③ 苦界にたゆたう――6
「山吹はどうしたんだ」
和也はどちらに対してともなく問い掛ける。不吉な予感が声を震わせていた。
その言葉に高緒は震える指で、恐る恐るとガードレールの向こう側、緑の奈落の底を示した。
深沈とした
焼けそうな日差の下で彼らは震えた。崖の斜面は目視ではほぼ垂直、草葉、枝葉に乱れはない。一体誰が、ほんの数分も経たぬ前、人が落ちたと思うだろうか。異常のなさが、何事もなかったかのような風景が恐ろしく、夢魔に囚われているのとも。
「冗談だろう」
和也の言葉に応える声はない。
嘘だと言う方が自然であった。事故の現場と思うには余りに静かで平和であった。何の騒ぐこともなく、ただ八重は、自然の日常としてそこに呑み込まれただけだった。
光琉はスマホの画面を睨んでいた。圏外だった。どこのキャリアでもそうだった。
「急いで、駅まで戻って救急隊を呼ばないと」
朱莉が虚ろな声でそう言った。
「そんな時間あるの?」
ようやく我を取り戻した高緒が、色を失った目で、
「八重ちゃんが、どうなってるのか分からないのに。少しでも早く、助けないと……」と、きょろきょろとして、「降りる道はないの?」
「ここにはないみたいだが。……」と、和也は応える。
「じゃあ先にはあるの?」
「分からない」
「だけど、助けに行かないと」と、和也の手を取り、「先へ、探しに」
狂乱はヒロイックな色彩を帯びて伝播した。この場の誰もが救援を呼ぶのは念頭から離れ、自分達で探索しようと崖の下へと降りる道を探しに行くべく動き出そうとした。普段は冷淡とも言える冷静さを持つ光琉でさえもその気になっていた。その時、
「待って」
紗仲の声だった。和也達が着いた時と変わらぬ姿勢で崖の下を覗き込んでいた。
「米彦さん、皆をここに待たせておいてね」
それだけ言うと返事も待たずに、
ガードレールに片手を置いたまま、ふわりと地を蹴り、緑の闇へと飛び込んだ。
鮮やかな投身だった。止める隙もない。彼女の白い影が、霞のように消えてしまった。米彦が慌てて腕を伸ばしても触れるものはなく、覗き込んでも、はや影もなく。
彼女の名を叫んだ。
他の面々は愕然と、周章狼狽した。八重と紗仲の二人が、それも一人は目の前で断崖へと転落したのだ。自ら飛び降りるとは想像の外、喪神して倒れ落ちたのだと認識がすり替わった。
一刻の猶予もない。
「おい、早く!」和也は米彦の肩を叩いた。「下る道を探さないと!」
呆然としていた米彦だったが、その言葉に正気を取り戻し、
「待て!」
その大喝は木陰の鴉を飛び立たせた。
「待てって。探しに行って、お前らまで事故に遭ったらどうする。遭難したらどうする。しかもその時は、事故の場所も分からないんだぞ。ここで待って、紗仲が助け出すのを待とう」
「待つと言っても、その彼女が落ちたんだ」
光琉の冷ややかな声に被せるように、高緒が息を飲み込みつつ、
「間に合わなく、なったら。重症かも知れないのに」
「紗仲なら大丈夫だ。山吹を助けに行ったんだ。あいつなら、必ず助けられる」
その落ち着いた様子に友人達は、焦燥は残しながらも、狂騒は静まった。口を利く者、動く者はいない。納得出来ないまでも従ったのは、動揺など一抹も感じられない、彼のさも当然のような自信の故だった。
米彦は背後からじりじりとしたものが注がれているのを感じた。だがそれ以上に彼は、彼女に対する信頼と取れる言葉を発した瞬間、とてつもなく冷たいものが背筋に伝わったのを感じていた。俺や山吹、高緒は知らん、しかし、紗仲ならば大丈夫だ。彼女は、こちら側の人間ではない。自分達とは異なる存在の彼女であれば、そんなことも出来るだろう。
それでも一秒一秒が重かった。絶え間ない重圧が石抱きの苦悶を味わわせた。この間ほど時間が連続しているのだと痛感したことはなかった。少し後にも続くだろう、更に後にも続くのだろうか。延々と続く時間を両脚の上に置き、神経を痛め、心神を消耗していった。息苦しく、いつ果てるとも知れぬ。永劫と呼ぶには大袈裟だろうが。それでも当の本人には同じことだった。
彼女の姿がいつまで経っても現れないのがじれったく、待ち遠しさや心寂しさ、脳裡に生じ始めた不安に悲しさが混じって腹まで立ってくるのだった。今か未だか、どうして戻って来ないのか。紗仲ならば一飛びだろうに。一体何をやっているのか。唇を嚙み締めた。
米彦の自信がどこから来るのか知らぬ和也は痺れを切らし、
「ここにいても無駄だ。探しに行くぞ」
「だから待ってろって」
そんな言葉をもはや聞いてはいられない。和也は黙って背を向けた。
高緒はその後ろについて行きつつ、振り返り、
「綾幡くんも探しに行こうよ」
光琉達もまた、米彦を一瞥し、それから二人の後を追う。
「待てよ!」
彼女は自分に待つよう頼んだ。それすら自分には出来ないのか。友人達を引き留めようとした。記憶に残る彼女の姿、彼女の声、彼女の気配。それらを感じ、
待って。
そんな声が脳裏に響いた。
倫子が米彦を振り返り、両眼を見張った。彼は
「待って!」
米彦の耳にもはっきり聞こえた。ガードレールに腰を押し付け、声の元へと体を屈し、目を凝らせば、
崖に繁茂する草葉が揺れて、白い手が伸び、黒い土を掴んだ。そして人の顔が現れた。紗仲だった。次の瞬間に米彦の視界は急にぼやけて、水面を通して見るように、彼女の目鼻立ちがはっきりとはしなくなってしまったのだが。
紗仲は八重を脇に抱え、胴を地に付け、身をよじって
米彦は這い
八重を静かに地面に横たえると紗仲はそのまま座り込んだ。脚を投げ出し土泥に汚れて放心する彼女の姿態は、米彦が見る最も美しい姿であった。溢れる感情を抑えきれずに抱き締めると、ほのぼのと口の端が明るくなって、
「私は大丈夫だから、皆を呼んできて、ね」
◆◆◆◆◆◆◆◆
随分と先まで進んでいた和也と高緒を連れ戻す必要があった。光琉が任を受け、米彦と朱莉は転落した二人を気遣ったが、紗仲は何もなかったかのように八重の介抱を始めた。
木陰で行われたそれに中学生が手伝えることはなく、ただただ彼女の手際に感心していた。ただ一人、倫子だけは身動きする余裕すら持てずに八重の様態を覗きもせずに、紗仲の凛とした横顔を見詰めていた。当たり前のことだろう。自ら崖に飛び込んで、無事などころか助け出し、応急処置まで行っているのだ。驚愕せずにはいられまい。
光琉が和也と高緒を連れて戻って来た頃には一段落付いて、朱莉が紗仲の額の汗を拭いていた。暫く安静、そのように紗仲は指示をしていた。
「大丈夫よ」
と、断言した後、慌てて付け足し、
「見たところ怪我もないみたいだし、多分……」
和也は八重の傍にしゃがみ込み、血色の良くただの寝顔としか見えないのに安心するやら心配するやら、どんな感情を抱いているのか自分でも分からないまま、
「本当に、大丈夫なんだろうか」
と独り言ち、
「そうだ」と紗仲を見返して、「紗仲さんこそ大丈夫だったの。というか、どうしてあんなことを……」
「ええ、いや。その。思わず咄嗟に」
口の中でごにょごにょ言っていたが、その時の光景を冷静になって思い返すのならばあの投身は衝動的というには程遠く、明確な決意を持っていたと分かったはずだが、騒乱直後の熱に浮かされた状態ではいっかな気付くことはなく、
「そうか、勇気があるんだな」
と、和也は深く考えることも出来ずに呟いた。
「だけど危ないじゃない!」
高緒が叫んだ。
「無事だったから良かったものの。あなたまで、どうにかなっていたかも知れないのに」
悔し涙を
「皆で、降りられる道を見付けたら、あんな、危ないこともなかったのに。皆で探せば、心配しなくて済んだのに……」
紗仲は妙に冷ややかに、
「その心配って、私にもしてくれるの?」
「紗仲ちゃん!」朱莉が青褪めた。「それは非道いよ、確かに、綾幡くんのことで嫌な気持になってるかも知れないけど、友達でしょう? 朝に握手をしたじゃない」
「そうね。高緒さんが、私達を尊重してくれるなら。友達になれるかも知れないわね」
「それは……、私は、もちろん……」
「もちろん何? 嘘は吐かないでね」
常人ならぬ紗仲の眼力に
倫子は姉を
静謐と呼ぶには荒々しい静寂が流れた。咳一つ許されぬ緊張の間、物音一つ聞こえなかったが、心地良い眠りは妨げられずにいられなかった。ただ寒く、背筋に染み入る冷気が樹下に満ちた。
その寒気に体が震えたか、
一つ呻いて、
八重がぼんやり目を開けた。
紗仲らの対立に耳も貸さずに八重を見守っていた和也が声を上げた。それを聞いて友人達も、彼女の周りに集まった。安堵のあまり泣き出した朱莉の肩を光琉が抱いた。意識を取り戻すや否や身を起こそうとする八重を紗仲がとどめ、もう少し横になっていた方がいいのではないかと柔らかく押し戻した。
横になった状態で、
「え、なに、どうしたの。何かあったの」
と混乱している八重に、和也が、
「お前、崖から落ちたんだぞ。何ともないのか」
「なにそれ」
と、ちょっと思案顔、
「そう言えば……。そうだったの!」
と驚いてから、
「ああ、そうか。そう言えばそんな気も」
まるで他人事。
「覚えてないのか。そんなに強く頭を打って……」
と歪む和也の顔に慌て出し、
「いや違う! 急なことだったから! ああ、そうそう、そうだったねえ」
と随分余裕のある様子。
「何ともないよ」と。「ああ、そうか。そうだったね。……なんか、自分でもびっくり。そうだったね、段々と思い出してきたよ。ほら、急に突風が吹いて来てさあ。それでふらふらと、と言うか、ドーン、と?」
「お前、風に吹かれたくらいで転ぶのかよ。危ねえな。ちゃんと飯は食って来いよ」
「食って来たよ! それに、本当に強い風だったんだよ。本当に、何か、誰かに突き飛ばされたみたいだった……」
と、一瞬悩み込んだが、はっとして、
「藤岡、お前だって飛ばされてるぞ! まったく人を」
と
「だけど、良かった」
そう言って、しんみりとした調子に。気絶していてここまでの経緯を見聞きしていない八重だけはその調子に合わせられずに、気まずそうに、
「何でもないって」
と起き上がり、元気に見せようとはしゃいで見せたが、とてもそんな雰囲気ではなく、一人浮き立ち、なんだよ、ちくしょう、この空気……、私が元気だってんだから元気だろう、ええ問題は私だろう、その当事者が言っているのだ、と不服に思い、……と、私のことで心配してたのか……、
「本当に、何ともないみたいだから。ありがとう」
それから少しの間は八重のために休憩していたが、見た目は無事でも早く病院に行くべきだと紗仲が主張し、反対する者など誰もなく、山を降りることにした。
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