第25話 手は届かない
十月には秋のイメージがあるのに、まだまだ暑い日が続いている。それでも確実に移ろっていく季節と共に、夏樹にも変化が起きている。
晴人のバーターで、メンズファッション雑誌の撮影に初めて参加出来た。本当にささやかではあったが、スタッフに知ってもらえることが大切なのだと晴人も前田も言っていた。そうでなくとも全力で挑むつもりだったが、より一層集中することが出来た。
順調とはなかなか言い難いが、一歩を着実に進めたと思っている。
ただひとつ問題があるとすれば、柊吾のことだ。関係は良好だが、夏樹の心の中は大嵐が吹き荒れているのだ。
『気まずくなりたくない』と言ってくれた通り、柊吾は変わらず何かと気にかけてくれている。それを喜ぶべきだと思うのに、柊吾の変わらない笑顔に確かに安心するのに――自分とあんなことをしたところで意にも介さないのだと思うと、虚しさに叫び出したくなる。
気づいてしまった、冷蔵庫の前でそっと拭った涙の意味を。あの日は名前をつけられずにいた感情が、恋だったということを。知ってしまった柊吾の熱を、キスの味を忘れるなんて出来ない。
ただの同居人、世話係、憧れの人――その関係にはもう戻れない。
自分の気持ちを理解してからというもの、柊吾との出逢いは改めて煌めいた。だが今は、寂しさや苦しさがそれを凌駕している。憧れだけでいられた時のほうがよっぽど、まっすぐに好いていられた気がする。
「ありがとうございました」
アクセサリーを購入してくれた客を見送り、naturallyの店内へ戻る。平日の十五時過ぎ、客の姿はなく尊とふたりになった店内で、夏樹は小さくため息をついた。
「夏樹、なんかあった? 最近元気ない」
「あ……ごめんなさい、オレ暗かった? さっきのお客さん、嫌な思いしたかな」
「それは平気。嬉しそうに帰ってったじゃん。真っ先にそういうの気にするとこ、夏樹らしいな」
いくつかの指輪をショーケースの中に戻しながら、尊はそっと微笑んでくれた。口数が多いほうではないながら、いつだって夏樹に寄り添ってくれる。その優しさについ甘えたくなる。
「尊くん、オレ……好きな人、がいて」
「うん」
「……なんか色々、苦しくて」
綾乃と別れたことは、尊にも話してある。もう次の恋か、と思われても仕方がないと思ったが、すんなり頷いてくれたことに泣いてしまいそうだ。それでもどうにか絞り出したのは、何の相談にもなっていないものだった。
詳しく言えるわけがないのだ、その相手が尊もよく知る柊吾で、最近またセフレのところに行ってしまうのが辛いです――なんて。
夏の間、柊吾が夜に出掛けることはなくなっていたが、あの日――夏樹と触れ合って以降、また家を空ける日が出てきた。どこに行くのかなんて聞く気にはなれない。十中八九、セフレと会っているのだろうから。
柊吾がセフレなんて似合わないな、とモヤモヤしていた以前までとは訳が違う。好いた相手なのだ、行かないでと腕を掴んでしまいたい。だがそんな権利などあるはずない。恋心で夏樹の心境が変わったところで、そんなもの柊吾には関係ないのだ。
「恋ってさ、しんどいよな」
「え?」
「俺も色々悩んだし」
「尊くんも?」
「うん。でもそれも好きだからこそっつうか。苦しいのもセットって感じ?」
「苦しいのもセット……苦しいのもひっくるめて恋、ってこと?」
「だな」
尊には付き合って二年と少しになる彼氏がいること、その彼と一緒に暮らしたくて奮闘していること。来客が途絶えた店内で、尊はこっそり教えてくれた。見せてくれたロック画面には猫と一緒に彼氏が映っていて、それを眺める尊は今まで見たこともないような、柔らかな顔をしていた。
「夏樹も叶うといいな」
「うう、ありがとう……でも無理だよ」
「んー……俺はそうは思わないけど」
「へ……それってどういう」
尊の言っている意味が分からず問い返そうとした時、店の電話が鳴り始めた。尊が応対する間、ショーケースを磨いていようかと夏樹は思ったのだが。尊の口から柊吾の名前が出てきたことで、手はピタリと止まってしまう。
「椎名さんだった、今日は直帰するらしい」
「そうなんだ。出張だよね」
「うん。来年のカタログの打ち合わせって話だけど、追加で行くところが出来たらしい」
「へえ……カタログって椎名さんが担当してるんだっけ」
「いつもデザインは専門の業者に依頼してるけど、今回のは椎名さんが考えてるっぽい」
「椎名さんすげー」
カタログのデザインまで出来るなんて、と夏樹は感心する。それだけのセンスが柊吾にあって、naturallyのデザイナーや店長などからも信頼が厚いということだろう。憧れも恋の熱も増すばかりで、腫れぼったいため息が出る。
退勤まで顔を見られないのは寂しいが、家に帰れば会えるのだから平気だ。だが今夜だって、夕飯の後にいなくなってしまう可能性はある。そう思うと胸が詰まり、先ほどの尊の言葉を噛みしめる。
苦しいのも恋をしているから――尊のように笑える日は、自分には来ないだろうけれど。
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