③ 苦界にたゆたう――3

 紗仲は結界の境界線付近の山林を踏み分け、周囲を観察しながら歩き回った。


 結界こそはどうにか無事である。しかし自分の配置した草木の乱れや岩々の様子から、何者かがこの辺りを探っていることは明白であった。


 低木には人の踏み折った跡はある。しかし注目すべきはむしろ頭上の樹冠であった。編み込んだ枝葉は荒らされ、危うく視覚誤認の術法が解かれかねなかった。侵入者は草の根を分けて、根を掘り葉を掘り、探りを入れているのだろう。


 いや、それ自体は良い。既に分かっていることだ。いぶかしいのは、足元ではそれでもこちらに気付かれないようにしている節が見られるものの、頭上の乱れにはそうした気遣いが見られないことだ。


 それはつまり、どういうことか。


 侵入者はおそらく、地上に関しては自分自身で探っているが、上空の探索は自分の手では行っていない。眷属か何かを有しており、それにやらせているのだろう。


 これに想到した時、地表に落ちている鳥の羽が妙に多いと気が付いた。その一枚を拾い上げ、表裏を返してじっと見る。


 これは、鴉か。


 侵入者は鳥を使役する。他の鳥は知らないが、少なくとも鴉は使う。


 腕を組んで考えた。それから小さく頷くと、紗仲は自分の左腕に口を付け、そこの皮膚を噛み切った。


 滲み出る血液を口に含んで溜め込んで、腔内にいっぱいになると、舌でその血を混ぜるようにしながら呪言じゅごんを唱えた。


 そして近くの岩に向かって一念をもって細く長く吹き付けた。口先を微細に震わせ、首を動かし、そうして彼女は岩上に血潮で隼を描いた。


 その絵は繊細にして鮮明、生き生きとして岩の表面から浮かび上がって来るようだった。いや、それは事実、浮かび上がって来た。描画の技ついに神技に至ったか、絵に描いた隼は、一個の実体となって立ち現れた。


 血線で描かれた隼は、実在化すると大きく羽を羽搏かせ、空中へと飛び立った。長い鳴き声を響かせて、樹冠の向こうへ没して行った。


 紗仲はそれを見送った。


 数分後、彼女の目の前に血の塊が落下した。肉はない。血液だけだ。調べるまでもない、これは彼女の描いた隼のすえだった。


 やはり敵は鳥を使役している。それも紗仲が作り出したような架空の鳥ではなく、肉体を持つ本物の鳥だ。彼女の隼はその肉体の有無という力の差によって破れたのだ。


 この技を使ったことによって相手は自分がここにいると察しただろうか。


 紗仲は岩に腰掛けて、じっと待った。もしかしたら侵入者が近寄って来るかも知れない。直接、討つ。そうすべきだと判断した。


 だが待てども待てども侵入者はやって来なかった。


 どんな敵かは分からないが、用心深い。無駄な戦闘は避ける性格か。いや、ここは私のホームベースだ。出来ることなら避けたいところか。何にせよ思慮深い。


 それでもそれからも紗仲は待った。


 日は落ち、夜は更けた。


 彼女はそこで一晩を明かした。

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