③ 苦界にたゆたう――4

 一行の最後尾では、八重がガムをゆっくりと噛みながら、高緒達の様子を苦く見ていた。


 バスに乗っていた時、八重は高緒の隣に座り、彼女が米彦に気があることを知りつつも機会がなくて紗仲について言いそびれていたのを謝り、それとなく彼を諦めるよう伝えようとした。


 しかし高緒は、話をする内に、八重が紗仲について余り知らないらしく、彼女に関する説明が漠然としているのに気が付くと、


「ねえ、まだ私が入る余地があるんじゃない?」


「いや、多分、・・・・・・。もう付き合ってるみたいだし・・・・・・」


 高緒はしばし黙り込み、それから言った。


「だけど、そういうのって、早い者勝ちとかじゃないんじゃない」


 八重は気の毒そうに強く光る瞳を覗き込んだ。高緒は彼女が何を言わんとしているのかが分かったのだろう。


「いやよ。諦めないから。絶対にね」


 そう言って薄く笑った。


 可愛らしい子だと思っていたが、根が深い。実際に色々なことがなければ、どんな人間か分からないものだ、八重は思い、ぎこちなく舌を出してガムを膨らませた。


 だが、彼女の心理を正確に言えば、あの三角関係について意図的に悩み、今の状況を意識しないよう努めていたのだった。


 ガムがはじけて顎にくっ付いた。八重は慌てて剥がすと、口に入れ戻そうとしたのだが、考え直して、脇に捨てようとした。が、指に引っ付いて中々取れず、真赤になって手を振り回した。


「何やってんだよ」


 八重の隣をとぼとぼと歩いていた和也が溜息交じりに言った。


「うるさいねえ。ガムが取れないんだよ」


「普通に紙に吐けば良かっただろ」


「うるさいね」


 八重は緊張していた。和也と二人、肩を並べて歩いている。彼こそは、決して口には出さないが、彼女の意中の男だった。


 他の人達はそれぞれの組から離れないし、倫子ちゃんも自分達の方へはやって来ない。前方に友人達こそ見えるものの、これは、彼と二人きりでいるのも同じだった。


 その和也と言えば、つまらなそうにしているが。


 考えてみれば、和也とこうして二人きりで話をする機会など、小学校を卒業して以来なかったのだ。その小学校にしても、高学年になれば一緒に校門をくぐることもなく、教室では余り話もせず。


 幼馴染であったのに、年を経るごとに疎遠になってしまっていた。想いは募るばかりだと言うのに。中学に上がってからは、言葉を交わすこと自体が稀になってしまっていた。


 中学も三年になったばかりの頃、朱莉ちゃんが佐倉に一目惚れをしたと聞いた時には、しめたと思った。佐倉は藤岡と同じグループだった。


 運命が私に向かって進んでくるような気がした。


 それからは藤岡達と五人で溜まるようになったのだが――。


 十七世紀フランスの文筆家ラ・ロシュフコーが言うには、誰も恋の話をしなければ決して恋になど落ちなかったであろう人達がいるそうだ。同じクラスにも彼氏持ち、彼女持ちの人らがいるが、彼らはそうした人種だ。恋なるものがあると聞いたから、伝え聞く恋人なるものを作ってみただけの。それが素晴らしいものだと聞いたから、それのごっこ遊びをしているだけの。彼らがしているのは恋などではない。単なる真似事だ。そう断言出来る。


 だが、私は違う。私のものは違うのだ。


 ・・・・・・。


 ジッと胸の奥が痛くなる。目頭が熱くなって、今にも涙が零れそうになる。いつでもそうだ。彼と一緒にいることが辛くて、立ち去ってしまいたくなる。だが、五人でいる時には、他の人達に早く帰って欲しくなる。


 何も話さなくてもいい。ただ近くに彼の体温があると知っていたい。彼の側で、心臓が破れるほどの鼓動を感じていたい。


 それならばさっさと気持を告白して、そうした関係になってしまえばいいのかも知れない。だが、それは、死んでしまうよりも怖いのだ。言った結果が、良いものになるにせよ、悪いものになるにせよ、その結果がどうなるか、ではなく、言う事そのものが。


 死というもの。それの何が怖いのか。死んだ後は所詮、無だ。感じることも考えることもない。当然、恐怖という感情もない。死んだ後の体が、いくら焼かれようが埋められようが、一向に感覚しないし、未来永劫することもない。今生きている自分には何の関係もない。死ぬことなど、何物でもない。死など、重大なものにはなりはしない。


 人々が死と聞いて恐れるのは、そのものではない。概念だ。恋と同じくそれが恐ろしいものだと聞いたから、怖い気になっているだけだ。冷静なれば、それは怖いものでも恐ろしいものでも何でもない。


 私は告白が死ぬことよりも恐ろしい。人がこれを聞けば、清水の舞台から飛び降りる覚悟で言ってしまえば良いと忠告してくれるのだろう。鼻で笑う。そちらの方がよほど楽だと言うのに。・・・・・・。


 しかし、もしも彼が私を愛してくれるのならば、それはどんなに素敵なことだろうか。


 たとえば、もしも、仮に一日、彼が私を愛してくれるのならば、その後は永遠に地獄で責めわれたって構わない。いや、仮に一時間でも、五分でも。


 釜の底でも針の上でも、無上の幸せに浸っていられるだろう。


 言えないことが、告白出来ないことが、感情を煮詰め、濃くなっていく。凝固して、いわおのように硬くなる。ときはの山の岩つつじ。岩石の表面を春嵐がぼろぼろとこぼしていく。暗いおりが心臓に溜まる。真黒い煤は堪らなく苦く、辛く、舌が痺れる。吐きそうだ。


 夜、一人で眠る時、知らず涙がぼろぼろとこぼれていく。


 だが、私に何が出来るだろう。ただ生ぬるい体を持て余すばかり。


 余りにも実のないことだ。それは分かっている。こうしたものは何時までも続くものではない。いずれは惨めな結末が来る。


――だが、それは、少なくとも、今ではない。藤岡は高緒の可愛さに惹かれてぐにゃぐにゃしているが、その高緒は綾幡に好意を寄せている。それが救いだった。


 八重は息を継ぐのも辛い様子で、ガムを一枚口に入れた。


 和也は大きな溜息を吐いて項垂れた。


「何で米彦ばっかりモテるんだよぉ。紗仲さんも、山口さんも。ああ」


 八重は急く心を感付かれまいと、実に緩慢な咀嚼をした。


「何でなんだろうな。な、山吹」


 名前を呼ばれ、心臓が大きく一つ鳴った。強いて声を落ち着かせて、


「何でだろうねえ」


「俺って、駄目なのかなあ」


 駄目なんかじゃない。もしも藤岡がその気になれば、世界中のどんな女でも惚れさせることが出来るだろう。時代が時代なら、王妃を惚れさせ、国王にだってなれるはずだ。――八重はそう信じていた。


「山吹よ。どう思うよ」


 彼女は喉を震わせて、


「駄目なんかじゃないよ。・・・・・・」


「俺って、魅力ねえもんなぁ」


 そんな風に言わないで欲しい。彼が自分をそんな風に悪く言っているのを聞くと、悲しくなる。


「そんなこと、ない!」


 周りの女が皆、馬鹿なのだ。藤岡がどれだけ素晴らしいのか分かっていないなんて。確かに完璧な人間ではないし、ぱっと見て、すぐに分かるような魅力があるのではない。それでも、世界一素敵な人間だ。歴史上、これまでだって、これからだって、彼ほど素敵な男は現れないだろう。見る目のある女が今いないのは私にとっては幸いだが、いずれは、それに気が付く女も出て来るだろう。そして、彼と付き合うことになるのかも知れない。・・・・・・。


・・・・・・だけど、それは誰なのだろう。


 その時、私は――。その彼を愛する女を許せるだろうか。


 和也の足がふと止まった。八重は横目で見、躊躇ためらい、そして自分も足を止めて彼と向かい合った。


 浅黒く年の割には精悍な顔立が、彼女を真向から見据えていた。


 八重はガムを噛むのを忘れていた。その視線に怯えながらも、目を逸らすことなど出来なくて、じっと、和也を見上げていた。


 視線は絡み合い、二人は見詰め合う。


「山吹よ、そう言うならさ」


「なによ」


 喋るのにガムが邪魔だ。舌の上で硬くなっている。口の中は乾き切っている。――自分を見詰める彼の褐色の瞳の力強さを、一体どれだけの女が知っているだろう。


「頼むよ」


 そう言って和也は、そっと、八重の肩に手を置いた。・・・・・・。


 体が竦んだ。それを振り払う気力など彼女にはない。両目をいっぱいに見開いて、彼の瞳を見詰めている。


 彼は、これまで見たことがないほど真剣な表情だった。


 口腔に唾が満ち始めた。早く飲み込まなければ、口の端から溢れてしまうかも知れない。喉を震わせた。


 自分がどんな顔をしているか、八重には分かっていた。だがどうすることも出来ない。


 和也は内緒話のように顔を少し近付けた。


 私は――。


 八重は喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。口の中が空になると、自然と唇が開き、喘ぐように胸が起伏した。


「な、なによ」


 彼の顔が近い。このような時が来るなんて、これまで思ってもいなかった。願ったことはある。だがそれは飽くまで夢に過ぎない。つまらないくだらない妄想でしかなかったのだ。単なる夢の中のイメージだ。実際に起こることなどとは決して・・・・・・。


 しかし彼は現にこうしている。夢ではない。両肩に彼の掌の温かみが伝わって来る。熱い息までも、私の唇に届くようだ。こらえられなくなる。


 目蓋が震え、落ちそうになる。


 だけれども、私は思うのだ、決してこの瞬間に目は閉じまいと。何一つだって、見逃しはしない。・・・・・・。


 じっと、彼の深い瞳を見詰めていた。


 そして藤岡は、下唇を軽く噛んで湿らせて、ついに言った、


「山吹、・・・・・・俺に、可愛い子を紹介してくれない?」と。


 八重は膝から崩れ落ちた。


「お、おい、どうしたんだ!」


 慌てふためく和也の足元から、八重はすっと立ち上がった。そして哀れみに満ちた眼差しで彼を見詰め、腕をしならせ平手打ちをした。


 素晴らしい破裂音が和也の頬から鳴った。


 八重は息を切らせ、振り切った平手を下げている。


「ああ、ああああああああ、ああああああああああああああああああ、この、バァァァァァァァァカッッ‼ 死ね! 死んでしまえ! お前もう!」


 彼女は満面に朱を注いで歯を噛み鳴らし、山も砕けよといった調子で地面を踏み鳴らしながら、前を行く友人達を追い抜いて行った。


 後に残された和也は片頬を押さえ、なぜ引っ叩かれたのか分からずに涙目になっている。


 平手の音と八重の大声に驚いた光琉は振り返り、


「お前、何をやったんだ」


「な、何もやってねえよ」


 八重は最前列にいた米彦達からも遠ざかり、木立の向こうに隠れてしまった。


「あ、何、どうしたの」


 米彦の腕にすがらんばかりであった高緒だったが、八重の様子にぽかんとし、気を取り直してその後を小走りに追って行った。


 友人達は和也の周りに集まって興味津々だった。


「何もやってないって、あんなに引っ叩かれてただろ・・・・・・」


「平手打ちであんな音が出るなんて、今まで知らなかったぞ」


「藤岡君、八重ちゃんに何をしたの?」


「いやらしい事でも言ったのか」


「いやらしい事って、具体的にどんな事ですか!」


「倫子ちゃん・・・・・・、変なことに興味を持たないで」


 しかし和也にも訳が分からないのだから何とも答えようがない。先程の遣り取りを思い出しても、ただ女の子を紹介してくれと言っただけなのに・・・・・・。


 呆れ顔の光琉、目を爛々と輝かせている倫子、たしなめようにも困った朱莉、米彦は不審そうに首を巡らせ、あちらこちらを見回していた。


「どうした、米彦」


 和也は頬に手を当てたままで聞いた。まだちょっと痛いらしい。


「紗仲がいない」


 それを聞いて朱莉達もちらちらと探してみたが、辺りに彼女の姿はなく、ただ深とした山緑と涼し気な暗がりが広がっているばかりだった。道の奥は緩やかに曲がり、先に八重と高緒が消えた方へと続くのだが。


「いないな。いつから見てない?」


 光琉に聞かれ、ふと迷い、


「さっき、山吹が通り過ぎて行った時にはいたと思うけど」


「思うけどって」と、朱莉が言った。「覚えてないの?」


「ん、まあ」


 朱莉は溜息を吐き、


「ずっと高緒ちゃんにでれでれしてたから・・・・・・。いくら優しくされて嬉しいからって、それは非道いよ。彼女なんでしょ? 紗仲ちゃん可哀想」


 真っ当な非難を受けて米彦は弱ってしまった。


 しかし、あれは高緒がずっと付きっ切りで紗仲の方へ意識を向ける暇をくれず、会話に入れようとしても無理にでも遮ってきたからだ。わざと放っておいたわけではなし、それに入りたければ紗仲の方から入ってくれば良かったのだ。誘われなければ会話に加われないだなんて、世話の焼ける子供でもあるまいし。別に俺は無視をしていたわけではない――


 そのように内心で自己弁護をしたが、彼は心の片隅で気付いていた。紗仲と話をするよりも、高緒と言葉を交わした方が心が安らぐと。無意識の内に彼は紗仲に背を向けていた。彼女は不思議な力を持って空を飛べる人種であった。


 自分はそうではない。高緒もそうだ。紗仲は別の世界に生きる存在であり、高緒は同じ世界の人間だった。――俺は、こちらの世界の住人だ。いくら好き合っていると言っても、同じ世界に住む人の方が、安心できる。


 高緒はこちら側だ。同じ世界に生きている、同じ価値観を持っている同じ人間だ。紗仲はあちら側だ。だから、すなわち――。


 紗仲は俺を好きだと言ってくれる。俺も紗仲に惚れている。しかし、いくら彼女が自分達を連れ合いだと言っても、所詮は別の――。結局、相容れることは――。


――。


「ああ、あのお姉さんなら」


 倫子がそう言って話に入った。


「あの冷たいお姉さんなら、高緒姉ちゃんの後を追って行きましたよ」


「あれ、そうだったの。倫子ちゃん、よく見てたね」


 朱莉に褒められて得意げになり、


「皆さんが、このお兄さんの方に集まって来た隙に。こそこそと。何も言わずに行っちゃうなんて、陰険な人ですね」


 それを聞いて米彦は、


「ああ、なんだ。それじゃ俺達も先に行こうか」


 と、感慨も込めずに放った言葉に、


「綾幡くん、何か冷たいね」


 朱莉はぽつりと呟いた。


 結局和也が何も言わないので、このちょっとした事件も進展がなく、白けてぞろぞろとハイキングを再開しようとした丁度その時、


 裂帛の悲鳴が山林を貫いた。


 一同は顔を見合わせた。八重達の行った先、高緒の声だった。


 何が起こったのか、灌木の茂る山道を、木漏れ日だけが輝く道を、覚束ない足取りで駈けて行った。


 山林が切れると空は青かった。右手には切り立った崖が山肌を露わに迫っている。二車両分ほどの道幅。反対側には苔と泥とで汚れた木製のガードレール。


 それに高緒と紗仲が寄り掛かっていた。凝然と真下、草木の生い茂り三メートル先も見えない、急な斜面を見下ろしていた。


 そこに八重はいなかった。二人の様子から、道を先へ行ったとは思われない。それではどこへ。


 崖下を見下ろす高緒の顔は蒼白だった。ガードレールの横木を硬く握り締めていた。こうべを垂れる紗仲の顔には帽子の影が重く落ちていた。誰にもその表情は伺えなかった。

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