④ 血潮の色は――2
「クソ、どこにある!」
侵入者は思わず吐き捨てた。この数日間、日常の雑務を終えるとすぐに此処へ来、深更になるまで探し回った。如何に万巻韋編の法力を得ていても、全感覚を鋭敏にしながら山中を歩き続ければ疲れも溜まり、苛立ちも募るものだった。
――しかし、
深呼吸をし、気を落ち着けて、ニンマリ笑った。
――この山には随分と溜め込んであるようだ。誰だか知らぬが、せっかく集めてくれたのだ、見逃す手はない、その見返りに比べれば、この程度など、苦労ではない。
茂みを蹴り分け、手掛かりになるものがないかどうか、ジッと睨んだ。
ここだって、何度も探した。文字通り草の根掻き分け、蜘蛛の巣だって蟻の巣だって、どこにあるのか把握している。だが蛇の巣だけが見付からない。
目前、空中に法術で狐火を灯した。
――いっそ煙で燻してやろうか。
万巻韋編が燃えることはないだろうが、火事を恐れて山の主が逃げてしまえば元も子もない。転居の途中を捕まえられれば良いのだが。捕まえられる保証はなく。
火を消し、ハンカチで額を叩き、胸元を扇いだ。
と、その時、
「危ないわね。火気厳禁よ」
その声に、はっとして振り向いた。そこにいたのは、
どろどろとした敵意を発し、直立した樺に背を預け、
その表情がふっと消え、紗仲が左腰に拳を当てると、ばっと水飛沫が吹き上がった。右手には水の滴る氷の刃が握られていた。そのまま切っ先を上げるのでもなく、下段に構えるのでもなく、ただやる気なく、脱力した腕の延長として、だらりと下に垂らしていた。もう一方の手を上げて、親しい友人に対するように、
「こんにちは、高緒さん。奇遇ね、こんな所で会うなんて。何か探してらっしゃるの?」
侵入者はまじまじと紗仲を眺めていたが、「そりゃそうでしょうね。早かったじゃない。待ち侘びたわよ」口の中で呟いた。
「こんにちはったら。可怪しいわね、声が届いていないのか知ら。ね、高緒さん、聞こえている?」
言葉を掛けて無防備に歩み寄る紗仲。戦闘態勢など取っていなかった。気迫というものもない。ただ無気力に、しどけなく、流れるように足を運んでいるだけだった。敵意など感じられなかった。
対して高緒は身構えた。間合に入られれば前後左右どこへも咄嗟に避けられる姿勢を取っていた。はずなのだ。だが気が付けば紗仲は既に目前にいた。刀身の充分に届く距離だ。
紗仲の腕が鞭のように跳ね上がる。
「チイッ」
高緒は反射神経だけで避けた。だがそれは正に間一髪、水気を発する切っ先は、こめかみを掠め、彼女の髪をざんばらに散らした。
――いつの間に! いや見えていた!
紗仲の虚を突いた攻撃には二つの技術が組み合わされていた。
第一には特殊な足の運びである。緩やかな動きに見える一歩一歩が、その実長い距離を進んでいた。動きと距離との差異により、高緒の知覚は自ら知らずして混乱していた。そしてそうした場合、人は距離感よりも、見ている相手の体の動作、その速さこそを信じ込む。錯乱させられた高緒の感覚からすれば、刀の払われた瞬間には、そこまで近付いていないはずだったのだ。
だが、それのみならば韋編なる超常の知識を求める高緒である、
高緒の優れた直感、もしくは俗に言う心眼は、僅かな殺気や覇気、気迫や敵意といったものを捉えることが出来る。最初に紗仲を目にした時、高緒は相手の強力な敵意を感知した。それは次の間に紗仲が気迫を消滅せしめても未だ心眼に残像として残っていた。次第に歩み寄って来る際であっても同様だった。目前にまで迫っていた時でさえ、高緒の心眼は、紗仲の位置を初見の位置に捉えたままでいたのである。
熟練した戦士の習いとして、彼女は肉眼よりも心眼に重きを置いていた。これこそが高緒をして危うきに置いた原因であった。紗仲によって危機に晒されたことこそが、彼女が優れた武芸者である証左となった。
それにしても恐るべきは紗仲のこの相手の超感覚を逆手に取った達人殺しとでも呼ぶべき兵法だ。これは室町時代の剣豪、愛洲移香斎に端を発する陰流の水脈を引き入れたものであったが、詳細をここに記すべきや否や。今は割愛する。
高緒は敵の初手を受けて総毛立った。が、想念に浸っている暇はない。高緒の頭上へ向かった剣先が、肩の動きと手首の返しによって四半円を描き、初発の勢いを保ったままの二の太刀が横一文字に振るわれた。
深い踏み込みと
息吐く間もなく襲って来る三の太刀、四の太刀。後退する高緒に反撃の糸口はない。途切れることもなく、静止の瞬間もなく、矢継ぎ早に繰り出される五、六、七。
だが果たしてこれは、そもそも一、二、三と
高緒は何度か法術によって眼から火焔を飛ばした。が、それらは
打ち込みを避けるのは常に
紗仲のペースに呑まれていた。追い込められ、追い詰められ、いずれは王手。このままでは結果は一つだった。
高緒は両手を組み合わせ、素早く印を切り結び、
掌底から、鮮紅の火柱が轟と伸びた。太さを増して、紗仲に真正面からぶつかった。
後ろへ跳躍して距離を取りつつ、数秒間、炎の車軸を浴びせ続けた。
寄っては来ない! 次の太刀はない!
安堵と共に更に火勢を強くした。このまま骨まで炭にしてやる!
法力の全てを注ぎ込んでも、蒸発させて……。
はっと気が付く。相手の姿は炎の陰に隠れているが、その頭上に
思わず
すると聞こえる風を斬る音、いや見える! 木漏れ日を反して光る剣先! 縦横無尽に走る太刀。見よ、彼女は水刀を以って炎を斬り、その熱までも冷気で遮断しているのだ!
炎は弱まる。次第に現れる彼女の全貌、靡く黒髪、真白いドレス。焦げ一つさえ、高緒の炎は紗仲にどんな傷みも与えなかった。
高緒の頬に伝っていたのは、彼女に浴びせられた刀身からの水であったか、それとも自身の汗であったか。
火炎の放射が途切れるや、再び紗仲は詰め寄った。眼は
――だが、距離は取れた。
高緒は汗水でびっしょり濡れた衣服の襟口を鷲掴みにして一気に引き裂いた。胸と腹とが陽光に晒される。彼女は自らの喉元に手刀を差し込み、縦に割った。肉はもちろん胸骨までも、割腹の妨げにはならなかった。彼女の胴は綺麗に縦に切り裂かれた。
この行動には紗仲も足を止めざるを得なかった。自動運動はここで終わりを告げてしまった。彼女の肉体に意識が戻った。驚きに目を見張った。
紗仲の気配が現れて、一ヶ所に留まり動かないのを感覚しつつ、高緒は腹から手刀を引き抜くと、血に染まった自らの半裸体を抱きかかえ、側筋背筋に力を入れた。めりめりと音を立てて、彼女の胸腹は展開して行く。どうした訳か、新たな出血はない、既に出た血は早くも黒く乾いていた。
紗仲の肉眼は、相手の腹腔に捉えられた。高緒の
腋を通り、背にまで回り、肩甲骨の延長として、それらは一対の翼と化していた。肋骨を骨とし、皮肉を羽とした、どす黒い翼を高緒は背中に負っていた。
紗仲が
「化け物か!」紗仲が叫んだ。
黒い影から応える声が降り注ぐ。
「私は人間よ。残念なことに。貴女と同じように」
「人に翼が生えるものか」
「らしくないわね。貴女の知らない知識があることくらい分かるでしょう? それを実現する技術を私が身に付けているだけ」
「邪法か」
「意外と未熟ちゃんなのね。知識や技術に正邪はないものよ。それにね、仮に邪法であったとしても、清濁併せ持てなければ、叢書を集めたって無駄なだけ。そんな貴女じゃ全巻揃えたって意味がないし、揃えられるとも思えないし。だから、どう? 大人しく渡してくれない? そうすれば、全部忘れてあげる」
「ぬかせ、人外。その
「なにを」
「言葉の通りよ。私の男も横取り出来ないような女が、どうして私の韋編を手に入れられると思うのか」
紗仲は胸元から羽衣を取り出して肩に掛けると飛び上がり、真一文字に有翼人へと突き掛った。
高緒は剥き出しになった腹の中に右手を突き込み、そこから
打ち払われた勢いを以って紗仲はその位置で宙返りし、そのまま高緒の足元を薙ぐ。
だがその攻撃も地上であればこそ意味を成すもの、飛翔している高緒には、少し腿を上げるだけで避けられてしまった。体勢の崩れも僅かな隙も、空中の彼女には生じない。高緒は目の前の紗仲の足首を掴み取った。大きく振り上げ、地面へ向かって彼女を投げ付けた。
辛うじて受け身こそ取ったものの、地面に叩き付けられた紗仲は肩の関節、腰の
「つ、つ」
顔を
針の煌めきが梢にまで達した瞬間、紗仲は跳躍し、重力を背中に受けながら、高緒に正面から打ち掛かる。
高緒は剣で
「刀で剣と打ち合って、敵うつもりでいるのかよ」
――地に着く頃には身二つだ。
自由落下の速度を超えて、高緒は剣を八双に構えて追い縋る。
――吹き針ならば避け
紗仲は朦朧とした眼で距離を縮める敵を見る。
――高緒
八カウントまで寝転がっているボクサーのように。紗仲は距離を目測しつつ、行動を起こす時機を計った。
そろそろか。
高緒の一太刀は轟音を発し、紗仲の白い残像を斬った。剣風凄まじく、脇の小枝が音を立てて折れた。すぐに身構える。空振りの隙を狙って何かが来るかと危惧したのだ。
だが何も来ない。紗仲は逃げていた。
この刀で相手の剣と打ち合っても勝ち目はない。そう判断した彼女は他の得物が使えるもっと広い場所へと誘おうとした。自分は身一つで飛べる。高緒は飛ぶのに翼を使う。木立の狭い合間を縫って行けば、相手は遠回りをせざるを得ず、追い付けまい。
目論見は半分外れ、半分当たった。紗仲が通った幹の間を、高緒は同じように擦り抜けた。広げていればぶつかる翼を、通過の直前折り畳み、慣性飛行に切り替えていたのだ。結局のところ、紗仲は潜り抜けられて高緒だけが通れない場所はなかった。
しかしその手間、翼を開閉する一回一回の小さなロスが次第に積み重なり、紗仲は高緒を引き離していった。高緒は飛ぶのに精一杯で、追いの一手しか打てなくなった。
目的の場所に到着した。林立する木々は途切れ、周囲三百歩ほどの開けた空間に出た。
紗仲は地に足を着けるや左手一本で納刀し、同時に右手でうなじを撫でて、首に巻いた黒革から丈六尺の長柄の大鎌を引き抜いて、腰を入れ、がっしりと構えた。
最後の樹間を抜けて高緒が滑空し、迫る。
――刈る!
刀は
しかしこれは高緒の能力を失念し、技量を見誤った計算だった。
紗仲が誤算に気付くのは次の瞬間である。
高緒は受けた。先の刀に対すると同じく黄金の古剣で。かち合ったのは切っ先と切っ先、刃は相手に届かない。紗仲は悟る、鎌の欠点を。鎌が鎌たる
しかし高緒は炎を自在に放出せしめる。つまりは――、
高緒は剣に火焔を纏わせ、炎の蛇は鎌を這った。それが鎌首にまで達すると、巻き付き、締め上げ、その鎌首を焼き切った!
高緒の足が顔面に飛んで来る。顎を上げ、かろうじて避けた。
飛翔する翼人は通り過ぎ、向こうの林の前で旋回し、二撃目を狙って襲い来る。
紗仲は刃の取れた鎌を見て舌打ちする。大鎌でも
襲い掛かる黄金の剣と炎の放射を、刀の峰と水の飛沫であしらいながら、反撃の機会を待つ。
十合、二十合、実力伯仲、決め手はなく、体力も尽きず、いつとも果てぬ剣戟の音、林間を騒がせ、天上に響く。
両虎
◆◆◆◆◆◆◆◆
銀の雨脚は
空中から力強く襲い掛かる翼を得た黒虎が高緒であれば、地上にて雲に似た雨霞に乗りつつ鎌首を反し迎え撃つ白龍は紗仲であった。
米彦は暫しその光景に見惚れた。が、
――こうしている場合じゃない。
吹き荒れる殺気、顔面を打つ。息が詰まる。叫ぼうとするも、空気が喉を通らない。喘ごうとするも、ただ気管が引き攣るばかり。呼吸も出来なくなっていると気付くのは次の瞬間。ここは山林、驟雨の中ではなかったか。まるで深海、極寒と水圧に潰されて、魚のように口を開閉するばかり。
火花が目を焼く、旋風が頬を切る。そんな感覚が身を刻む。恐怖が全身に満ち満ちる。吃音が漏れる。
◆◆◆◆◆◆◆◆
――揃った!
紗仲はこの時を待っていた。高緒の軌道がぶれ始めたのだ。幾ら彼女が法術を身に付け、常人を遥かに超える体力を有していると言ったとしても、こちらも同じ、集中力も気合の張りも同程度なら、可能な限り動きを少なくしている紗仲こそが有利であった。
高緒の体には疲労の兆候が表れていた。しかし真に集中している本人はその変化に気付かない。一合一合、最大の力を振り絞る。
紗仲は大股を開き、大地を踏み締める。次の合こそ勝敗の決する時。瞬時気迫は没滅する。次の一振りに、その後の隙もあらばこそ、全てを賭ける気概であった。
が、果たしてそれは正解であったか。
目標への
「な」
思わず鎌を取り落とす。
◆◆◆◆◆◆◆◆
泡を噛み、ぎろりと剥いた両目には敵たる紗仲の大きな隙が見えていた。
体は前へ進もうとするが、心は惑う。
隙にしても余りに大きい、誘いの隙でもありはしない。
武器さえ落とした仇敵の視線を追った。
米彦を見付けて息を呑む。
援軍か否か判別もせぬ間に、
即座に
◆◆◆◆◆◆◆◆
高緒の気配が
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