③ 苦界にたゆたう――3

 午前の日は燦々さんさんとして、古びた駅舎、白む舗装路、深緑に猛る山々を色鮮やかに存在感を増さしめていた。船寄山駅の駅前広場には山おろしが吹き付けて、暑気を払っている。


 頭上に広がる青空は、あくまで高く、雲一つなく、向こうに見える山脈を超えて広がっている。連峰というほど大層なものではないが、それでも重なる山々の入り口となる青い山であれば感慨もひとしお。ここから遠くの山々を眺めれば、人々に娯楽を供しようとてえて駅を作ったのも然もあらんといった情景。


 その山脈の最も近くに山頂を見せているのが船寄山だ。かつては役小角えんのおづぬが登ったとの伝説もあるが、この地域の一部の人の口にしか上らぬし、文献もなければ、そもそも伝説の時期と生きていた時期とがあまりにも懸け離れているのだから、ただのデマ、近辺の住人がこの地この山に箔を付けようとして吹聴した法螺話の一つだろう。善意で解釈するならば、登ったのは役小角ではなく別の行者だったのを、伝言するうちに誤ってしまったか。


 もしも信頼するに足るほんの僅かな資料があるか、もしくは地域住民の中だけでも民話と呼べるほど広がっているのなら、復興事業に躍起になっている市役所が大々的に、みっともない看板を厭というほど立て散らかすに決まっているのだが、そうした俗臭芬々ふんぷんたる商業的な見苦しさはなく、心得のある者にとっては、例の話が俗説にもなっていないのが幸いだった。もっとも、市役所にとっては地域の自然物をマネタイズ出来ずに悔しいばかりであるのだが。


 さて――


 米彦が駅を出ると、そこには山口姉妹を除いた全員が、紗仲も含めて、既に集まっていた。和也は、


「お、今日はちゃんと来たな」と、彼をからかった。


「何だよ、今日は、って」


「だって、なあ」と光琉が言うのを、


「この間はすっぽかされちゃったし」と朱莉が同意する。それに続けて八重が、


「電車に乗ってから面倒臭くなって途中下車しただなんて。今日もそうならないかと紗仲ちゃんと心配してたところ」


 先日の天体観測に行けなかった理由を、彼はこのように誤魔化していた。ここで紗仲に出会ったということを何となく隠しておきたかったからだ。


 その彼女はと言えば、今、目の前で、小首を傾げ、くすっと目配せをした。普段と変わらぬ白いサマードレスに黒いベルト、首、手首にも同じ素材のものを巻いている。垂らした片手には彼女が友人達と初めて会った日に被っていた帽子を提げていた。今日になってようやく和也はうっかり持ち帰ってしまったことを思い出し、彼女に返したのだった。


 八重は、「紗仲ちゃんがいれば来るんだねえ」


 朱莉は、「ね、私達だけだったら来ないのに」


 そんな調子の友人達を無視して米彦は紗仲の腕を取って輪から外れて、


「なあ、昨日のことだけど」と小声で。


「昨日?」と、紗仲は少し考え、それから思い当ったようになり、「ああ、昨日も何でもなかったわ。結界に触れただけだった。だから大丈夫・・・・・・」


「そう」


「だけど変よね。一度来て何もないと分かったのだから、もうここを探さなくてもいいでしょうに。気付いていないのに目星を付けたみたいに・・・・・・」


「何か、俺にも手伝えることがあるなら・・・・・・」


 と祈るように呟いたのを、


「大丈夫よ。心配しないで。ちゃんと私が守っているから」


 と、にっこりと返した。だがその笑顔は彼に寂しさを与えるだけだった。


 それを見て米彦は思う、やはり自分と彼女は違う世界の住人なのではないか、と。自分は彼女の役には立てない、自分達にとって大切なものを守ろうとすることさえ出来ない、近付くことさえ叶わない。


 しかし紗仲は彼がこのように考えているなどとは露とも知らず。


 朱莉は二人でこそこそしている彼らに向かって、


「おおい、今日は皆で来たんだからさぁ、二人っきりになってないで」


 と口を尖らせて呼び掛けた。


 紗仲は、彼がまた何かを言おうとしたのに気が付きながらも、そうしたものを聞く機会は幾らでもある、今は朱莉の言う通り、皆と一緒に来たのだから、と新しい友人の機嫌はあまり損ねたくなく、米彦の手を取り戻って行って、


「ごめんね。さあ、行こう!」


 と、意気込んだのだが、


 八重に、「あ、まだもう少し。あと二人来るから」


 と、気勢をがれた。光琉が続けて、


「そう、高緒ちゃんと倫子ちゃん」


 紗仲は首を傾げて、はて、といった心持。


 八重は、「あれ、そう言えばまだ会ったことなかったっけ」


 高緒は時々放課後の駄弁りに参加することもあるが、そう言えばここ数日はそれに加わらず真っ直ぐに帰っていた。


「私達と同じ塾に通ってる子だよ」


 と、それから彼女のことを教えようとしたが、はたと困った。思えば彼女については余り詳しくなかった。まあ、仕方がないか、中学も違うし知り合ったばっかりだし。そう思いながらも、高緒のことを良く知らせるべく、


「いい子だよ」


 と、実に明快な紹介をした。


 それから待ち合わせの時刻が迫り、それでも中々やって来ずに、和也は、


「米彦、お前がこの前すっぽかしたから」と、粘っこい目付きをし、「お前が何の連絡もなしに急に来なかったから、ああ、この人達にはこういう対応をしてもいいんだって、そう思って来なかったらどうするんだよ」


「いやいや、それは難癖だろ」


「え、どうしてくれるんだよ」


「馬鹿か、お前は」


「来ないのかな、来ないのかな。山口さんが来ないなら俺も帰る」


 なんて遂には駄々を捏ね始め、八重はその様子にケッとなっている。


 そんな様子には我ら関せずと光琉と朱莉がむつまじく歓談しているのを和也は眺め、それから米彦と紗仲を見比べて、


「いいよな、米彦は。紗仲さんがいて。光琉は椎名ちゃんと仲いいし。俺はどうするんだよ、山口さんが来なかったら一人じゃん」


 それに応えて紗仲が言う、


「八重ちゃんがいるじゃない」


 と、不意の言葉に八重は、彼女に似合わずドギマギとし始めたのだが、そのぎこちなさにも気付かぬ和也は、


「ええ」と横目で彼女を見、「俺は女の子がいいの」


「な・・・・・・」と、八重は言葉を失った。


「米彦よ」と、和也は唇をニィと歪めて、「自分だけ幸せになろうたぁ、山口さんが来なかったら二人きりには金輪際させねえ」


 八重は、「お前なあ・・・・・・、いい加減にしろよ・・・・・・」


 そう言って固く握った拳を震わせたのは、彼の情けない嫉妬を見たからか。


 和也は自分で言ったことも鑑みずに余裕綽々であり、紗仲は色々と困っており、米彦は呆れ、八重は黙り込んでいる。どうにも遣り切れない雰囲気を余所に、光琉と朱莉は爽やかな笑い声を上げていた。


 と、この場の雰囲気をを和ませようとするかのように、


「ごめんねえ、待ったあ?」


 と明るい声が響き渡り、改札口から山口姉妹が駈け出て来た。高緒はいつも通りにニコニコと。倫子はちょっと躊躇ためらいがちに余所余所しく。


「いや全然! たった今集まったばかりだよ!」


 と和也は諸手を上げて迎え入れ、大はしゃぎをした。


 紗仲はそっと溜息を吐き、表情を作って歓待しようとしている八重を横目で見、八重ちゃんは苦労しそうだなあ、などと頭上高くから落ちてくる鳶の声を聞き、それに混じる鴉の声を耳で追った。


 と、ふっと視線に気が付いて、そちらを向くと、自分を不審がっている高緒の黒い瞳にぶつかった。


 彼女はいぶかしんでいた。米彦の隣、それも肩が触れんばかりの近さにいる初めて見る女を。それで、ゆっくりと歩み寄り、


「こんにちは」


 と低く硬い挨拶をした。


 立ち塞がるように相対されて気まずくも感じたが、その緊張を相手の分まで解そうと、


「こんにちは」と、紗仲は明朗な良く透る声で応じたものの、高緒の陰湿な目に気圧されて、「どうも、初めまして・・・・・・。えへへ・・・・・・」


 じりじりと額に脂汗の染みてくるのを覚えたのだった。


 妙な緊張が周囲に漂い、八重がその間に割って入り、互いを紹介したのだが、一向に雰囲気は柔らかくならず、それどころか相手が米彦の恋人だと聞いた高緒が一層物凄い気配を滲ませた。どうしたものかと八重は自分の悩みもすっかり忘れて困っている内、


「紗仲ちゃんね」と、高緒は表情を和らげ、「高緒です。仲良くしようね」


 と、親しみを込めて彼女の腕に手をやった。


「うん! 仲良くしようね!」


 そうして和気藹々と紗仲、八重、高緒の三人はお喋りを始めた。天まで届く喧しさだった。しかし男達の目にはそう見えていたのだが、仲介を果たす八重の気苦労はどれほどであったか、舌語には尽くせぬ。


 姉の様子を知ってか知らずか倫子はいつの間にやら朱莉や光琉と打ち解けていた。


 そうして一同の和んだ様子に一息を吐き、


「それじゃあ、皆集まったし、そろそろ行こうか」と和也は促した。


 しかしこれが何事もない、楽しい休日になったならどれほど良かっただろうか。中止にするならこの時が最後だっただろう。とは言え、先の見えぬ人の身であれば仕方のない事ではあるのだが。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 先日和也達が天体観測をした展望台のある峠まではバスで行った。あの日も米彦以外は駅からバスに乗ったのだったが、米彦はそんなものが通っているのを知らず、自分の脚で向かおうとしていた。結果として山で迷い、紗仲と出会うことになったのだから、無知にも利があると言おうか、縁は奇なものと言おうか。


 峠のバス停で降り、展望台とは逆へ向かうと山頂へ続くハイキングコースが山林の間に口を開けている。舗装のされていない山道であり、三、四人が横並びで歩ける程度にはひらけているものの、崖は剥き出しで木の根に貫かれる岩の苔むしたものや、太い枝に絡み付き垂れ下がった蔦が散見される。靴はすぐに土で汚れ、色褪せた落葉を踏み締める。


 鬱蒼とした樹林の中を歩んで行けば、山頂にはちょっとした草原が広がっているとは言うものの、このような道へ好き好んで入り込み、そこまで行く行楽客はまずいない。紗仲がいたという人払いの法などなかったとしても、この山を登る者は滅多にいなかった。


 山道には所々に梢から漏れた光のが落ち、ひんやりとした木陰の風が吹き通っていた。地面は金緑に彩られ、空気には香しい山の気が満ちていた。


 穏やかな森林浴、まさにそのものだった。


 光琉と朱莉は頭上や足下、木立の向うに見える町並を、あちらこちらと指差しながら、山の植物、景色を楽しんでいる。時折、倫子がやって来ては、朱莉と漫画やアニメの話で盛り上がった。


 彼女が一番好きな作品は、とある変身ヒロインもののアニメシリーズで、うっかりその題名を口にした時には真赤になって恥ずかしがったが、朱莉が、「私も見てるよ、面白いよね」と言うと、満面の笑みになって喜んだ。


 この作品は幼女向けとはなっているが、大人でこれを鑑賞している者も多い。単純にキャラデザインが可愛く、戦闘シーンが凝っているために、大きなお友達が沢山いた。それでも、基本的なターゲットは子供とその親だが。


 このアニメの商品展開は中々えげつなかった。主人公達の人形を揃えようと思っただけでも、まずはメインの味方キャラクターで五体、そして彼女らは場面ごとによって種々様々な職業や属性のコスチュームに変身するため、着せ替え用の衣装が、私服、戦闘服、学生服、アイドル衣装、レーサー、看護師、カメラマン、キャビンアテンダント、消防士、マジシャン、エトセトラエトセトラ、数え切れるものではない、それらが人数分ある。


 それから、なりきりグッズで変身アイテムのブローチと魔法のステッキ、子供サイズの衣装もあり、各キャラクターの特徴となるアクセサリーもあり、マスコットのぬいぐるみがある。


 主人公らは大抵、日常生活ではアイドルとして活動している。そのため彼女らの歌う楽曲があり、配信もしており、ファングッズとしてCDも売られている。声優の行うライブがあり、毎年春には劇場版が上映される。


 子供向け雑誌の表紙を頻繁に飾り、特別なおまけが付く回はいつもよりも高い。それから当然、キャラクターのイラストが印刷されたお菓子やふりかけ、下敷きやノート、筆箱などもある。


 シリーズが始まった頃は、公式グッズの種類も細やかなものだったのだが、年月を重ねる内に、製作委員会は如何に多くの収益を上げられるのかを考慮し、商品展開は拡大されていった。


 新シリーズが企画される際に最初に審査されるのはテーマやストーリー、キャラクターではなく、どれだけ多くの収益を上げられるかになっていた。


 原作者や初期のアニメスタッフが願った子供達を楽しませたいという想いは、いつしか商業主義に取って代わられた。子供のものではなく、製作委員会のためのものになっていた。


 それでも一定の質を保ってたのは幸いと言うべきか。


 このシリーズの歴史は古く、大元を辿れば、約五十年前の漫画にまで行き着く。如何にこれが有名作品で、朱莉が漫画アニメ好きとは言っても、原案の漫画までは読んでいなかった。


 しかし倫子はこのアニメシリーズの大ファンであり、そこまで手を伸ばしていた。しかも彼女が持っているのは当時に出版されたものの初版本だ。中学一年生にしてかなりディープなマニアと言える。


 朱莉は、「凄いね。昔の漫画なのにどうして持ってるの?」と言った。


 倫子は、「友達に貰ったんです。本当は借りたんですけど、そのままで」


 朱莉は笑い、「駄目じゃない。返さなくちゃ」


 倫子は、「そうしたいんですけど、もう、会えなくなってしまって」


「・・・・・・そうなんだ」


「いえ、いいんです。もう昔のことですから」


 どういった事情で会えなくなってしまったのか、引っ越したのか、喧嘩したのか、それとも、死んでしまったのか、倫子が自分から言わないのなら朱莉からは聞けなかった。


 しかし当の本人はしんみりした気分もすぐに吹き飛ばし、光琉に向かって彼はこのアニメを見ているか聞いた。光琉は見ていないと答え、少女を優しそうな視線で包んだ。当人としてはそのつもりはなかっただろうが。


 倫子は頬を紅潮させ、口を薄く開いた。彼に見詰められればどんな少女でもこうなってしまう。それから、はっとして自分を取り戻すと、姉の方へとちょっかいを出しに駈けて行ったのだが、


 その姉はと言えば――


 米彦にべったりとくっついて、紗仲が何かを言えば割って入り、彼が紗仲に声を掛ければ代わりに応えるといった調子で、


「ねえねえ、綾幡くん、昨日の数学の時間でさ、因数分解やったでしょ。あれって難しくなかった? 立花さんが当てられた問題、高校受験レベルじゃないよね。私が当てられてたら駄目だったかも。綾幡くんは解けた?」


 などと、紗仲には加われない話を敢えてしていた。


「まあ、何とか。・・・・・・紗仲は数学は得意?」


 そう紗仲に話を振ろうとしても、


「すごい。さすがだね。綾幡くんは北高目指してるんだもんね。私なんかは全然で・・・・・・。明後日さ、塾に着いたらノート見せて? あ、そうだ、これからさ、早く塾に行こうよ。それで、朝の時間に勉強を教えて欲しいな・・・・・・」


 なんて、自分の方に持って来る。


 紗仲は最初こそ余裕を持って聞いていたのだが、段々とやきもきしてして来、それがイライラとして来て、目深に被った帽子を更に引き下げ、むっすりとして唇を尖らせた。


 姉に取り付けない倫子が仕方なしに話し掛けに来ても、


「さあね、お姉ちゃん漫画はよく分からないから」


 と、ぶっきら棒に言い放つ。そんな彼女も前世では、倫子が好きなアニメを心から楽しみ、原作漫画を何度も読み返し、グッズだってそこそこ集めていたのだが。


 そんな態度に戸惑った倫子が、


「お姉さん、その首に巻いているのは何?」


 と、チョーカーを指差し質問しても、


「ああ、お洒落よ、お洒落。可愛いでしょ」


 などと冷たい応対をする。


 疎んじられた倫子がついに拗ねて、


「全然、可愛くない。変なの」


 と意地悪を言う。すると紗仲は眉間に針を立て、


「怪我をしているのよ。首を怪我。包帯の代わり」


「手首も?」


「そう。いっぱい血が出て貧血気味だから、ちょっと放っておいて欲しいな」


 般若が如き面相に恐れをなしたか、倫子は再び朱莉達の元へと戻って行った。


 不意に高緒が立ち止まり、背伸びをして口元に手を当て、米彦に耳打ちした。そしてクスクス笑い、困惑している米彦を見詰め、腕を取って満足そうに歩き出す。


 彼女が何を言ったのか、紗仲は順風耳で聞いていた。「国語の宿題のプリント、塾に忘れて来ちゃった」そんなことを何故わざわざこっそり言ったのか、米彦は分からず困惑したが、紗仲には明白だった。内緒話のような遣り取りを私に見せ付けたのだ。


 紗仲は悶々とし、殺伐とした気を辺りに流した。高緒はそれを背に受けて、勝利の笑みを米彦に向けた。

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