第24話 まだ恋を知らない7
翌朝。
目を覚ました夏樹は、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。勢いよく起き上がり、辺りを見渡す。そうだ、ここは柊吾の部屋で、昨夜は柊吾と――そこまで思い出し、シーツを手繰り寄せ顔を埋める。
なんてことを言って、なんてことをしてしまったのか。思い出せば思い出すほど血液が体を駆け回り、恥ずかしさに居た堪れなくなる。叫び出したいのを必死に堪え、体を縮こめて。けれど後悔だけは一ミリもない自分に、夏樹はひとつ深呼吸をする。
恋人との終わりを迎えたその日に、別の人に体をさらけ出した。ふしだらだと自分でも思うけれど、幸せな時間だった。
柊吾はどうだろうか。しなければよかったと悔いてはいないだろうか。そう考えると居ても立っても居られず、ベッドから飛び降りる。リビングへと駆けこむとそこには求めていた人の姿があった。
「椎名さん!」
「おう、おはよ」
「へへ、おはようっす」
「朝ごはん、食べるよな?」
「あ、はい。さすがにお腹空きました」
「そりゃよかった。ちょっと待ってて」
変わらない笑顔に安堵を覚える。心配は無用のようだ。
そうだと分かれば今度は、照れくさい気持ちが生まれてくる。それでも「はい」と返事をしてから、リビングに全ての荷物を置きっぱなしにしていたことに気づく。今日はまだ熊本にいる予定だったから、バイトも入れていない。片づけは後程取り掛かるとして、でもこれだけはと空港で買い物をした紙バッグを引き寄せる。柊吾に渡したいものがあった。
「椎名さん! お土産渡してもいいっすか?」
「土産? マジ? よくあんな状態で買ってこれたな」
「あー、はは。だって椎名さんに会いたい一心だったから、忘れようもないっすよ」
晴人に頼まれていた酒のつまみをソファ前のローテーブルに置き、柊吾用の土産を持ってキッチンへ戻る。これっす! と勢いよく見せると、柊吾は目を丸くした。
「え、それ?」
「ふにゃくまっす! 椎名さん、前にいいじゃんって言ってくれたけん、絶対これだーって思って。ちなみにオレの分もあります!」
「はは、マジか。ぬいぐるみのキーホルダー?」
「っす! オレはスマホにつけようと思ってます」
「夏樹はいいけど、俺がつけてたらさすがにおかしくない?」
「えー? 別に平気っすよ! ふにゃくま可愛いし!」
「俺に“可愛い”は似合う気がしないけど……でもありがとな」
そう言って柊吾はふにゃくまを受け取り、とりあえず、とパンツのポケットに仕舞ってくれた。
朝食が出来たようで、ダイニングのチェアに腰を下ろすとプレートが出てきた。カットされたホットサンドからはハムとチーズが覗いていて、ゆでたまごとミニトマトのサラダ、オレンジジュース。数日ぶりの柊吾の手料理に、お腹がぎゅるぎゅるとそれを求める。
「いただきます!」
「どうぞ」
大きく出てしまった声を柊吾に笑われ、それを気恥ずかしく思いながらも食事の手は止まらない。まともに食べるのは昨日のランチぶりだ。ちゃんと美味しいと思える時間を柊吾と迎えられた。日常を過ごせることにほっとする。
穏やかな朝を噛みしめていると、柊吾がそうだ、と口を開いた。
本当に何気ない、まるで今日の天気でも確認するような口ぶりだったから、夏樹は何を言われているのかすぐには分からなかった。
「昨日のことだけど、ごめんな」
「……へ? ごめんって……何がっすか?」
「昨夜の、色々。大人なんだから俺が止めなきゃいけなかったのに、悪かった」
「…………」
どうして謝られているのだろう。幸せな夜だったと今の今まで思っていたし、求めたのは夏樹だ。柊吾にそんなことを言わせてしまったと、胸がざわつき始める。こみ上げそうな涙に苦しい喉を堪え、どうにか口を開く。
「え、っと、謝られる意味が分かんないっす。なんで? 謝るとしたら、それはオレのほうっすよね」
「ううん、俺だ」
「っ、なんで……」
「夏樹はさ、そういうのは好きな人同士でするもんだ、って言ってたじゃん。分かってんのにな……あー、ほら、俺もたまってたから? つい、な」
「…………」
「夏樹と気まずくなりたくないし、なかったことにしてくれると助かる」
柊吾の言葉に絶句し、頭が混乱し始める。以前夏樹が言ったことを柊吾は昨夜も気にしていた。ちゃんと覚えているし、好きな人同士がするものだと今もそう思っている。
だが昨夜、それを理由にやっぱりやめようという気にはなれなかった。つまり自分は、柊吾のことをそういう意味で好きなのだろうか。長年抱いた憧れは強く、今すぐここでそうだと判断するにはあまりに眩しい。
それに、だ。仮に自分がそうだとしても、柊吾も同じはずがない。恋愛に興味がないと言っていたし、現にたまっていたからつい、と今言われたばかりだ。
何事もなかったように収めるのが最善だ、そうしたいのだと柊吾は示しているのだろう。これからも、今まで通りの関係でいられるように。
「え、っと……分かりました! なかったことにっすね! 了解っす!」
「うん、ありがとな」
「でも……一個だけお願いがあります」
「ん?」
「椎名さんがそう言うなら、オレ謝らんときます。でも、椎名さんも謝らんでください。ちゃんとなかったことにする、するけどオレは、幸せだったから……謝ってほしくなかです」
「……うん、分かった」
「へへ、あざす! えーっと、オレ、ジュースのおかわり入れてくるっす! 椎名さんは?」
「じゃあ俺ももらおうかな」
「はーい!」
逃げるようにふたつのグラスを持ってキッチンへ行き、ダイニングへ背を向けて冷蔵庫を開ける。
大丈夫、大丈夫だ。この先気まずくならないようにと言ってくれたのだから、嫌われたわけではないはずだ。だから大丈夫だ。
紙パックから注いだら、丁度ふたり分でジュースは終わった。冷蔵庫の冷気で頬が冷えて、このジュースみたいに涙もこれっきりで終わらせることが出来る。バレないように拭ったら、いつものように笑うのだ。
「お待たせっす! 椎名さん今日仕事っすか?」
「うん、これ食べたら出るわ。夕飯何がいいか連絡して、それ作るから」
「オムライスがいいっす!」
「はは、もう決まったな」
「へへ、椎名さん特製の楽しみにしてるっす!」
大丈夫になりたい。大丈夫、そう出来る。夏樹はただただ、必死に願った。
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