第32話 流れ星の落ちるところ4
まだ自分しかいないのだから、始めることは出来ないだろう。夏樹は首を傾げたのだが、照明が変わり、ヘアメイクの人が寄ってきて前髪を調整される。そしてその手は柊吾の髪にも伸びた。それを柊吾は意にも介さず、着ているシャツのボタンを外し、上半身裸になってしまう。
「え? ……椎名さん?」
「びっくりだよな。でもこの役は……夏樹の恋人役は、俺がやらせてもらう」
「っ、嘘……」
目の前の光景が示すのは、このカタログで表現する男同士の恋人たち、その主役である夏樹の相手役が柊吾だ、ということだ。理解が追いつかず、だが驚いた心は涙を勝手に浮かべ始める。
憧れ続けた男は、もう二度とモデルをやるつもりはないと言っていた。いつか共演出来たら、と描いた夏樹の夢は、夜空へと消えていった。そのはずだったのに。
まさかこんなかたちで叶うとは、それこそ夢にも思わなかったのだ。メイクをしているから駄目だと分かっているのに、涙が頬を伝ってしまう。慌てて拭おうとすると、カメラマンが声を張り上げた。
「南くんそのまま! そのままでこっち見て」
「え?」
「そう、椎名くんの肩越しに目線ちょうだい。いいよね、椎名くん」
「はい、続けてください」
今回の撮影のコンセプトが自然体だということを思い出す。泣いてしまうだなんて想定はされていなかっただろうが、これも自然体のひとつと捉えられたということだ。慌てて指示通りに目線を向け、途絶えることのないシャッター音の中で柊吾に問う。
「椎名さん、もう絶対モデルはしないって言ってたのに……えっと、なんで?」
「それは……俺のモデル姿また見たかったんだろ? 特等席じゃん」
「そ、そうだけど! はぐらかさんでよ」
「はは、そうだな。あー……顔出しなしでも引き受けてくれるモデルが見つからなくて? 写っても後ろ姿とか、せいぜい背後からの輪郭くらいだけだから。じゃあ俺がやろうかなって。まあその程度でも二度とやらないつもりだったけど……この一瞬くらい、夏樹が教えてくれた俺と共演って夢に乗っかってみようと思った」
「椎名さん……」
一旦カットがかかり、涙を流しているシーンはここまでということになった。慌ただしくメイクを直しヘアセットも少し変えて、次のカットへと移る。
「じゃあ南くん、次は椎名くんの背中に腕回してみて。バングルがこっちに見えるように。そう、いいね」
柊吾とカメラの前に立っている。その現実に浸る間もなく撮影は進んでいく。カメラマンの指示に必死に、だが自然に見えるようにと苦心しながらポーズをとる。
「椎名さん、あの」
「……柊吾」
「え?」
「俺たちは今恋人って設定だろ。名前で呼んでみてよ」
「へ……いや無理、オレ爆発する!」
「はは、でも呼んでほしい。夏樹」
「あ……」
タイミングがいいのか悪いのか、ふたりともピアスが見えるように頬のラインをギリギリ見せてほしい、との指示が柊吾に入った。それを聞いた柊吾は、夏樹の顎に手を添え、夏樹の頬にキスをするふりで指示に応えていく。例えポーズでくちびるは当たっていないとしても、夏樹には刺激が強かった。思わず声が漏れると、その表情もいいね、本当に恋人みたいだと煽てられ、シャッターが切られていく。
「椎名さん、これ」
「柊吾」
「っ、柊吾、さん……これ、やばい」
「ん……俺もやばい」
撮影が進むにつれ、夏樹の中にあった緊張や驚き、柊吾と密着することへの恥じらいは徐々になくなっていった。
なんせ夢が叶っている真っ最中だ。夏樹はもちろん、柊吾やカメラマンを始めここにいる全員が共鳴するような、最高潮のボルテージ。こちらを睨むように、とのディレクションの際には柊吾を誰にも譲りたくないという想いで睨み、ヒートアップして柊吾の肩に齧りついた。
指を絡めて指輪の美しさを際立たせたり、ネックレスがぶつかるくらいの距離を横から撮影したり。クライマックスは、角度を工夫してキスをしているように見えるアングルを求められる。カメラの前に立つひとりのモデルである夏樹には、戸惑いは一切ない。スタッフたちが、感嘆の息を漏らしているのが分かる。柊吾さん、と名を呼び、夏樹、と返ってくる自分の名に酔いしれて――
カット! とのカメラマンの大きな声で撮影が全て終了したところで、夏樹はハッと我に返る。
「南くん! すごくよかったよ!」
スタッフたちが夏樹へと大歓声を送る。撮影は大成功で終えられたようだ。安堵したのと同時に息が上がり、それを整えながら目の前の柊吾へと視線を移す。撮影は終わったのだから、離れなければ。そう思うのに、興奮しきっている体は言うことを聞いてくれそうになかった。
「柊吾さん、あの」
「夏樹、こっち」
「へ……あっ」
ローブと服を引っ掴んだ柊吾は、夏樹の腕を取りスタッフたちに着替えてきますと声を掛ける。この後は別のペアでの撮影が予定されているようで、既にその準備を始めているスタッフたちはふたりのことなど気にも止めない。
柊吾が足早に向かったのは楽屋だった。中に入ると、扉が荒々しく閉められる。
「っ、柊吾さん」
「夏樹……」
うわ言のように夏樹の名を呼びながら、柊吾は夏樹を扉のすぐ横の壁に囲った。大きな体、長い腕。閉じこめられたその中で肩にぐりぐりと額を擦りつけられ、聞こえてくるのは柊吾の呼吸と自分の名前だけで。もう隠してなんていられなかった。
「柊吾さん、キスしたい」
「っ、夏樹……」
「さっき出来んくて寂しかった、オレ……んっ」
押しつけられるような荒っぽいキス。その一度で離れようとした柊吾を、今度は夏樹が逃さない。首を引き寄せて夏樹からもキスをすると、もうそこからはお互いに止められなかった。
興奮したままの体、絡む舌の熱さはあの夏の夜以上で。
このまま好きだと言えたらどんなに幸せだろう。受け入れてもらえると、このキスに期待をしてもいいだろうか。
顎を引き、離れたくちびるにそれでも舌先は甘えたがって。どうにか空けたすき間で、柊吾の名前を呼んでみる。
「柊吾、さん。オレ……」
「ん?」
「あの、柊吾さんのこと……好き……んんっ!?」
「……ごめん、夏樹。それは待っ……」
想いを伝えようとした口を、慌てた様子の柊吾に手で塞がれてしまった。そして続くのは、残酷な“ごめん”だった。
なんだ、自分だけだったのか。そうか、そうだよな。
夏樹はどん底まで一気に落ちかけ、だがまだ途切れてはいなかった柊吾の言葉を、乾いたノック音が遮る。こんなところを見られてはまずい。慌てて距離を取り、柊吾が返事をする。
「はい」
「あ、椎名さんこちらにいらっしゃったんですね。次の撮影の件で確認があるのですが……」
「すみません、すぐ行きます」
柊吾に用があったようだが、扉越しで伝えられたことに夏樹は安堵した。ふたりして服を羽織ることすら忘れていたからだ。
柊吾の返事にスタッフは去り、静寂が訪れる。
「俺、今日一日撮影につきっきりの予定なんだ。そろそろ行かなきゃ」
「っす」
「……夏樹、さっきの」
「あー、あれは気にせんでください! オレはその、大丈夫なんで! ね、行ってください、しゅ……椎名さん」
「夏樹……」
「ほらほら、何て顔してんすか! 最高にかっこいいカタログ、作ってきてください!」
「……ああ、行ってくる」
縋れるものならそうしたいが、柊吾には今日をとことんやり切って欲しかったし、何より改めて“ごめん”と言われることが夏樹は恐ろしかった。
躊躇っている柊吾の背にシャツを羽織らせ、ぐいぐいと背中を押す。名残惜しそうにこちらを見て、大きな手が夏樹の頭の上へと翳される。だが撫でられることはなく、きゅっと握りこんでそのままスタジオへと戻っていった。
ひとり楽屋に残された夏樹は、ずるずると壁伝いに座りこむ。大きく開いた足の間で頭を抱え、出てくるのは深いため息だ。
本来なら今は、撮影を駆け抜けられた達成感だとか、反省点に課題を見つけるべき時間で。分かっている、分かっているのにどうしても頭の中は柊吾だらけだった。
叶うはずのなかった、柊吾と共演の夢が叶った。久しぶりに触れた熱、ずっとずっと柊吾の視界に自分はいて、役だとしてもあの時間だけはふたりは恋人同士だった。
どうしようもなく好きだ、溢れ続ける想いはもうこの体だけでは抱えていられなくて、弾けそうなくらいに。
好きすぎて呼吸すら忘れそうなくちびるを指で辿る。まだキスの感覚が残っていて、忘れないようにと下くちびるを口内に引きこみ、柊吾の跡を舌でなぞる。そうすれば、熱い吐息が腹の奥から零れ出た。
体がおかしくなるほど恋をしている、そんな恋を柊吾に捧げている。息もおぼつかないほどに苦しい。けれど柊吾を想うこそなのならば、この苦しみもまた幸せと呼ぶのだろうか。
どうにか息を整えて、いつのまにか流れていた涙を拭って。挨拶を終えて戻ってきた前田に絶賛されながら、夏樹はマンションへと戻った。
柊吾は何時ごろ帰ってくるだろう。きっと今日のことを褒めてくれる。その後は気まずい空気が流れて、そうしたら自分たちはどうなるのだろう。何事もなかったようにまた毎日を始めるのだろうか。それともきちんと振られて、失恋を抱えて生きていくことになるだろうか。
どちらに転んでも、受け入れられる自分でいられたらいい。不安はたくさんあるけれど、それでも日々の生活に柊吾がいることは変わらない、それだけが夏樹が心を保てる理由だった――だったのに。
柊吾はその夜も、また明くる日も、マンションに戻ることはなかった。
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