第18話 まだ恋を知らない
「ありがとうございました!」
買い物を終えた客が外へ出て、その瞬間にnaturallyの店内へと熱気が逃げこんでくる。夏樹が九州の出身だと知るとあっちはもっと暑いでしょとよく言われるが、暑さの種類が根本的に違うなと感じている。夏樹の地元では常にじめりとした空気が肌に纏わりつき、東京はと言えば照りつける日射しがもはや痛いくらいだ。
八月となった東京は、今日も今日とて尋常ではない気温を叩きだしていて、柊吾からは口酸っぱく水分補給を怠らないようにと言われている。加えて、日焼け予防も徹底するようにとのお達しも出ていて、夏樹は熱心に日焼け止めを塗っている。
「尊くん、さっきのお客さん嬉しそうだったね」
「そうだな。気に入ってもらえるのがあってよかった」
初めて出勤した日、基本的に雑用だと言われた夏樹だが、なんだかんだで店頭にも顔を出している。そうなると客に声を掛けられるもので、自然とアクセサリーの知識もついてきた。
夏樹の教育係である尊は淡々としているが、大切なことを的確に教えてくれる。そんな尊が夏樹は好きだ。兄のようでありながら、上京してきて知り合った中でいちばん歳が近いのも相まって、友人のような気安さもある。
「夏樹は明日から地元だっけ」
「あ、うん」
「こっち出てきて初めて帰んだよな? 楽しみだろ」
「んー、まあね」
「…………? そうでもない感じ?」
「うーん、友だちとかに会えるのは嬉しいんだけど。なんか気まずいって言うか……あんまり仕事出来てないし」
六月に女性向けファッション雑誌の撮影に参加して以降、モデルの仕事は鳴かず飛ばずの状態だ。オーディションも受けているが、なかなか通らない。
「顔は整ってるし元気で華もあるが、色気が感じられない」とは、審査員たちによく言われる夏樹への評価だ。SNSでの女の子たちからのコメントにも通ずるものがある。
色気がないのは自分でも重々分かっているのだが、打破する術は未だ見つからない。この先モデルとしてやっていきたい夏樹にとって、大きな課題であることは間違いなさそうだ。
「夏樹の気持ちも分かる気がするけど。ダチってそんな簡単に呆れたりするもんでもないだろ」
「……ん、そうだよね」
「なんかあったら俺でよければ聞く。まあ俺はダチ少ないほうだから、アドバイスとかは無理だけど」
「うう、尊くん優しい! ありがとう! 大好き!」
「ふ、そりゃどうも」
出発の日の朝。
予約している飛行機の便は、昼過ぎに出発の予定だ。もう少しゆっくり寝ていてもよかったのだが、仕事に出る柊吾を見送りたくていつも通りの時間に起きた。
ちなみに晴人は来年出版予定の写真集の撮影で、二日前から海外ロケに出掛けている。真夏の日本を抜け出してのオーストラリアは快適だと、満面の笑顔の写真つきメッセージが昨夜送られてきた。
「椎名さん、今日からひとりっすね」
「そうだな」
「…………」
「…………? 夏樹? どうかしたか?」
晴人の帰国予定まで一週間以上あるし、夏樹は三泊してくる予定だ。夏樹が帰るまでこの家は柊吾だけになるわけだが、柊吾がひとりを寂しがるタイプにはあまり思えない。ただ、セフレの元へは行きやすいだろうな、なんて夏樹は考えてしまう。
最近の柊吾は、夜に出掛けなくなった。六月に夏樹が初のモデル仕事を叶えた日からだ。撮影を終えて帰った時、随分と考えこんでいるように見えたが、それほど悔いているのだろうか。
夏樹は申し訳なさを覚えたが、かと言って出掛ける先はセフレの元なのだと思うと、気にしないで行ってください! とは言えなかった。勝手な自分が嫌いで、それでも夜へ送り出す言葉はやはり口から出てこないでいる。
黙りこんでしまった自分を誤魔化すように、夏樹は玄関のほうへと椎名の背中を押す。
「なんでもないっす! 椎名さん、気をつけていってらっしゃい」
「それは俺の台詞だな。夏樹、気をつけて帰るんだぞ」
「はいっす!」
「忘れ物はなさそうか?」
「大丈夫っすよ、昨日ちゃんとチェックしたんで」
「偉いな。あ、今日もちゃんと日焼け止め塗れよ」
「はーい」
「あとは、熱中症にならないようにちゃんと水分とって……」
「はは、椎名さん心配症っすね」
「あー……はは、ほんとだな。まあお前の世話係だし」
「へへ、そうっすね」
柊吾はこう言うが、生活能力ゼロの晴人のためによく動いているし、naturallyで見ていても面倒見のいいことがよく分かる。いつも人のことを見ている、優しい人だ。
見た目でひとめぼれした男のそんなところにまで、今の夏樹は憧れている。こういう人になりたいといつも思っている。
「お土産買ってきますね」
「そんなの気にしなくていいから。楽しんでこいよ」
「でも晴人さんにはリクエスト貰ってるし」
「アイツ……」
「はは、でもオレ椎名さんにも買いたいんで。受け取ってもらえたら嬉しいっす」
「ん、分かった。じゃあそれも楽しみにしてる」
「それも?」
「夏樹が無事に帰ってくるのがいちばんだろ」
「うわ、椎名さんかっこよかあ……」
「はいはい。じゃあ行ってくる。戸締り頼むな」
夏樹の髪をかき混ぜるように撫でて、柊吾は仕事へと出掛けていった。今日だってうんざりするほど暑いのに、柊吾の周りだけ涼やかに見えるほど爽やかな姿だった。柊吾の耳を飾るピアスたちがキラキラと光っていた様が、夏樹に鮮やかな残像を残す。帰省へ抱く少しの不安も、何だか大丈夫に思えてくるから不思議だ。
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