③ 苦界にたゆたう――6

 八重を家まで送って行き、彼女の両親に事情を説明すると大いに驚き、急ぎ病院へ連れて行った。医者に何の異常もないと告げられても心配は止まず、娘自身が元気だと言い張り駄々をねるのをいて寝かせ、その様子を見ていたが、本人の言う通り本当に無事なようでもあるし、医者のお墨付きもあるし、また本人が強く希望するので月曜日に塾へ行くのは許したが、代わりに週末はずっと自分の部屋で横になっているよう命じた。


 翌日の朝、八重は言い付け通りにベッドで横になっていたが、退屈で堪らず、不満のけ口として朱莉に電話して愚痴ったところ、朱莉は昨日のメンバーに声を掛け、見舞いに行くことが決まった。見舞客は朱莉を始め、和也、光琉、米彦、紗仲の五人である。山口姉妹も誘いはしたが、彼女の言うには、自分達も行きたいが、この日はどうしても抜けられない、どうしようもない用事があるのだとか。


 そう言われた朱莉は、高緒が普段から忙しそうにしているので納得したが、この時ばかりはふと気になって、「どんな用事なの」かを聞いたものの、「ごめんね、ちょっと・・・・・・」と、はぐらかされて、詮索するのも悪いと思い、姉妹の見舞いの言葉を伝えるだけにし、電話を切った。


 さて、山吹宅に到着した見舞客一行。和也は呼び鈴をならした。


 玄関が開くと、どことなくおっそりとした細身の中年女性が迎え入れてくれた。八重の母、奈々枝だった。彼女は揃えた指先を頬に当て、


「あら、皆さん、お見舞いに来てくれたの。ありがとう。それにしても、お久し振りね、和也くん、小学校の、・・・・・・五年生の夏以来かしら」


 和也は苦笑し、


「よく覚えていますね」


「記憶力はいいのよう。和也くんもすっかり大きくなっちゃって。見違えちゃって。すぐには分からなかった」


小母おばさんは変わりありませんね」


「お姉さん・・・・・・」


「・・・・・・」


「お姉さん」


「お姉さんは変わりありませんね」


「そう? うふふ。和也くん、お上手になったわねえ。そんな私はもうお姉さんなんて年じゃないわよう。すっかり小母さんになっちゃった」


「そんな事ないですよ。それで、山吹、あ、八重は上ですか?」


「そうそう。上で寝ているわ。どうせ漫画でも読んでいるんでしょうけど。部屋は分かる?」


「ええ、覚えてます」


「じゃあ、案内しなくてもいいわね。あの子、皆さんが来てくださって、喜ぶと思うわ」


「それじゃあ、お邪魔します。・・・・・・あ、そうだ、小母さん」


「お姉さん・・・・・・」


「おば」


「お姉さん」


「・・・・・・お姉さん、八重の調子はどうなんですかね。その、女医の目から見て、どこか可怪しなところはないか、とか」


「それは大丈夫よう。病院でちゃんとした検査をしてもらっても、何もなかったしね。ただ、変なところと言えば、崖から転落したって聞いたのに、全くの無傷だってことかしら。榊原先生も疑っていたわ。打ち身どころか、擦り傷だってなかったのだから。随分と頑丈に育ったものね」


 ほほ、と笑い、


「それじゃあ、こんなところで長話をしていても仕方がないから、早くあの子のところへ行ってあげてね」


「ええ、それじゃ、小母さん、また後」


「お姉さん・・・・・・」


「・・・・・・お姉さん、また後で」


「ええ、また後でね」


 ほくほくとした奈々枝に見送られ、廊下を進み、勝手知ったる様子で階段を上りつつ、和也は苦笑いして、


「山吹の小母さんは相変わらずなんだな」


 と、朱莉に囁いた。


 すると決して通った声でもないのに、遠くの方から、


「お姉さん・・・・・・」


 たしなめる声が聞こえて来た。この地獄耳には紗仲もびっくりだった。


◆◆◆◆◆◆◆◆


 八重は律儀にベッドで横になっており、真夏のこととて掛け布もなく、ブランケットを足元へ蹴り押しぐしゃぐしゃにして、腹這になってファッション誌を開いていた。


 友人達に気が付くと起き上がって歓待し、しばらくの間取り留めもない会話をした。学校であったり塾であったり駅前であったり帰り道であったり、どこであっても同じようにするいつもの閑談だ。


 途中、奈々枝が飲み物を持って来、仲間に入りたそうにしていたが八重に追い出され、目元にうっすらと涙を浮かべた。彼女は娘と同年代の少年少女の友達には自分はもうなり得ないのかと厳然たる年齢の差を思い知らされて少なからぬ衝撃を受けたのだ。寄る年波には医者でも勝てない。とても悲しかった。


 彼らが来てから時計の短針が一周もしていない頃だった。朱莉と紗仲は瞳を交わし、互いの心中を知った。別に来る途中でその話をしたわけでもないのだが、友人を思いやる乙女心というものだ。朱莉はさり気ない風を装って、


「私、これから買い出しに行って来るけど、八重ちゃん、何か欲しい物ある?」


「え、別にないけど」


「あ、私も」と紗仲が、「ちょっと買いたい物があったから・・・・・・。米彦さんも一緒に来て?」


「佐倉くんも一緒に。綾幡くん一人に荷物持ちをしてもらうのは悪いから」


 などと、朱莉は荷物を持たないつもりらしい。


「そんなに買うなら俺も行こうか」


 と和也が気を利かせたが、朱莉と紗仲は声を揃えて、


「「来ないで!」」


 と。和也は目に見えてシュンとなり、


「何だよ、来ないでって、二人して・・・・・・。そんなに強く言われるなんて、もしかして俺、嫌われてる?」


 悲しむ風情の彼を余所に、


「それじゃあ、佐倉くん」


「米彦さん」


「一緒に」


「買い物」


「「行きましょう」」


 手を握られた男二人は曳かれるままに、あれよあれよと連れ去られた。


 出て行く四人を呆気あっけに取られて見送る二人。


「何か、急にいなくなっちゃったね。買い出し・・・・・・?」


「椎名ちゃんも、紗仲さんも、にやにやして。何だったんだ」


 気もなく交わす目線と目線。


 八重は、はっと気が付いて、彼女らは自分と藤岡を二人っきりにしたのだ、と。轟々ごうごうと血が体中を巡り、心の臓は早鐘はやがねを打つ。


 真赤に染まったその顔を見て、


「おい! やっぱりどっか悪いんじゃねえのか! 真赤じゃねえか・・・・・・。まるで火が出るように、・・・・・・というのは使い方がおかしいか?」



◆◆◆◆◆◆◆◆



 八重の家を出、竿置駅まで来ると紗仲は米彦を連れて電車に乗って朱莉達と別れた。交通機関を使ってまで、随分遠くへ買い出しに行くもんだと光琉は思い、朱莉に聞いたがにっこり笑って誤魔化された。


 それで朱莉に付き添って、商店街をふらふらしていたが、彼女はどこの店へも入らずに、時間を潰しているようだったので、何を買うのか質問したが、うやむや言ってはぐらかされた。何もないなら見舞いに戻ろうと言い出したところで朱莉は慌て、実は見たい映画があったのだと伝えると、光琉は怪訝な顔をして、そのまま彼女に腕を取られてついて行った。


 商店街のミニシアターでは題名も聞いたことのない外国のものが上映されていた。ポスターの印象からして、どこかの国の田舎の町を舞台にしたものらしい。横にあらすじの書かれた紙が貼り出されている。


 貧困層の荒んだ暮らし、そこから抜け出そうと足掻あがく青年を描いたものらしい。そして、あらすじには書かれていないが、この映画の結末は、主人公の唯一の希望が断たれ、この田舎町に囚われて、人生をこのスラムで擦り減らしていかなければならないものになる。


 金を払って入館すると、次の上映開始まで後一時間あった。二人は自販機で飲み物を買い、ロビーの一隅、窓辺に並べられたスツールに腰掛けた。


 日曜日の昼前、窓の外では商店街を楽しそうな人々が往来している。休日はまだ始まったばかりだ。


 朱莉は缶コーヒーを傾けて、それからちらっと光琉の横顔を見た。抜けるような肌をして、鼻筋の通り、唇は薄く赤く、目元は愁いを帯びて、双眸は光り輝いている。


 眉間にちょっとした険があった。しかしその皺は女に嫌われるものではなく、それどころか、彼の繊細な心の内を表しているようでもあり、そして同時に彼の肉体を意識させ、蠱惑的な匂いを漂わせていた。


 なるほど、やはりつくづく眺めても色男だ。――朱莉は思った。初めて見た時からそのように感じていた。だがそれだけだった。彼女は彼を異性として見たことはない。


 八重と朱莉が光琉達と一緒にいるようになったのは、八重が、朱莉は光琉に惚れていると思ったからだった。しかし朱莉が八重に言っていたのは、光琉の見た目が格好いいと、芸能人に対するのと同じ感覚で言っただけだった。生身の人間に対するものではない。朱莉はこの勘違いを迷惑にも思ったが、八重の和也への感情に気が付くと、なるほど、そういうことか、と親友の恋路を応援しようと決めたのだった。


――鑑賞物にはいいけれど、男としてはどうだろうね。


 しかし、これはあくまでも彼女の感性に従った言葉だ。他意はない。彼女としても彼の噂は何度も耳にしたことがある。同じ学校のお行儀の良い家庭の女生徒は、彼に近付くなと親から言われているのも知っている。


 彼だってご近所さんからの評判は重々承知だろう。そして彼はそれを気に病んでいるのだろうか。恐らくは、ないだろう、――朱莉は思った。


 光琉の家はこの辺りではちょっとばかり有名だった。そうなった直接の理由は彼の母だが、端緒としては何処になるだろうか。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 佐倉家は代々狂人の生まれる家系だった。生まれる子供の二人に一人が狂って行った。祖父母の代では長男、次男、長女、三男、次女の内、長男と次女が発狂した。光琉の祖父は次男だった。彼と妻は子供を一人しか作らなかった。その子供が光琉の母だった。


 この時点でも極々近辺の住民から佐倉家のことは知られていたが、こんなものはよくある話だ。特筆すべきこともない。だが、その家の一人娘である光琉の母には辛い現実だった。


 彼女は高校を卒業すると同時に蒸発した。二十年前の事だ。結果だけを言えば、その五年後、彼女は身籠って帰って来た。


 その間に何があったか。


 彼女は自分を知る者のいない都市へ、誰にも告げずに出て行った。伝手もなく、仕事も簡単には見付からなかった。住居もすぐには定まらなかった。彼女は美しかった。即金を得られる仕事に手を出した。


 その仕事を続ける内に、ある男と知り合った。路上で営業する彼女を見染めた。彼は彼女に住居と、その時よりもよほど割のいい仕事をもたらした。


 客は老人が多かったが壮年もいた。未成年に見える者もいた。パーティに呼ばれ、自分と同様の境遇にある女達と一緒に複数の相手をすることもあった。


 ある時、一人の客が彼女を気に入った。彼女はテレビや新聞を見ない。だから彼が誰なのかを知らなかった。その客は彼女をより良い部屋へ引っ越させた。彼女は豪華な食事をするようになった。高そうな酒を一緒に飲んだ。


 彼女の体には傷が増え、肌から血の流れ出ない日はなくなった。首筋から痣が消えることはなくなった。


 白かった肌が赤く青く黒くなったからだろう、男は会いに来なくなった。だから彼は彼女が孕んだことを知らなかった。


 突然に彼女は部屋を追い出された。身籠っていては以前の仕事は出来なかった。行くところもなく彼女は帰郷した。


 数ヶ月後に光琉が生まれた。それから九年後、彼女は死んだ。外から目張りされた部屋での一酸化炭素中毒だった。警察は自殺と断定した。


 光琉は母の死を受け入れた。全てが分かった。これが社会だとはっきりと認識した。それならば、自分も社会のルールに従って生きようと決めた。


 彼には母譲りの美しさがあった。それは周囲の人々を魅了した。彼には父譲りの嗜虐心があった。それはある種の女達を刺激した。社会への憎悪があった。彼の風貌に影を落とし、深みを出した。


 中学に上がる前には既に何人かの女と関係を持ち、可能な限り彼女らを傷付けようと努めていた。何故ならばそれが社会なるものだからだ。自分の行いは社会的に正しいものでしかない。


 ただ一つ不安なのは、彼の母が死ぬ間際まで正気を保っていたことだった。佐倉家では二人に一人が狂気に陥る。祖父の代では五人中二人しか発狂していない。母の代は一人しかいないとは言え、ゼロ人だ。ならば、確率から言って、自分が狂う可能性は高い。彼は堪らなく恐ろしかった。救われたかった。その気持が、女達への加虐心を増さしめた。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 今はまだ、法で裁かれるようなことはしていない。和也や米彦が逃げ場をくれるからだ。彼らは自分の噂を知っているだろうが、きっと信じていないだろう。しかしそれも潮時か。彼らに迷惑は掛けたくない。自分は社会に従って生きて行く。


 そのように思っていた頃、クラスの女子二人が自分達に話し掛けるようになった。和也の幼馴染の八重とその友人の朱莉という。八重の振る舞いからして、この朱莉というのは俺に惚れているらしい。それでは、友人達との別れの記念に、こいつを苦しめてから去ろう、そう考えていた。


 だが、陰に陽に誘惑してみても全く乗って来ない。秋波しゅうはを送っても何の反応もしない。この女は馬鹿なのではないか。頭の働きが極端に鈍いのではないか。そう疑ったが、どうやらそうではないらしい。


 自分に魅力があるのは知っている。幾つもの例で証明されている。俺に求められれば、女は何でもするだろう。窃盗と売春までならもうやらせた。示唆はしていない。眼差しで伝えただけだ。


 それなのにこの女は、瞳にどんな感情を乗せても乗っては来ない。どんな言葉を囁こうともへらへら笑っているだけだ。


 頭の悪そうな趣味をして、浮ついた喋り方をしているが、心の底は冷静そのものだ。俺に対する態度もそうだ。愚物そのものの女達と同じようなことを言う癖に、瞳は透き通り、その奥は凍っている。


 俺はこの女が恐ろしい。この女は全てを知っている癖に、あえて軽薄に振る舞っているだけだ。この女は社会を知っていて、それでいてなお平然としている。彼女は社会の外に生きている。


 俺は躍起やっきになっているのかも知れない。必ずや、この女を社会の内に引き摺り込んでやりたい。この女が啜り泣き、身悶えする様が見たい。そう思って情愛の技巧を凝らしても、この女は何事もなくかわしてしまう。是が非でもこの女に社会の厳しさを教えなければ。


 だが、もしかしたら、この女は俺を救ってくれるのではないか。このおぞましい社会の外、彼女のいる場所へと連れ出してくれるのではないか。そんなことを思わないでもない。そしてもしも彼女のように生きられたなら、それは素敵なことだろう。


 俺はこの女に惚れているのだろうか。いや、そのような話ではない。そうではない。こいつは俺にとって、女ではない、何か別の存在だ。女などという俺という者に憐れみもし、惹かれもし、惑わされもするような容易たやすい相手などではなかった。


 俺には彼女がにえにも天女にも見えている。地獄にも落としたい、ここから救い出しても欲しい。手を取って引き上げて欲しい、手を取って引き下ろしたい。


 しかし、もしも俺の誘惑が成功したら、どうなるのだろう。こいつに俺を愛させることが出来たのならば。


 きっとこれが最後のチャンスだ。彼女が俺を受け入れてくれるかどうかで、俺の人生は全く別のものになる。彼女が俺を受け入れてくれたなら、俺はこの社会から抜け出すことが出来るだろう。彼女が俺を受け入れてくれなければ、俺はこの社会の中で生きて行かなければならない。それは。どうか、助けて欲しい。


 光琉はそんな願いを抱きつつ、窓の外で休日を謳歌おうかする人々を眺めた。

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