④ 血潮の色は――1

 朱莉達と別れた紗仲は米彦を連れて船寄山まで行った。紗仲はここまで連れて来て八重の家にも帰らない理由を説明しなかったが、米彦は別段何を聞くこともなく従った。ある種の迷いに胸を塞がれていた。


 洞窟の前の草原は夜毎の紗仲の努力によって綺麗に整えられていた。茫々ぼうぼうと生い茂っていたのが今ではくるぶしを覆うほどにも伸びていない。草原は山林に囲まれて、内にはぽつりぽつりと梅の木が植えられていた。不思議なことだった。それらの梅は、真夏だというのに、彼女の肌のように白い花を点々と付けていた。


 刈られたばかりの緑を踏みながら、米彦は独り言のように質問した。


「なあ、山吹のことなんだけど」


 紗仲は可愛らしく小首を傾げて、


「なあに」と、彼を覗き込む。


「怪我がなくて、良かったよな」


「本当よね」


 そう答えてクスクスと笑った。


「紗仲のお陰なのか」


 しばしの間、鼻歌で誤魔化そうとする様子を見せながら、彼がもう一度聞いて来るのをうずうずして待っていたのだが、待ち切れず、


「ええ、そうよ」


 と首筋を撫で、黒革から小壜を取り出して、


「ね、見て、これ」とニッと笑い、「万能膏って言うのよ。打ち身切り傷腫瘍骨折、虫刺されから内臓破裂まで、一たび塗ればあっという間に」


「それじゃあ」と、最後まで聞くのがもどかしく、「紗仲は山吹が無事に帰って来るって、分かっていたわけか」


「まあ、見付けられたら治せるとは思っていたけど」


「そうか」


 それきり黙った。


 何が何やら分からぬけれど、沈み込んだ彼を元気付けようと小声で唄を歌ってみたり、少し走って彼の前で回ってみたり、楽しそうにして見せた。刈られた草の切れ端が風に吹かれて、彼女の足元で舞い上がった。その緑の流れ動く様子、それらと一体になって踊る姿は、あたかも植物の精のようだった。


 彼女の振る舞いは彼に対する媚態でもあったが、それのみというわけでもなかった。一つ、とても嬉しいことがあったのだ。直接見せるまでは隠しておくつもりだった。だからこれまで言わなかった。しかし、それも遂にここまで来れば我慢が出来なくなって彼に抱き付き、


「ねえ、貴方」と、桃色の掌を彼の胸に擦り付けるようにして、「この前、私、韋編の一冊を手に入れたのよ」


「そうなのか。いつ」


「貴方を洞窟の中まで案内したその夜に。直接ね、見てもらうまでは黙っていようと思っていたんだけど。ね、それから、一緒にいいものも手に入れたの。凄いものよ、私達がこれまで持っていたものと比べても、とても素敵なんだから。ね、早く」


 そう言って誘うように駈け出した。


 洞窟の手前まで来ると彼女は足を緩めて、入口の両脇の刈り残した長草の片方を掻き分け、大きく自慢するように、


「ほら、これよ!」


 そこには大型犬の石像の、真新しく染みの一つも付いていないものが、一つぽつねんと鎮座していた。ピンと立った耳、射るような目付、引き結んだ口許の。胴の造り、脚の肉感はどうだろう、今にもこちらへ飛び掛かって来るような。毛並みまでも風にそよいでいるようだった。だが、これほど精巧な像だというのに、頭部だけはやすりで磨いたようにつるつるとして、成程よく出来た彫像ではあるものの、実在する犬種とは思われぬ。


 米彦はこんな頭部だけ毛のない犬など知らないはずなのだが、それでもどこかで見たような気がしてならなかった。


「もう一つあるの!」


 彼の惑いも気付かずに、火照った頬を輝かせ、もう一方の草を掻き分けて見せた。寸分違わぬ兄弟犬がそこにあった。


 うっとりとして犬の頭を撫でながら、


「ねえ、見て、これよ・・・・・・。素晴らしいと思わない?」


 返事も待たずに、


石頭狗せきとうくって言うのよ・・・・・・。ほら、前にちょっと、宝具って特別な道具があるって言ったでしょう? これがその宝具。・・・・・・それとも宝貝パオペエと呼ぶべきか知ら」


 ふふふ、と笑い、


「いいえ、正確に言えば、これらは一種の神よ。付喪神つくもがみはご存じでしょう、それなら無機物が神になっても可怪しくないでしょう? それから式神しきがみもご存じでしょう、それなら神が人に使役されても可怪おかしくないわでしょう? ――して、見ていらしてね」


 小石を拾い、放り投げた。


「行け! ちょうでん、ちょうらい!」


 小石が地面に接すると見るや、爆音が響き、それと共に濛々とした土煙が上がった。


――深沈とする。


 米彦はよろけ、手を突こうとしたのだが、そこに支えがなかったために泳いでしまった。石像がなくなっていた。像の下で押し潰されていた草を見ている内に聞こえてくる紗仲の声、


「戻りなさい、晁田ちょうでん晁雷ちょうらい


 土煙の向こうから、のそりのそりと現れる、二匹の大犬。それらは確かにあの石像だった。あの石像が生き物のように動いている。全くの石に見えた体毛も、今では茶色く、動きに合わせて靡いている。そして頭部には、よく磨かれた石の仮面を被っていた。


 紗仲は大きく開いた目をキラキラさせて、


「ご覧の通りよ、見た? 見たでしょう? 主人があの子達の名前を呼んで石を投げると、その場所に向かって攻撃するのよ。速度たるや正に神速! 神だからね」


 諸手を広げて犬を迎え入れ、紗仲は一匹を抱きかかえ、猫可愛がりに可愛がった。一息吐いて、


「この子達のご主人様は私」


 抱かれた一匹が彼女の肩に前脚を掛け、顔を嘗めようとした。


「あ、やめ、晁田!」


 と、避けようとしながら嬉しそうにした。もう一匹は胴を彼女の体に擦り付けて、匂いを嗅いでいた。


「それでね、米彦さん、この子達には貴方のこともご主人様だって教えておいたわよ」


 彼らの名を呼びながら、顎を撫で、手を嘗められて、きゃあきゃあと喜んでいた。その様子に米彦は、


「なあ、こいつらって、もしかして・・・・・・」


「なあに」


「この犬って、もしかして、あの、杉田さんの犬じゃないのか」


 あの暴力団の、目撃者もなく惨殺された、一匹などは胴を立てに裂かれていたという。一面血の海、掻き切られた首は未だ見付かっていないらしい。


「ええ、そうよ」


 と、犬を遊ぶのを止めはしないで。


「そうよって・・・・・・。それが、どうしてここにいるんだ。だって、殺されたんじゃ。それに、その、つまり」


 口籠る。紗仲は笑いながら事もなげに、


「だって、この子達はこういう法具だもの。持ち帰って直したの」


 言葉が出ない。


「今回手に入れた韋編には、こんなおまけが付いていてお得だったわ」


「つまり、・・・・・・やったのはお前か」


「杉田さんの家から持って来たわよ」


「殺したのはお前かと聞いているんだ」


「いったん首を切り落としたわよ」


「それは、殺したってことじゃないのか。それに、杉田さん、可哀想だったじゃないか。やらなくたって分かるだろう、それくらい。それに、杉田さんの家に言った時に、お前が泣いていたのは嘘だったのか」


 手を休め、色のない眼を細くして、


「私だってつらかったわ。あの人、いい人だったものね。とても残念。だけど、仕方がないもの。あの人の家にあって、この子達がそうだったんだもの」


「それにしたって・・・・・・。それじゃあ、杉田さんと知り合いになったのは、この為だったのか」


「当初の目的としてはそうね。危険な犬を手懐けておきたかったし。ま、手懐けるのは失敗したけど」


「そんな、可哀想に」


 犬は二人の主人を見比べて、そして遣る方なさそうに紗仲の掌を嘗めた。


「だけど、せめて、それなら、こう言ったらなんだけど、こいつらが、お前の言うように、神で、道具であったとしても、せめて、こいつらを家族として可愛がっている杉田さんが亡くなってからでも良かったんじゃないか。そうすれば、少なくとも杉田さんは死ぬまで家族と一緒にいられて、悲しませずに済んだのに」


「いやよ、そんな人が死ぬのを待つような真似は。それにね、米彦さん、韋編を集めているのは私達だけじゃないわ。杉田さんの家にあったのを狙っていたのもね」溜息を吐き、「何度も私が急用だって貴方達と別れて知っているでしょう。この山だって、何故か知られて探られているのよ」


「それは、お前から聞いた」


「そうね。ね、米彦さん、気付いている? 気付いているわけはないけれど。今も奴はこの山にいるわ。ずっと朝から嗅ぎ回っている。探知網に引っ掛かりながらね。単に気付いていないのか、武闘派なのかは知らないけれど。戦うつもりで誘っているなら、一体どんな武術や秘術を身に付けているやら。・・・・・・ねえ、どんな事でも出来るようになる叢書だもの、何をしたって集めようとするわ。誰だって。私だって」


「・・・・・・それは、つまり、誰かを傷付けてもか」


「貴方・・・・・・。晁田、晁雷、お座り」


 犬達は従い、座った姿勢で米彦がここに来て初めて見た時と同じように石像になった。


「ま、結果としてはそうなったわね」


「分かっていただろう」


 紗仲は大袈裟に溜息を吐いて見せ、


「一体どうしちゃったのよ。それとも、私も貴方くらいの年齢まで記憶を取り戻していなかったら、こうだったのか知ら」


「こうだったとは、どういうことだ! こんなことをして、お前は、おかしい」


「こういうものよ。・・・・・・いい、貴方、感傷に酔って大局を見誤らないで。何か、大望を成すならね、私情なんて、個人的な感情なんて、そんなもの、捨てて然るべきよ」


「そんなことは、ない、だろう」


 苦々しく、うんざりしたように、


「今の貴方には、まだまだ、何もかもが足りていない。覚悟も、知恵も、力も、意志も、精神も、全てを失ってしまっている。私の知っている貴方じゃない。ただ記憶を取り戻していないってだけで、こんなになってしまうのか知ら」


「紗仲!」


「とりあえず今は貴方と喧嘩をする気はないわ。彼奴がいて、私もここにいる。折角の機会だもの。倒しておくに如かないわ」


 紗仲は両目を見開いて、


「昨日の崖の、ちょっと上あたりね。丁度いいわ」


 跳躍し、剥き出しの崖に沿うようにして、これまでにない速度で飛び去った。


 米彦は地面を殴り、暫くうずくまっていたが、彼女を追おうと草原を駈け抜けようとした。


 寄り添い合った二つの犬の石像が、薫風を浴びて草間に隠れた。

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