹の手に光る指輪とそっくりのデザインが描かれている。左上にはタイトルのように“Natsuki”と記され、指輪のねじれた部分は“N”を表現していることが記されている。


「ここんとこ、オレのイニシャルだったんだ……」

「うん」

「泣きそう」

「はは、泣いたら拭いたげるし、どうぞ」

「うう……これ、いつデザインしたんすか」

「工房に行く電車の中だな。何回も描き直した」


 柊吾の言う通り、スケッチブックはところどころ黒くなっていて、何度も消しゴムをかけては描いたのだとよく分かった。イラストの部分を食い入るように見つめ、次に右下のメモの部分に目を向ける。

 “lodestar”と書いて、丸で囲ってある。


「ロードスター?」

「ああ、ロードスターは北極星のことだ」

「っ、北極星?」

「北極星ってさ、いつも同じ場所にあるから、旅人の目印になったりするだろ。俺にとっての夏樹はそういう、道しるべみたいなものだから。デザイン画には書きこめてないけど……ほら、ここに星マーク彫ってある」


 夏樹の指で光るそれを引き抜き、柊吾は内側に秘められた北極星を教えてくれた。Nを表すねじれデザインの裏側に、星印が刻まれている。


「すげー……しゅ、柊吾さん! あの、オレも!」

「ん?」

「オレ、柊吾さんが載ってる雑誌見た時、流れ星が落っこちてきたみたいだって思って、そんくらい衝撃的で。実際逢ったら中身までかっこよくて、優しくて……柊吾さんと並んでも恥ずかしくないくらい、オレもかっこいい男になりたいって思うようになって。そしたら晴人さんが、夏樹にとって柊吾は北極星だねって」

「……マジか」


 晴人にそう例えてもらったことを夏樹は大切に想っていた。夏樹にとって柊吾は、流れ星であり北極星。柊吾の存在がより強く輝きをもった気がしたのだ。

 それと同じことを柊吾も自分に感じているなんて、奇跡じゃなかったら何だというのだろう。


「でもなんでオレが柊吾さんの道しるべ? オレ何もしとらん……」

「そんなことない、俺は夏樹に色んなことを教えられてる。叱られたのもそうだし、恋愛はふたりでするものって言ってたのもかなり効いた。誰かを好きになったこともないのに、ひとりで勝手に夢見て、勝手に幻滅して……そういう情けないところがあったから。夏樹は俺のロードスターだ」

「うう、柊吾さん……」

「でも流れ星もいいな。俺にとっても、夏樹を初めて見た時そういう感覚あったかも」

「ええ、マジっすか? 全然そんな感じせんかったですけど。むしろオレがぐいぐい行っちゃって、困ってたっつうか……」

「ああ、オレが初めて夏樹を見たの、ここで会った時じゃないし」

「え……え!? どういう意味っすか!?」


 柊吾の腕の中で振り返り、両肩を掴んで前のめりになると、柊吾は薄らと頬を染め夏樹を膝から下ろしてしまった。ざっくりと編まれたカーディガンを夏樹に羽織らせ、部屋から出てしまう。


「コーヒーでも飲むか。夏樹は? 紅茶にする?」

「オレも柊吾さんと同じやつ飲んでみたい……って柊吾さん! さっきの教えてよぉ!」


 冷たい廊下につま先を躍らせながら、キッチンへ向かう恋人を追いかける。コーヒーの淹れ方を教わるのは、今日はおあずけだ。


「恥ずかしいから言いたくないかも」

「いやいや無理無理! 教えてくれるまでオレ一生しつこくしますよ!?」

「マジか……んー。え、本当に聞きたい?」

「本当に聞きたい!」

「……夏樹が事務所に送った写真、あるじゃん」

「はい」

「naturallyのことで事務所行った時にたまたま見てさ」

「え!?」

「あ、naturallyのことでってのは、早川社長の出資でブランド立ち上げられたからさ。たまに経営のことで相談に行ったりしてて。そんで、なんつうか……夏樹の写真にすげー惹かれて。この子いいな、って言ったら、じゃあ入れるって社長が即決してた」

「ええ~……オレ、腰抜けそう」


 柊吾は紛うことなく夏樹にとって道しるべだ。柊吾がいたから今の自分がある。

 だがまさか、事務所への所属も柊吾が一役買っていた――憧れの男に見出されていた、なんて。そんな運命みたいなことが起きていたとは、考えてもみなかった。


 あまりのことに夏樹は目を丸くし、本当に体から力が抜け始めた。だが柊吾が片手で抱き止め、夏樹を見下ろしながらこう言う。


「な? 夏樹も流れ星みたいだろ」

「……っ!」


 その笑顔は星が舞ったように眩しくて、夏樹はいよいよ目眩を覚える。キラキラ、パチパチ、例えるならばそんな音で今も夏樹に降ってくるのだ、柊吾の光が。

 流れ星は一瞬だけれど、何度だって夏樹に落ちてくる。そのひとつひとつが夏樹の胸の真ん中で、ロードスターとして輝く。


 自分のことも同じ星に例えてくれる柊吾に、果たして同じだけのものを見せられるのか。自信はないけれど、確信できることはある。そうあれるようにいつまでもどこまでも、走り続けられる。そう思える力を柊吾が与えてくれるから。


「柊吾さん!」

「んー?」

「大好き!」

「っ、ん……俺も」

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