④ 血潮の色は――3

「こんなところで何をしているの」


 紗仲は米彦へ詰め寄った。


「巻き込まれたらどうするの! 貴方は今、自分の身を守ることすら出来ないのに」


 呪縛から解かれたように米彦は体を震わせ、


「お前、今、何をしていたんだ。あの飛んでいたのは。あれも、殺そうとしていたのか」


 紗仲は顔を歪ませて、


「またそんな話? 言ったでしょう、どんな事をしても集めるって。それに今、見ていたんでしょう? あれも今、私を殺そうとしていたのよ。私は殺されてもいいって言うの?」


「そんなことは言ってない。だけど・・・・・・」


「だけど、何」


「そんな、殺し合いをしてまで・・・・・・」


「してまで、何」


「欲しいのか」


「当たり前じゃない。全能の存在になれるんだって言ったでしょう? 命の遣り取りをするには充分に値するわ。殺すのも、殺されるのも、覚悟の上よ」


「俺は、君に、そんなことをして欲しくない」


「甘いわねえ、米彦ちゃん。相手は死ぬ気でやっている。こっちも死ぬ気でやっている。死ぬ気なのは最低条件よ。どんな事をしようが、何をしようが、殺そうが、殺されようが、化け物になろうが、何でもやるわ。相手だってそうよ。舐めないで」


「そんなに全能の存在になりたいのか」


「そうね」


「なってどうする」


「大願を果たす」


「大願?」


「それも覚えていないのね」


「・・・・・・。全能の存在とは、つまり、偉くなりたいのか。人間を超えた存在になりたいとでも言うのか」


 紗仲はあざけり、


「くだらない」


「じゃあ、何だ」


「この世界を理想的なものにする」


「理想? 自分にとって都合のいいという意味か」


「言葉の解釈に相違があるようね」


「何が相違だ。世界の支配者になりたいんだろう! それこそ子供染みている」


 紗仲は失笑し、


「支配者? そんなものになってどうするのよ。言葉の解釈に相違があると言ったでしょう?」


 大きく息を吐き、


「いい、貴方。この世界は理想とは懸け離れている。いいえ、はっきりと隔絶している。現実は真実ではなく、歴史は神話ではない。言葉は本質と切り離され、事実を表すのすら難しい。天網は破れ、地に法はない」


 足元から石を拾い、


「これを見て。これは何だと思う?」


「・・・・・・石、だろう」


「いいえ、これは貴方が石だと思ったものに過ぎない。石の概念に沿うものでしかない。石そのものではない。これは貴方が石だと認識したものでしかない。これは、貴方の思い描く『石』なるものに、類似しているだけのもの」


「誰に聞いても、それは石だと答えるだろう」


「ええ、きっとそうでしょうね。『石』という単語を知っている人なら、誰だって石のイメージは持っている。多くの人の思い描く石のイメージに似ているでしょう。そのイメージを夜空の月に喩えるならば、現実世界のこの石は、水面に映った水月に過ぎない。石のイメージの類似物。


 私はね、この世界を、水月ではなく、真月の世界にしたいのよ。人の理念そのもの。真実の世界に。


 貴方が石だと認識したこれが、普遍的に石であるような世界。現実と認識と真実が全て等式で結ばれる世界。正しいものが正しい世界。真実は真実であり、善は善であり、美しいものは美しい世界。良い人が良い人生を送れる世界。法が完璧に機能する世界。正義の光があまねく万民を照らす世界。歴史家が芸術を記し、芸術家が歴史を謳う世界。純粋な在り得べき世界。言葉と真実が同義である世界。理想が現実である世界」


「そんなこと、世界を変えるだなんて、出来るわけがない」


「いいえ、出来るわ、万巻韋編なら。いい、貴方。この世は大いなる神秘によって形成されている。草木一本の根の端に至るまでね。世界の仕組、構造、原理原則、動き方に働き方、規則に法則、それら全ての知識を凝縮し、結晶化させたのが、私達の求めているあの叢書。


 書かれたことを全て覚えて技術として活用することが出来たならば、そりゃあ世界を手にすることが出来るでしょうね。現に存在しているものを私物化するって意味じゃない、世界の仕組みを組み直して、規則や法則を造り替えることが出来る。だってその規則法則が成り立つ土台に手を入れられるのだから。


 やりたいのなら全く新しい世界を一から創り出すのもね」


「なるほど、分かった。君が集めていると言ったものが、凄いものだとは良く分かった。だけど、そのために生き物を殺したり、盗んだり、悪いことをしているとは思わないのか」


「そうね。悪いと思うのは、韋編を自分のものにしようとしている事。だってそれらは世界なのだもの。万物の財産、いいえ万物そのものと言っていい。それを個人で所有しようだなんて、悪い事ね。


 だけどね、米彦さん、盗むと言ったからにはご存じの通り、杉田さんも自分の所有物にしていたのよ、知らなかっただろうとは言え、世界そのものの一部をね。誰のものでもありはしないのに。私がしたのは、誰にも所有されてはならないものを、右から左に移しただけよ」


「そんなこと・・・・・・、そんなものは詭弁だ! ものを盗んだり、人を傷付けたり、そんなことが許されるはずがない」


「詭弁ならば論理で覆してみて。それも試みないで、ただ相手を罵って終わりだなんて、そんなものは口論にすらならないわ」


「だけど・・・・・・、だけどさ、自分だって、紗仲だって、危ない目に会うんだろ。そうなんだろう? さっき言ってたじゃないか。相手もお前を殺そうとしていたんだって。そんな危ないこと、やめろよ」


「ねえ、それもさっき言ったわよね。大願成就の為ならば、その過程で死んだって構わない。命の一つや二つくらい。それだけの覚悟はあるのよ。その程度の、命を賭ける程度の覚悟もなければ、自分の方が大切だなんて程度の願望しかない人間は、初めからこれを求めてはいないのよ。理想と自分、優先順位が違うの。死んだっていい、この世の為にはたとえ自分をけがしても、たとえ自分が死のうとも、たとえ自分の手を汚そうとも、全くもって構わない、それくらいの人しか争奪には関わっていないの。命以上の大志を持った者だけが、これに参加する資格がある。・・・・・・貴方だってそうだった筈よ。だから、私は好きだったのに」


「俺は、そんな事はしやしない!」


「そんな事って・・・・・・。貴方は、記憶を取り戻してもそんな事を言うつもりなの」


「取り戻すも何も。俺はそんな人間じゃない。・・・・・・そもそも別人だったんだ。俺じゃない。お前は、俺のことを別の誰かと勘違いしたんだ」


「そんな事。・・・・・・だけど、ええ、そうなのかもね。私が好きだったのは、他の総てを犠牲にしてでも叶えてやりたいという、大きな志を持った方だもの。世界を視野に入れた方。そして彼は私を涙ぐませることが出来た。だけど、今の貴方は、――」


「そうか。分かったよ。やっぱり別人だったんだ。俺達は、本当は無関係だったんだ!」


「・・・・・・そうなのかもね」


 米彦はきびすを返す。歩き出す。


 紗仲に見送る勇気はない。


 が、彼女の耳は彼の足が止まったのを聞いた。面を上げる。しかし彼は振り向かない。


 米彦は背中越しに、


「そうだ。今日、ずっと考えていた」


「なに」


「昨日さ、山吹が転落したのは、お前が付き落としたんだろう?」


「な・・・・・・」


「お前は、山吹が怪我をしない、いや、怪我をしても自分が治せると分かっていたから、あんな事をしたんだろう?」


「しないわよ!」


「山吹はさ、押し飛ばされたみたいな感覚だったって、言ってたじゃないか。お前はこの山を歩き回られたくなかった。だから事故を起こして、無理矢理にでも下山させたんじゃないのか?」


「何で、そんな事を考えるの」


「お前は何度も言っているじゃないか。どんな事でもするってさ。殺そうが殺されようが誰かを傷付けようが、どんな事をしてでも手に入れる、と」


「それとこれとは別でしょう」


「同じだろ。お前はこの山を探られたくなかった。ずっと引っ掛かっていたんだ。幾ら運が良かったとしても、擦傷一つ、怪我一つない。それは余りにも都合がいいじゃないか。それで、お前が万能膏だっけ? 見せてくれて、分かった、ああ、全部計算づくだったんだって」


「違う、違う!」


「同じだって。どんな事でも覚悟の上、命の一つや二つくらい。だろ? いいよ、俺は忘れるから。結局、山吹は怖い思いはしたけれど、結局は、無事だったんだから。何もなかった。そうだろ?」


「私は、そんな事は、していない」


「いいんだって。結局、何もなかったんだから。俺も、すぐに、忘れるから」


「何でそんなに疑うの。私を信じてくれないの」


「他人を傷付け、盗み、殺す、どんな事でも厭わない。それなら、嘘を吐くのも平気だろ? 君は言っていたじゃないか、記憶を持っていた頃の俺は凄かったんだって、結局は人違いだったけれど、それはともかく、そんな俺を信用させるためなら、この程度の嘘、平気だろ?」


「平気じゃないわ」


「さようなら」



◆◆◆◆◆◆◆◆



 どことも知れぬ暗い密室で高緒は姿見すがたみを覗き込んでいた。唇を噛み締め、髪を握った。鏡には黒目がちな両目に涙をたたえ、必死に嗚咽をこらえている少女が映っている。


 髪を掻き毟り、髪型を乱して再び覗く。塞がり掛けていたこめかみの裂傷が口を開け、だくだくと血が溢れ出す。頬を伝い、唇をなぞり、顎から垂れる。何度繰り返したか分からない。乾いた血糊が何層にも重なり、その上をまた新しい血が塗り込めて、鏡の彼女は凄まじい形相ぎょうそうをしていた。


 血化粧などは何物でもない、彼女は思った。血など洗い落とせばいい。こめかみの傷も何でもない。彼女の治癒力を以ってすれば半日で跡形もなく消えるだろう。しかし紗仲に斬り落とされたこの髪は!


 周りの髪を幾ら乱して隠そうとしても隠し切れない、はっきりとそこだけ地肌が見える。あばら屋で髪をく骸骨にも比すべきおぞましさ。残った髪を硬く握れば、染みた血潮がびしゃびしゃ落ちる。この埃っぽい隠れ家には、きっと猫より大きな鼠だっていることだろう。唇の端から木枯らしに似た息が漏れる。


 どうしたらいい。どうやって明日からあの人達に会ったらいい。こんな容姿で、とてもあの人に会えはしない。


――しかし、どうしてあんな所に。やはり紗仲がそうであるなら、彼もまた・・・・・・。


 いや、しかし、それは、今はいい。いずれにしたって、今生こんじょうに限らずいつかは分かるか、分からないなら、永劫会われぬ状況になっているのだから。


 そして、今、私の髪は――。


 短くしようとも考えた。しかしそれでも追い付かない。記憶と知識を捏ね繰り返し、髪を伸ばす方法がないかを探した。全てを忘れないでいられる私が、それだけ忘れているだなんて事もなかった。これから急いでそうしたものが記されている万巻韋編を求めるか。そんな都合よく得られるならば、三千年も苦労はしない。


 鏡の中の女が恨めしそうにこちらを見ている。


 高緒は鏡を殴り、割った。ガラスが破片となって砕け散る。微かな光が反射して、下から彼女を照らし上げた。目鼻の影が虚ろな表情に逆しまに浮かびかがる。


 髪は女の命と言い、鏡は女の魂と言う。髪を斬られ、鏡を割った彼女の体は、ただ力なく崩れ落ちた。呻き声が暗室に響いた。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 あの山の暗い洞窟で紗仲が膝を抱えていた。唇から漏れているのは、痛い、痛い、と呟く声に、すすり泣く声。


――結局彼は行ってしまった。もう二度と、彼に会う事は叶わぬかも知れぬ。たとえ記憶を取り戻そうと、今日の記憶を失わなければ、彼は私に会ってくれない。余人は知らん、万巻韋編を求める我らが、記憶を思い出すことこそあれ、失うことなど決してない。あそこで何か誤魔化すべきであったのだろうか。否賢い彼のこと、高々そんな小細工など、見破ろうとするまでもない。


――私は馬鹿だ。どうして永久に彼を失うようなことを。戦略家たらんとして戦術を棄てる心でいて、結局彼を失うなんて。賢がった罰が落ちたか。こんなことなら今生では、韋編の収集など止めれば良かった。来世でだって、来々世でも、そんなことは出来ただろうに。たった少しに固執して、何もかもを台無しにしてしまう。二千年前から私は変わっていないのか。会いに行きたい。しかし一体どの面下げて。会いに来て欲しい。だけど憎いと思う私にどうして。畢竟ひっきょうの所、私の全ては終わってしまった。


 喉の奥から声が漏れ、小壜からすくった膏薬を首筋に塗り、腕に塗り、昼の決闘でやられた傷を癒していく。あまりの痛さに涙が零れる。


 体の痛みが消えているのに気が付くと、想いは乱れ、心の内側に激痛が走る。


 太腿を強く抓り、苦痛をこらえ、そこへ膏薬を塗っていった。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 八重は呆然としていた。


 朱莉ちゃんと紗仲ちゃんは男二人を連れて行ってしまった。案の定、いつまで待っても戻っては来ない。母親もあれから邪魔をしには来ない。と言うか多分どこかへ出掛けてしまっている。娘が転落事故を起こした翌日だというのに何と呑気な。


 それで、今この部屋にいるのは、私と藤岡だけだ。私を一人残して帰るのもなんだろうという事だろう、藤岡は何を喋るでもなくぽつんと座っている。


 八重は心臓が鳴りっぱなしだった。


「ああ、あのう、さあ」


 掠れた声で八重が言う。


 藤岡は眼で問い掛ける。


 その瞳を見て、八重は何を言ったらいいのか分からなくなる。


「だから、さ」


「何なんだよ」


 彼の目が柔らかく笑う。新鮮な魅力だった。こんな優しい顔もするなんて。しかもそれは、私に向けられたものなのだ。つい、言ってしまいたくなる。


「あ、藤岡?」


「何だよ」


 胸の奥が締め付けられる。もどかしい。


「だから、さ」


 和也は自分なりに八重が何を言わんとしているのか考えた。何か言いにくい事らしい。そして出した結論から、


「帰って欲しいなら、帰るぞ」


「違う! その、さ、聞きたかった事があって・・・・・・」


 浮かした腰をまた下ろしたのを見、安堵した。


「その。心配した? 私のこと」


「当り前だろ。聞きたかった事って、そんな事か」


「違う。だから、その」


 和也は本当の質問を待つ。


 しかしそんなものはないのだから、適当に何かを聞くしかない。


「あの、・・・・・・昨日さ、可愛い女の子を紹介してくれって言ったじゃない」


 きょとんとし、


「あ、ああ。何でまたそんなことを」


「それってさ、つまり、その。それって、私よりも可愛い子じゃないとダメ?」


「そりゃあ、可愛ければ可愛い方が嬉しいけど。つか、そんな冗談を真に受けるなよ」


「ちゃんと答えて、くれないと、紹介できないでしょ。だから、藤岡的には、私くらいでもセーフなの? ほら、私、友達多いじゃない? だから、誰を紹介したらいいのかな、なんて」


 俯いているのに、じっと見詰められているのが分かる。彼女にそれを真正面から受ける勇気はない。指が固く噛み合わさり、象牙のように白くなっていた。


「ああ、お前くらいなら喜ぶかな」


「本当?」


「だけど、まともな性格の奴な。紹介するのが韮川にらかわとか根木とかだったら怒るぞ」


 それは韮川根木両少女に失礼な言い方だったが、既に彼女は聞いていない。ぽんやりと頭に花を咲かせて、


「へえ、へへへ。そうか。分かった。よく考えておこう」


「おう、いい子を紹介してくれ」


 終わる会話。


 手持無沙汰に和也は、床に落ちていたファッション誌を捲り始めた。こうしたものを見たことのない彼にとってはもの珍しかった。


「藤岡?」


「ん?」


「それ、面白い?」


「別に」


「そっか・・・・・・。それじゃあさ」何が、それじゃあ、なのか分からないが、「その中だと、どれが、・・・・・・それに載っているのだと、藤岡はどんなのが好き?」


 別にどれだって似たようなものに見えるが、そう聞かれれば真剣に考え始めて、


「そうだなあ。これ、とか」ページを捲り、そこにはなかったのだろう、また捲り、「これ、とか。可愛いんじゃないかな。・・・・・・あと、うんと」


 覗き込むと、彼の周囲に漂う匂いにくらくらした。選んだ服を目に焼き付けて、


「へええ、藤岡って、そんな趣味なんだ。変なの。センスないの」


「うるせえな。つうか、これ買ったのはお前だろ」


「別に私はどんなのが載ってるか知って買ったわけじゃないもんね。選んでるのは藤岡だもんね」


 雑誌ごとに傾向があることくらい和也だって知っているが、わざわざ反論する気も起きない。碌に見ないで雑に捲る。


「それから、他には?」


 いつの間にか隣に移った八重が、少し体を寄り掛けて聞く。和也は面倒臭く感じながらも義務感から、彼女が飽きたと言うまで、幾つかの服を指差していった。

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